13 巨大な渦(第二楽章)
ファゴットの印象的な装飾音に、ふとマイニエリはわれにかえる。
どうやらぼんやりしていたらしい。
マイニエリは一瞬みずからが新設音楽劇場で着席していることを忘れていた。
昼前に教え子たちとたわむれたことを、うたた寝でみた夢のように思いだしていたのだった。
もっとも、まわりからは椅子に深々ともたれこんでいる老人が、ときどき目を閉じたり開けたりしているようにしかみえなかっただろうし、そもそもマイニエリの動きに執心している人がいなかった。
世の中にはいろんな人がいるし、いろんな思想がある――どれだけ長いあいだ生きてきても、それを痛切に感じるときはあるものだよ。
マイニエリはそうつぶやいた。劇場にはオーケストラの演奏がひびきわたっていたから、だれにも聞こえなかったけれど。
となりの詩人アルフォンスも、まぶたを閉じたまま身じろぎひとつしなかった。
作曲家のギュスターヴは、まるで巨大なキャンバスに画を描くように指揮棒をふるっている。
太い筆で描かれるおぞましい渦が、目にみえてくるような迫力だった。
第二楽章に移っている――。
優雅に空を舞うような第一楽章は終わり、地に足のついたリズムが刻まれていた。
辺境民族的な軽快な調子の旋律が、劇場内に華やかな空気をもたらしている。
あやつり人形が群れをなして踊っているような愉快な躍動感があり、その人形たちがよろこび、怒り、哀しみ、楽しむといった展開が、おとぎ話のようなおだやかな雰囲気をつくりだしていた。
瞑想している詩人はどんな風景をみているのだろう。
マイニエリはその横顔をみつめる――。
そのときアルフォンスの脳裏では、いにしえの悪魔の挿話にもとづいた創作物語が発展してつづいていた。
詩人の目には、おだやかな集落がひろがっている。
それは第一楽章のときに天空より俯瞰でみた、閉ざされた土地において長いあいだ忍耐づよく生きぬいてきた少数民族のその後のすがたである。
絶え間なくおとずれる嵐や落雷、旱魃や虫害などの災害をこうむってもなお、着実に繁栄してきた人々の営みがそこにあった。
せまい渓谷においても、ゆるやかな人口増加にともなって、やがて集落はひとつの国となった。
勇敢な若者が集落をひとつにまとめて族長となり、族長がそののち王となり、役割をもった組織がいくつか創設され、土壌や水が管理され、それによって富がたくわえられ、計算されて分配される。
後世にも語り継がれる発明家が出現し、革新的な技術が開発され、その恩恵で人々の暮らしは安定していった。
家畜もよく育ち、開発された農地も豊かに実りを迎えた。
死亡率の減少と出生率の高まりによって人口は安定的に増え、神の名のもと善良な精神にみちびかれるように芸術、思想がうまれ、建築や服飾、音楽や絵画、文芸といった人間の定義がかたちづくられていった。
原始の不安は少しずつちいさくなり、人々は矢印がさし示すほうへ進むようにして隆盛していく。
さだめられた光は、いちばん星のようにかがやいていた。
そして、ときは収穫の季節――耕作された田畑には実りがあふれ、人々は楽器を奏で、歌をうたい、ぶどう酒を飲み、大規模なかがり火のまわりを輪になって踊って、あたえられた恩恵に感謝し、神をたたえた。
笛の音は高らかに空を舞う鳥たちを呼びよせ、打ち鳴らされる太鼓は谷間にこだまし、若者たちが全身で表現した歓喜のダンスは、それを木陰からこっそりうかがうヒグマやオオカミたちでさえ胸がおどるような陽気さだった。
いつかの苦しみはいまのよろこびをもたらし、いつかの涙はいまの笑顔をもたらす。
色づいた葉に囲まれた豊饒の大地に、音楽はやむことなく鳴りひびいていた。
しかし――。
しかし、世界は環のようにめぐる。
昇った太陽がやがて沈むように、次第に王国にも暗い影が落ちてきた――。
高らかな踊りのリズムは、ところどころ荒々しく、不穏な鼓動をきざみはじめる。
それはなまぬるい風が西の空にもたらす暗雲のように、聞く者のこころを重くした。
まっくらな穴の奥からなにか悪いものが這いでてくるみたいに、徐々に陰陽の動機がいりみだれ、曲想は混乱した。
それはまるで異郷の神が怒りとともに放ついかずちのように、人々のよろこびの歌をかき消していく。
残された大地には吹きぬける風のゆらす枝葉の音だけがひびき、人々は動きをとめ、見あげた空を一羽の黒い鳥が暗示的に通りすぎていくだけだった――。
それでも人々は悟っていたのである。
その、つかのまの静謐は、世紀の天変地異の予兆に過ぎないことを――。
ギュスターヴは指揮棒をぴたりととめる。
まるで無風状態のような沈黙が会場を支配して、第二楽章は結ばれた。