12 旅人と水鳥
師のくつろぎ部屋はドアを開けると暗幕がかけてあり、それをくぐると真っ暗だったため、視野がゼロになった。
しかしつぎの瞬間には、天井や壁に点々と配置されたランプに灯がともされた。
師が魔法を使ったのかもしれないし、人の気配を察知して点灯されるマジックアイテムという可能性もある。
それでも窓には黒いカーテンがかかっていたので、室内はそれほど明るくはならなかった。
むしろ、ふしぎと闇が深くなった印象がある。
ランプ灯りがまるで夜空の星のようで、パティは動けずかたまってしまった。
部屋には雑貨のようなものも粗雑に置かれていたが、あちこちに無数の絵画が画架に置かれたり額縁に入れられたりしており、それらがランプのあかりで照らされるように工夫されているようだった。
部屋の中央にわりと大きなソファが置かれていた。
そこで沈みこむように坐りこんで休んでいる師のすがたが容易に想像できる。
「ほれ、間口につったっていることはなかろうに」師の声だけ、ずいぶん奥のほうから聞こえた。「まぼろしの森とはちがうから、もどれなくなることはないよ」
冗談なのだろうが、あまりそう聞こえなかった。
しかし、気づけばシャトレは師に追従したらしく、となりにはフリーダしかいなかった。
なんとなくパティはフリーダの腕につかまる。モカはパティの頚に巻きついてきた。
あたりまえなのだろうが、なるべくしてなったというような感覚がとても強くする。
二人は美術館で展観するように、一点一点の絵画をながめることにした。
師とシャトレはさきにまわっているようだ。
まるで入場制限のある人気の展示会のようだ。
師とシャトレがこそこそ小声で話しているさまが、デート中のカップルみたいでふだんなら笑えただろうが、ふしぎとおかしくなく、フリーダも茶化したりしなかった。
師たちは〈星のふる丘の街〉というタイトルの絵画のまえでひそひそ話している。
「熱病の問題ではないのかもしれません……」「身体の救済というのが先決事項ではある……」「心の問題だとも……」「時が経つということは、もとにもどらないという意味でもあるからな……」など、ところどころ会話が聞こえてくる。
そういえば、シャトレはパティが人魚騒動でかりだされるまえ、草原の国に医師ランディの随伴として派遣されていた。熱病を罹患した少女の看護を要請されたとか――そのときのことを話しているのだろうか。
「これって、じっさいにある風景なのよね」フリーダがつぶやいたため、パティは視線をもどす。「――うん?」
二人のまえには砂漠があった。
画の上部には、遠く蜃気楼にまぎれた城郭が浮かびあがっている。
手前のほうには河か、あるいはオアシスと思われる水辺があり、その中間の砂漠をキャラバンが進んでいる。
らくだたちも人も横向きだが、城郭都市をめざしていると思われる構図だった。
太陽がまぶしいほど強烈に描かれているが、ふしぎと熱射はあまり感じられない。
どこか無機質でもある。
「ここって沙漠の国なんだね、きっと」フリーダが腕を組む。
しばらく黙ったままみつめて、なんとなく無機質に感じられた理由がわかった。
沙漠の国がもう存在しないからだ。
パティはフリーダと目を合わせて承知しあった。二人のなかにある都市の欠落感が、そのまま絵画の印象につながっているのだろう。
沙漠の国は〈鹿の角団〉の襲撃によって(一時的にではあるのかもしれないが)滅亡している。
現地調査隊に参加したマイニエリ師がその判定をくだした。
しかし、王子と宮廷魔法使いだけ生存し、からくも脱出して、草原の国経由で内海をわたり、今般の記念祭に合流したのだという。
ちょっとした噂になっているのだとセルウェイやストックデイルも話題にしていた。
ほんとうはもっとずっと現実として過酷な光景なのだろう。
淡白な絵画をながめながら、パティは想像した。
すると、絵画自体がとても残酷なものにみえてくる。
同時に二人して、ため息をついてしまった。
順路をめぐるようにして移動する。
きぬずれの音が静かな部屋にひびく。
師とシャトレも室内をめぐっているらしい。
パティたちも、つぎの画をみた。
雪渓だった。
大雪山の一角に渓谷があり、針葉樹の森のなかに大きなみずうみがある。
みずうみは河につながっているらしく、湖面は凍結してはいないようだ。
もしかしたら冬ではないのかもしれない。
降雪といえば雪の国だが、パティはいまだおとずれたことはないので、この風景がどこなのかはわからない。
タイトルは〈忘れられた町の銀河〉だった。意味はわからない。
しかしフリーダに問う気にならず、フリーダも訊ねてこなかった。
白と黒だけで描かれているような作品だったがふしぎと寒々しくはない。
しかし、かといってあたたかみがあるわけでもない。
ただ人の気配はないので、大自然ならではの圧倒的な厳粛さみたいなものが表現されている。
じっとみていて、画の右上部にあたるみずうみの向こうの丘らしきところに時計塔があることに気づいた。これが町だろうか。
みずうみには一羽の鳥がいた。
足の長い白い水鳥だった。
しかしそれだけだった。
意識を投影できるなにかがあるわけでもない。
まるで時の流れが忘却されてしまったかのような静けさだけがそこにある。
なにを意図して描かれた絵画なのだろう――。
そもそもこの部屋にある風景画のすべてが、どういう意味をもっているのか?
右肩のモカがもぞもぞ動いた。
どうやら、小ザルも絵画に関心を示したようだ。
あるいは絵画のモチーフかなにかに興味をもったのかもしれない。
ちらっと横顔をみてみたが、じっとみつめているだけで、小ザルがなにを考えているのかはさっぱりわからない。
しかし、小ザルの真っ黒な瞳をみて、パティのなかに意識のうねりのようなものが生まれた。
なにかがみえたといえばそうなのだが、それを具体的に説明することはできそうもない。
小ザルの瞳の奥に暗示をみたのである。
宇宙のひろがりに散らばる星団に気をうばわれたみたいに――。
パティは雪の山河を放浪している旅人をみた。
ぼろぼろの長衣をまとい、四季を問わず場所を問わず、ただ歩き、旅をする人である。
ときに大木のほらで眠り、腹がへれば岩陰で木の実を食い、のどが渇けば沢の水を飲み、民衆の悩みに耳をかたむけ、山鳥たちの声に合わせて横笛を吹き、動物たちと戯れあい、目についた景色を写生する。
旅人は絵画を描きつづける。
筆をすすめる作業は淡々と呼吸のようにつづけられ、それはまるで地球をめぐる大気の流れのように静かだが着実なものとなる。
やがて音はなくなり、旅人はぐにゃぐにゃと景色のなかに溶けこみ、世界がひとつになる。
そうして、一枚の画が完成する頃、ようやくパティにもなにかがわかりかける。
しかし、その答えを口にしようとすると、強風にさらわれる紙きれのように、パティは言葉をうばわれてしまう――。
――雪景色につつまれていた。
パティは呆然とふりつもった雪のなかでたたずんでいた。
灰色の空からは雪片がちらほらと無軌道に落ちてくる。
パティは気づく。
旅人の視界に同化しているのだろう。
雪渓のなかにいて、旅人は絵筆をもってたたずんでいた。
風は冷たく、息はまっしろで、パティはゆびさきの感覚をうしなったような気がしてくる。
銀河のような渓谷にいて、研ぎ澄まされた空気は完全な無音だった。
遠くに沈む太陽を見送ったときのように、少しだけ気が遠くなったあと、画を描く作業は完了する。
ふと、みずうみに、足の長い白い水鳥がやってきて、ひとつの波紋を残し、やがて飛び去った――。
パティは目を閉じる。
だれかの声がした。
宇宙は大河のごとく流れ、変容していく。水鳥がもたらす、みずうみの波紋のように。
そのわずかなゆらぎは、絶えず消えることなく環をひろげ、いつまでも、どこまでも、反響していくだろう。
そして、太陽は太陽になり、谷は谷になり、森は森となり、みずうみはみずうみとなる。
世界が世界であるということは、あなたがあなたであるということだ――。