64 どこでもないところ
高い空のもと、二頭だての小型公用馬車が高原を進んでいた。
幌には水の国の花冠騎士団の徽章があり、馭者をのぞけば、三人の女性が客車に載っている。
二人の美しい騎士と、騎士たちが警護しているのは小ザルを肩にのせたパティだった。
パティは緊張で頬をこわばらせていたが、それは危険だからではなく、とてもひさしぶりの帰郷のせいだった。
〈まぼろしの森〉から水の国の女王都に到着した一行は、(ヘレン女王不在の)帰還パーティにひと晩参加したのち、それぞれ別行動になった。
アルバート王子、ルイ、ディレンツァの三人は所定の手続きが済み次第、王都へもどることになり、任務を終えていたステファンもそれに追従することになった。
ルイが両手をだしてきたので、パティも両手で握手をした。
「いろいろありがとう、また王都で逢おうね!」
「すみません、あまりお役にたてなくて……」
「冗談はよしてよ――期待してるわ!」
「それはこまります……」
去りぎわ、ステファンもにこにこしながらピースサインをしてきた。
フィオナ王女は、女王と顔をあわせたくないらしく、そのまま詩人アルフォンスとともに湖水地方の調査にでるつもりらしい。魔女に逢いにいくのだとか話していた。
「あなたはおうちに顔をみせるのよ、いいわね」とフィオナが念押しして、馬車にくわえて騎士を二人も案内につけてくれたので、パティは生まれ育った村落に寄っていかざるをえなくなった。
フィオナが女王に逢わない理由は、あとから騎士の一人がこっそり教えてくれた。
フィオナはいま期限つきの自由行動がゆるされている時期なのだという。
しかし、それを耳打ちしてくれた騎士は、どことなくせつなげな表情をうかべていた。
出発してからずっと、夜になれば風が少し冷たいぐらいで気候は過ごしやすく、日中は陽光もそそいでいたので、馬車の幌のなかで、パティはひさしぶりに落ち着いた時間を過ごした。
〈まぼろしの森〉での顛末を〈魔導院〉にもどったあと、どのように報告書としてまとめるか考えたりもした。
そして、その過程でルイたちの〈樹海の村〉でのかりそめの生活を疑似体験したことを思いだし、ルイのうるんだ瞳や、陶酔したような表情――アルバートの照れた半笑いや慈愛のこもったまなざしに、あまり経験したことのない胸の高鳴りをおぼえた。
ウンブラの燃えあがるような性的興奮や、レムレスの身を焦がすような恋心が、パティの胸の深いところを熱くした。
人間も動物であり――そんな獣性が少しこわい。
自分もいつかそんな恋路をあゆむことになるのだろうかと不安にさいなまれたりした。
のちのち、〈魔導院〉での言語学の授業で、パティは辞書をみていてふたつの単語を発見し、驚くことになる。
未分類古代文字において、ウンブラは影を、レムレスは幻を意味するのだという。
それが偶然なのか、どういうことなのかまでは、わからなかったけれど――。
また、〈魔導院〉に帰還後、報告書をなんとかまとめてマイニエリ師をおとずれたとき、〈幻の司〉の導師メディアがたまたま師の自室にきており、パティは疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「風の王は、ほんとうに旅人の願いごとを叶えてくれるんでしょうか?」
「どうだろうね。どう思った?」
導師は白い長髪に手櫛をする。
頭髪だけで全身を包めそうなぐらい長くてふさふさの髪だ。
「少なくともアルバート王子たちの援助要請には応えましたよね」
「その昔、ヘレン女王は〈湖面の蝶〉をおなじようにして手に入れたらしいぞ」
師も長いひげに手櫛をしながら会話に入ってきた。
「――ということは、やはり叶うということでしょうか」
パティは両手をあわせる。
「だとしたら、アルバート王子が沙漠の国をもとどおりにしてほしいと頼んだら、それが実現したりするのですか?」
師と導師は手櫛をくりかえす。
しばらくして、「ディレンツァ宰相はそう考えてはいなかったね。私もそう思うが」と師が答える。
導師もうなずいた。
「それはないだろうね。ヘレン女王の場合は自分がもっていたものを渡しただけ、アルバート王子の場合も自分の能力を貸してやるだけで、風の王が全知全能なわけではないだろう。そもそも妖精や精霊って気まぐれだし――」
「そうですか……」
パティはもじもじする。
「あ、あと私が精神感応した相手はやっぱり蝶たちだったんでしょうか?」
「わからないね、私もみたわけじゃないし」
導師が即答すると、師もうんうんとうなずいた。
「アルバート王子たちが滞在した、時間軸のずれている村落は、〈まぼろしの森〉のどこかにほんとうに存在するんでしょうか……」
後半はつぶやきみたいになってしまい、師も導師もまるで聞こえていないみたいに別々のほうをみている。モカも右肩で爆睡していた。
部屋が静まりかえると、風の音が聞こえた。
導師がふと、晴れた窓のそとをみつめて、つぶやいた。
「あらゆるものが移ろいゆく。だれひとりとして、近づけない場所もきっとある。そこがないとだれが断言できるだろう」
天井を仰ぎながら師も息を吐いた。
「まァ、どこでもなくてもいいんじゃないかね」
フィオナと同じ意見だ。
そして、パティは帰郷のさいに自分もそう叫んでしまったことを思いだして、ちょっとはにかんだ。
すると、空色の瞳をした導師が微笑する。
「そんなどこでもないところを心と呼ぶのかもしれない――」
――女王都を出発して五日目に、ようやく高原に入った。
生家は〈ひつじ雲の村〉という山岳地帯の村落だった。
人口は200人もいない。酪農、畜産、放牧が主体の辺境である。
標高があがるにつれて気温がさがってきて、風も強くなってきた。
遠くの山脈に沿って流れる雲は速く、どんどんそのかたちを変えていく。
「あ――」
パティは思わず声をあげてしまい、それによってモカがめざめた。
騎士たちは後部座席でつつましく背筋をのばしている。
なつかしい景色が視界にとびこんできたのだ。
山頂付近が白くなった高山を背景にした広大な牧場と、そのわきの牧道だった。
道に沿って不定期に生えているブナの樹を横目に馬車は進む。
立札のある分かれ道にきて、「あっちです!」とゆびさすパティの声はうわずってしまい、騎士たちが口もとをおさえてほほえんだ。
牧舎のわき――そこで五年まえ、8歳のパティは隣家の羊たちに襲いかかろうとしていたヒグマの親子のあいだに割って入り、旅の魔法使いに精神感応の才の片鱗をみせ、〈魔導院〉へといざなわれることになった。
なんだかとても昔のことのような気がして、そして、牧柵にせよ、倉庫にせよ、すべてが記憶よりも少しちいさいような気がして、胸がいっぱいになった。
淋しさにも似た気持ちがこみあげ、パティは鼻の奥がじんとして、ふいにあふれそうになる涙をかくすために目をこする。
小ザルがキキキと頸まわりに抱き着いてくる。
赤い三角屋根のふるい木造住宅――それが目に入った瞬間に、パティは客車から跳びおりていた。
騎士二人があわてて腰をうかせたものの、勢いよく駆けだしたパティをみて、顔を見合わせてうなずいただけだった。
家の前庭には丈のあるキバナコスモスが咲き乱れ、母親が用意したであろうスイートアリッサムやパンジーの寄せ植えとダリアの鉢植えが無造作に置かれている。
そして門構えには、みたことのない秋バラのアーチがつくられている。父親が造ったにちがいない。
するとドアを開けて、重そうな樽をかかえた父親がでてきた。
そして、走ってくるパティをみて、目を大きくする。
「ただいま!」
息を切らせながらパティが叫ぶと、父親はにっこりしたあと頸をかたむけて、となりに声をかける。
すると、キバナコスモスでみえなかったドアのわきで、かがんで作業していた母親がスコップ片手にゆっくりたちあがった。
パティは両親のすぐそばまで駆けてきて、荒れる呼吸をととのえる。
「ねぇ、私、どこでもないところを通ってきたんだよ!」
高貴なおつきをしたがえ、右肩にふしぎな小ザルをのせて帰ってきたパティの興奮した顔をみて、両親はほほえみながら小首をかしげた。




