10 幻といつわり
太陽はゆらゆらとゆらめき、ときどき大きな雲がもくもくと現れて陽射しを遮蔽することもあったが、それでも湿気をふくんだ大気はむし暑く、走るとすぐに汗がふきだした。
パティは親友のフリーダとともに〈魔導院〉に急いでいた。
早朝に開祭を報せるかんしゃく玉の祝砲を鳴らしたのち、教師たちから許可をとった院生たちは見晴台からいっせいに城下街にむけて駆けていった。
ふだんは門限も厳しく、街で終日過ごせるようなことはないので余計に興奮するのである。
しかも例年より規模がずっと大きいので、だれもがいつもより期待にあふれた瞳をしていた。
もちろんパティをはじめ、いくつか業務担当をもっている院生たちは強めに釘をさされたけれど。
「今日は少しぐらいなら定時を守らなくてもかまわないが、たとえばパティ――飼育係がハメをはずしすぎると、どうなるかはわかるよな?」
もともと祝祭だからといって動物の世話を雑にしたいとは思わないので、パティはそれをプレッシャーとも感じなかったし、「はーい!」と元気よく返事をしたものの、やはり城下街には刺激が満載だったせいで、当初いったんもどろうと決めていた午前10時を看過してしまった。
パティ、フリーダ、セルウェイ、ストックデイルの四人組はときに歓声をあげ、ときに大笑しながら路地をねり歩いたが、100年祭という名目は伊達ではなく、参加者も協賛組合も支援団体も過去最多だそうで、商工会のバックアップもあいまって、たった四時間ほどでは中心街までいくことさえできず、近場の街路を一巡するだけで期限がきてしまったのである。
異なる人種、職業、衣装、訛りがいりみだれ、世慣れないパティは酔ってしまいそうなぐらいめまぐるしい状況だった。
社交性の高いフリーダたちとともにいなければ、前後不覚になってしまったにちがいない。
部外者との接触が増えることでトラブルも増えた。
なかでも、外套に身をつつんだ背の高い戦士風の男のブーツをふんでしまったときは、パティも恐怖で青ざめてしまった。
外套のすきまから真っ黒な甲冑やずいぶん大きな剣束がみえたこともそうだが、男の目つきがあまりにも無感情で絶句してしまったのである。
フリーダがすかさず全力で謝罪してくれたおかげで、男の連れらしき女(これまた外套のすきまからのぞく恰好の露出の多さが、一見すると街娼とかんちがいしそうになる)が「気にしない気にしなーい」とにこにこしてくれたので、なんとかことなきを得たのだった。
勧誘にも目がまわりそうだったし、同世代の子どもたちとの軋轢もあった。
とくに骸骨や蛇のタトゥーをした生意気な男の子たちには手を焼いた。
パティたちが魔法使いのたまごであることがすでに気に入らないらしく、「調子にのるなよ、オレのバックには〈鹿の角団〉がついてるんだからな!」と脅されたりした。
パティは少なからずショックをうけたが、セルウェイやストックデイルは中指をたてて挑発をしかえし、フリーダも舌をだして牽制した。
「けんかする理由がないよ」パティがくちびるをかむと、セルウェイが「向こうが勝手に劣等感をもってるんだよ」と片目を大きくし、「ふりかかる火の粉をはらっただけさ」とストックデイルがめずらしく同調した。
フリーダがパティの手をとる。「好意にも嫌悪にも理由なんかないのよ、きっと」
「だいたい、うしろだてにだれだれがいる、なんて脅しはろくなもんじゃないよ」セルウェイが鼻の穴をひろげると、「せいぜい先輩なり隣人なりが〈鹿の角団〉にいるとか、知り合いの知り合いが関係者だとかその程度だろ。そんなもの、そいつ自身の強味にはならない。自分だけじゃ不安で心細いって宣言してるようなものさ」とストックデイルもきざに髪をさわる。
「うーん」パティは悩む。「そんなの、みんなおなじなんじゃないかな……」
すると、パティの右肩で寝ていた小ザルのモカが、急に起きて頚に巻きついてくる。
くすぐったいうえ暑いので、パティはうめく。
それをみて、ほかの三人が笑った。
ひとしきりモカと格闘してみんなの笑顔をみていたら、まわりに流れる陽気なチェロやふいごつきバグパイプが聞こえてくるようになり、パティたちは気をとりなおして、ふたたび街道を散策しはじめた。
街路の交差点までくると、パントマイムで延々男女の恋模様を表現しつづけるコンビ芸人や、大玉のうえでトスジャグリングをする軽業師や、マジックアイテムを駆使してとびだす竜を宙に映しだすあやしい商人や、美女を大剣でまっぷたつに斬ったのちふたたびつなげてもとどおりにする奇術師や、匂いをかいだだけで雪原にいるような錯覚を味わう奇妙な粉をふりかけてくる謎の老婆の出現など、夢中になれるイベントもいっぱいあったが、パティやフリーダは大陸じゅうの小物やアクセサリーが集められた雑貨屋や、衣服がまとめ売りされている洋服屋に熱中した。
「かわいい!」を二人で500回は連呼した。
おかげで時間がくるのが、あっという間だった。
しかも少し遅刻しそうだった。
万が一遅れそうなとき、モカが毛をひっぱって報せてくれるはずだったのだが、モカはモカでずっと爆睡していたらしい。暑さが苦手なのかもしれない。
「中央第一広場までいけばサーカスなんかもきてるし、闘鶏なんかもやってるらしい!」セルウェイが興奮して目をきらきらさせると、「もっとすごいものもみられるかもしれないぜ!」とストックデイルも同調した。
話の腰を折る気がしたが、「あ、ごめん、私そろそろ動物たちのお世話にもどらないと……」とパティが言葉を詰まらせると、「それじゃ、私もいっしょに帰るわよ。目がちかちかしてつかれちゃった。もう歳かなァ」とフリーダがウィンクしてきた。「中央広場は男子たちだけでいってらっしゃいな」
男の子二人は顔を見合わせて少し考えたものの、「いったんもどるけど、午後にはまた街にくるからね」とパティがにっこりすると、「わかった、きっとだぞ!」とわめきながら、二人して人ごみに消えてしまった。
「見世物のたぐいなんて、男だけでみたほうがいいものも多いんだわ」フリーダがやれやれと両手をひろげる。
「え、そうなの?」パティがきょとんとすると、「そういうものなの」とフリーダはパティの手をひく。「さ、急ごう――」
そして、城下町の入口門のところから市民用無料巡回馬車にのったのち、最寄り停留所でおりて休み休み、〈魔導院〉まで走ってきたのだった。
都市部を離れて、大きな橋をわたり、住宅街をあとにしてまっすぐ進み、田舎路の風景がひろがったところで、やがて院の敷地である林がみえてくると、それでもなんだか安心してしまうところがあった。
もともと出身が(水の国の)山奥だからかもしれない。
街並みよりも自然の風景のほうがしっくりくるのだ。
院の入口には通称〈古木の芽〉と呼ばれる門構えがある。
もっとも、建築様式もないような粗雑な門で、なにが特別ということもない代物だが、古代文字が彫られた銅版がつけられている。
「まぼろしの名」と書いてあるそうだが、意味について先生たちは教えてくれなかった。
だれもわからないのかもしれない。
セルウェイが教師から聞いた話では「まぼろし」の単語は「いつわり」とも解釈できるそうだ。
「結局わからないな」とストックデイルは鼻をならしたけれど。
そもそも、そうでなくとも院には謎が多いから慣れると気にならなくなる。
門をくぐり、「あぁ、蚊がいっぱいいそうだなぁ」と嘆くフリーダとともに動物たちの飼育小屋のある裏庭へまわっていくと、先輩の魔法使いシャトレがいた。
薬学に関する魔力や魔法を研究している学者肌の女性であり、銀縁の眼鏡が似合う美人だった。
落ち着いた雰囲気で大人っぽいため、最初はとっつきにくい印象だったが、じつは冗談なども通じるし、男女問わず慕われていた。
「あら、もどってきたの? まじめね」シャトレはほほえむ。
「シャトレさんこそ!」とパティとフリーダが同時に応え、それがおかしくて三人で笑った。
シャトレは植物園の担当だった。通常は薬草や香草の係だが、みたところ一人なので、今日は観賞植物園や農園のほうも受けもっているらしい。そちらの担当者たちは街にくりだしているのだろう。
「まぁ、草花は不満でも声をださないからね」シャトレは眼鏡をくいっとあげる。「不機嫌なときは動物なみによくわかるんだけど」
「あれ、そういえば小屋がずいぶん静か?」パティは耳をそばだてる。
いつもなら餌の時間が少しでも遅れれば、抗議の声が鳴りひびく動物舎が落ち着いていた。
しかし、よく聞けば咀嚼音は聞こえる。
「あなたたちが一時帰院すると思わなかったから、私がお世話しちゃった」シャトレの眼鏡のレンズが陽光を反射する。「うまくできているかどうかわからないけど」
「わあ! ありがとうございます!」パティが両手をあわせて開花するように感謝すると、フリーダが「早めに知りたかったわ……」と眉間にしわをよせて、しぼんだ。
その顔がおもしろくてまた三人で笑った。
「せっかくだから、お茶でも飲んでく? ハーブティーが用意できるんだけど」とシャトレが誘ってくれたので、三人は院の本館入口に向かった。
すると、本館のとば口で院の長ことマイニエリ師に遭遇した。
「あ!」と全員が叫んだ。
「そんなに驚かないでもいいじゃないですか」シャトレが笑うと、マイニエリが「そっちこそ」ともじもじした。
ビア樽みたいな体型なので、それだけでなんだか愉快である。
へまばかりする童話の登場人物みたいだ。
「式典に参加されたんじゃないんですか?」フリーダが問うと、「うん、飽きた」と師は鼻の穴をひろげた。
「またそういうことをいう!」パティがにらむと、「仕事はちゃんとしてきたよ」と身をよじった。
マイニエリには盛装という概念がなく、いつも(少しくたびれた)外套を着用しているから、式場からもどっただけなのか、ずっとさぼっていたのかはまるで見当つかない。
「しっかりお勤めは果たしてきたからね。このあとはちょっと休んでから、優雅に音楽会にでもしゃれこもうかと思ってたところ」マイニエリは白髪のもみあげをいじる。「――そうか、きみたちは、かいがいしく動植物のお世話か」
とぼけた老人にみせかけて察しがいい。
しかしすべてが韜晦のようでも、ふしぎと嫌味はない。
「えらいじゃない。感心する。きみたちは〈魔導院〉の幹部候補生だね」マイニエリはにんまりする。
完全にお世辞だったが、悪い気はしないから三人とも切りかえせなかった。
「じゃあ、ご褒美に私の部屋に招待してあげよう」
師はぽんと両手を合わせた。
三人の女子がぎょっとすると、師は頬を赤らめる。「いや、へんな意味じゃないよ?」
三人で糾弾しなくてはいけないところだが、驚いたせいもあってやはり三人とも対応できなかった。
マイニエリの自室は、〈魔導院〉のなかでも禁断領域にひとしい。
パティも8歳のときから院に在籍しているが、自室内部は一度ちらりとうかがったことがあるぐらいだった。
そのときは、たくさんの絵画が不規則にならんでいるのをみた。
「いまからなにをするつもりだったの?」それぞれ物思いにふけっていた女子たちに師が問う。
「あ、えっと、お茶にしようという話でした」シャトレが眼鏡のずれをただす。「カミツレがたくさん収穫できたので――」
師はうんうんとうなずく。「じゃあ、私の部屋で淹れてもらおうかな?」
そのまま師が歩きだしてしまったので、女子たちは顔を見合わせたものの、返事さえできずについていくことになった。
足音が廊下にひびき、階段を昇っていくときも、師が無言だったので三人とも黙ってしまった。
ほかに院生のいない木造の施設はとても静かでうす暗く、窓から明るい光が射してまぶしいほどで、その幻惑的な空気もあって、パティはまるで自分が自分ではないようなふしぎな気持ちになった。
あとでその意見にはフリーダも同意してくれた。