9 人魚のような声
すると入口扉のほうで急に黄色い歓声があがり、拍手が起こったので目をむけると、背の高い麗人がいた。
中性的で、鼻筋のとおった美人だった。
「詩人のアルフォンスだ」ジェラルドが教えてくれた。
「ああ、有名な人じゃない。歌劇なんかの詩もつくってる人だ」ルイがぽんと手を合わせると、「ふーん……よくわからない人ね、初めてみたけど」とフィオナが目を細めながらシナモンガレットをもさもさ食べ、あふれだしたカスタードクリームが口のきわから、だらだらたれた。
ルイはあわてて給仕係からナプキンをもらい、その口もとをぬぐう。
フィオナはじっと詩人をみている。
よくわからないという感想は、おそらく性別がわからないという意味だろう。
確かによくわからない。
しかも全体的にどこか霧がかった印象があることは否めない。
なにか途方もない謎を秘めていてもおかしくないたたずまいである。
アルフォンスは宮廷楽団長や王都音楽院長、政務官、報道官、枢機院代表らと握手したのち、侍女よりグラスの飲みものを手渡され、ひとくち飲んでから窓辺の小型ステージに移動した。
澄んだ瞳はまるでなにもみていないかのように感情がうかがえなかったが、顔には微笑がたたえられ、身のこなしに嫌味がなかったため、ルイは好感をもってしまった。
大人な感じである。
窓の向こうには青空がひろがっており、背後から強い光にさらされている詩人は、全身に影がさしたものの、そのおかげで輪郭がかがやいてみえた。
「――果物みたい」フィオナはグラスをかたむけながらつぶやく。
それは詩人が手にしている楽器の形状のことだろう。
どっしりと重そうな弦楽器だった。現代風ではない。
詩人が一音つまびくと、空間をゆがめるぐらいの大きな音がして、会場が静まりかえった。
アルフォンスはおだやかな語りくちで招待ともてなしに感謝すると、つぎに返礼の演目の解説をした。
声は高くもなく低くもない。
口調だけではほんとうに性別がわからず、噂どおりの人物だった。
中性的という表現が的確なのかもわからないくらいふしぎだった。
女性からみてもわからないのだから、男性にはもっと見分けがつかないだろう。
散文詩に節をつけたものらしく、遠征して創作したものだが、もともとはこの場で披露するためではなく友人の指揮者がどうのこうの――と話していたが、その世間話のような他愛もない説明ですら、耳にここちよいトーンだったので、ルイはぼんやりしてしまい、詳細はすぐ忘れてしまった。
そもそも楽曲のなりたちになど興味がないのでしかたない。
しかし、テーマは人魚らしい。
内海渡航を思いだして、ルイは少しどきっとしてしまった。最近のことなのだが、遠い夜の夢のようなできごとだった。
アルフォンスが朗誦をはじめ、古楽器でリズムをきざみだすと、水面に浮かびつつも、ときどき水中もぐったり、ふいにあたまだけのぞかせたりしながら広い海を漂流しているような気分になった。
最後の人魚の思い出とおなじで、ルイは興奮する。
しかしそれがわかるのは自分だけではないのか――?
まるで詩人と内緒話をしているみたいだった。創作とはそういうものなのかもしれない。
それから胸がざわつくような不協和音がまざったり、禁句でさえありそうな強い古語がならび、それらはまるで相次ぐ試練や、おそれ、不安といった心理や、暗雲にきらめく稲妻や雷光を表現しているように感じられた。
嵐のような弦さばきが会場を凍りつかせる。
頬がびりびりとしびれるような気さえした。
ジェラルドをみてから、離れた場所にいるアルバート、ディレンツァをうかがう。
いずれの横顔も物思いにふけっているようにみえた。
あの三人には、いまのルイの気持ちが共感できるのだろうか――。
気づけばコードは安定し、解放感にみちたアルペジオとともに、美しいソプラノのメロディがひびいていた。
人魚のようなきれいな声だった。
ルイの脳裏には大きなくじらによって暗雲からぬりかえられたかがやかしい星空が浮かび、胸がいっぱいになる――。
やがて演奏は静かな余韻を残して終わり、嵐のような拍手喝采がひびいた。
「音楽っていいわね、のぞきこめば深遠で」ふいにフィオナが息をもらした。
謎めいた感想だった。
ルイが返事に窮していると、ジェラルドが笑う。「人間だってそうだろう?」
「どうかしら」フィオナはおもしろくなさそうに、演奏を終えた詩人に群がる貴婦人たちをにらむ。「あひるのほうがまし」
「ここの人たちはきらびやかなものにこだわりすぎかしらね」ルイは会話に参加してみる。「そのぶん深みはなさそう」
「まァ、外見を装飾するのは人間だけじゃなく鳥類なんかにもありがちだが……」ジェラルドがにこにこする。「でも、女性のほうが着飾るのは人間だけかな」