天城クンの悩み事
喧騒。賑やかな店内。眩しいくらいのライトとアルコールの香り。田中に誘われて駅前の居酒屋にやってきた公平。ビールを旨そうに飲む田中の隣には見覚えのある学生が座っている。以前生協の窓口で騒いでいた男だ。田中と同じサークルに所属する後輩だったらしい。困りごとがあるということで紹介を受けた。名前は既に聞いている。
「えーっと。キミが天城クン?前、生協で見かけたよ。なんだっけ。隣の家が騒がしい?んだっけ」
「は、はい……。殆ど相手にはされなかったッスけど……」
声が届きにくいので多少大声になった。天城に似合わない茶髪は如何にも一年生という雰囲気である。大学に入学して、受験勉強からも解放されて初めて羽目を外してみましたという感じだ。
ぽつりぽつりと話し始めた。隣の部屋に誰も住んでいないはずなのに声がするという。生協の職員と一緒に隣を見に行った時に空き部屋であることを確認したのだが、相変わらず謎の声は続いているらしい。お陰ですっかり病んでしまったとか。公平は心の中で苦笑いした。彼のトラブルに関わるのは運命だったのかもしれない。
天城はどこか怯えた公平の隣をちらちら見ている。そこに座るのはエックス。彼女はにこにこしながら焼き鳥を串から外していた。田中が連れてくるように言ってきたのである。幽霊退治なら自分でも出来ると言ったのだが、「お前は信用ならん」と聞いてくれなかった。
「あ、あの……先輩。この人……その、本当にあの?」
「そだよ?エックスさん。時々空を泳いでる巨人さん」
田中は大ジョッキのビールを飲み干した。近くの店員におかわりを注文している。
「なあ田中よお。なにもこんな騒がしいとこじゃなくてもさ」
おかわりのビールを更に一息で飲み干す田中。その姿に店員は感心している。
「お客さん、いい飲みっぷりですねー!」
「うん!タダだからね!いっぱい飲んでおかないと!つーことでお姉さん!おかわりもう一杯ね!」
はーい、と空のジョッキを回収して奥に走っていく。天城が恨めし気に田中を横目で睨んでいた。ここで公平は察する。事態を解決してくれそうな自分やエックスを紹介する代わりに酒を奢らせているのだ。先輩の風上にも置けない男である。とはいえ。そういう事なら。乗っかるのもやぶさかではない。
「そうか。そういう理由か。俺は何を飲むかなあ」
「ダメに決まってんだろ。お前はちゃんと仕事の打ち合わせをするんだよ」
メニューに目を落としながら、「え」と思わず声を出す。隣のエックスは串から外した焼き鳥に七味唐辛子をかけて食べていた。
「んー!おいしー!公平も食べる?」
「いやいや。この男には仕事の話がありますから。代わりに俺が食べましょう」
田中はそう言ってもも肉を摘まんだ。それからビールをあおるように飲む。羨ましい。
「おー。確かに上手いっすねー!」
「そうだよねー!ボクもこんなの作りたいなー」
「いやー。公平クンが羨ましいっ!……あっ!ほらほらっ!お前らちゃんと打合せしろよ!?」
「……お前さ。こんなことばっかしてるといつか殺されるぞ?」
仕方がないので天城に向きなおる。打合せと言ってもやる事なんて殆どない。ただ日取りを決めて一緒に部屋まで行って中を確認し、本当に幽霊が居たら消滅させるだけである。
「ちなみにどんな声が聞こえんの?」
「えっと……。『助けてー』とか。あとはなんか悲鳴とか笑い声?男女問わず色んな人の声がします」
「ふうん」
「どうなん?マジで幽霊?」
田中は半分開いたジョッキを置いて聞いてくる。
「うーん、多分?よく分かんないけど」
公平は言いながら枝豆を食べた。その瞬間田中は「30円」と言い放つ。
「せこいっ!」
「うるせえラッキーマン。俺はどこかの誰かと違って億円単位の口座はもってないからいいんだ」
あまりに自分勝手な言い分。しかし反論は出来ない。ラッキーであることは事実なのだから。ラッキーなのは宝くじが当たったことではなくて、エックスに出会えたことである。初めて彼女と出会ったあの夜に、散歩しようと思っていなかったらこの人生は大きく変わっていたと思う。
そのエックスはカシスオレンジを飲みながら、ちらっと天城の顔を見た。彼女の視線に気付いたのか、彼の身体はほんの少し震えた。その表情は若干強張っていたが、嘘は言っていないように思えた。──だが。
「公平。ちょっといい?」
「ん?うん」
エックスに促されて席を立つ。彼女の後ろにくっついて店の外まで。振り返ってみせた表情は何らかの疑念を抱いている。
「どうかした?」
「天城クンの話おかしいよね」
「え?そう?フツーの幽霊案件って気がするけど」
エックスは頬を掻いた。何と言うべきか悩んでいる様子だ。
「……だけどさ。本当にそんなに沢山の声が毎晩聞こえるなら彼が入居してくる前から問題になっててもおかしくないんじゃない?でも生協の人には相手にされなかったんだよね?」
「……そうだな」
「そもそもの話として。これが本当に幽霊のせいだったらそれだけの沢山の人がその部屋で亡くなってるってことだよ。隣がそんな部屋で実害まで起きてるんなら職員さんだって何かしら相談に乗ってくれると思うんだ。例えば……別の部屋を紹介するとか?」
「……そうかも」
言われてみればと公平も違和感に気付く。生協が斡旋しているアパートは基本的には学生が住むために用意されたものだ。学生が一つの部屋で何人も死んでいるという状況が本当に起きているのならそれはもう異常である。何かしらの噂になっていたっておかしくない。
「変だよ。どう考えてもヘン!あの天城クンって子は、ウソは言ってないと思うけど……。けど事実ではないんじゃないのかな」
そしてエックスは再び店内に戻ろうとする。
「事実じゃないって?」
「例えば……妄想とか」
「妄想……」
もしもそうだとしたら。だったら自分に解決できる話ではない。何でも出来るエックスであればもしかしたら改善できるかもしれないけど、きっとやらないだろう。何でも出来るということと何でもやるということは違う。彼女は勝手に誰かの身体を治したりはしない。だからコレはそういう医者に相談するべき話だ。
「取り敢えず……今日この後行ってみようよ。そのアパート。ボクらにも聞こえる声かどうか確認してみようじゃないか」
なにもないと思うけど、とエックスは付け加えた。
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日が変わる頃に店を出た。店の外では疑念を抱いていたエックスだったが、席に戻るとそんな様子は見せず、美味しそうなものを好きに頼んでは美味しそうに食べていた。公平はそんな彼女の姿を烏龍茶を飲みながら見つめていた。
バスに乗って天城のアパートへ向かう。以前公平が住んでいた借家から数キロ離れたバス停で降りた。
壊れかけの街路灯が点滅している。周囲にはコンビニのような店はなく薄暗い。どこか不気味な雰囲気が漂っていた。そこから数分歩いて。
「ここです」
天城が指をさす。二階建てのアパート。それぞれ三部屋ずつ。二階の真ん中が彼の部屋。外から見て左の部屋には灯りが付いている。問題の部屋である右側は空き家なので当然暗い。
「ここがねえ。マジで声すんのかなあ?なあ公平?」
田中が声をかける。だが反応できなかった。目の前に立った瞬間に公平もエックスも分かってしまった。この建物は異常性に。
「……は?」
「……え?」
ここは。何かがおかしい。どうして。こんな小さなアパートの一室に、数十ものキャンバスの反応があるのか。
エックスは咄嗟に走り出した。公平は田中と天城に振り返り、空間の裂け目を開く。向こう側は公平が買ってからずっと放置しているマンションだ。
「うわっ!?」
驚く天城を無視して田中と一緒に無理やり裂け目の向こう側に押し込む。
「いいか。外に絶対出るなよ。間違ってもここに近づくなよ!?いいな!?」
了承を待たずに裂け目を閉じた。エックスの後を追うようにしてアパートへ走る。
問題の部屋。エックスは203号室のドアノブをガチャガチャ回しながら扉を何度も何度も叩く。
「開けろ!出てこいっ!」
201号室から小太りでメガネの学生が出てくる。あまりのうるささに文句を言いに出てきたようだ。
「一体何……!」
そこへ。階段を駆け上げってきた公平が後ろからその襟首を掴む。そのままの勢いで彼も自分の部屋に送った。そしてエックスに合流する。
「どうだ!?」
「出てこない。この……!」
その瞬間二人は感じ取った。内部に存在を感じていた幾つものキャンバス。そのうちの一つの反応が消えた。
「嘘だろっ!」
「仕方ない!」
言うとエックスは扉を蹴破った。そのまま二人は中に飛び込む。内部は確かに誰もいない。誰かが住んでいる形跡もない。無人の部屋だ。普通の人間が見れば問題はないと思って出て行くだろうが、今ここにいる二人は違う。
エックスは手を前に出した。そこから光が放たれる。光が部屋を内側から覆っていた異界を消滅させていく。カモフラージュの203号室は消えて、本当の203号室が姿を現す。
「そっか」
そこに立っていたのは一人の女性。部屋には無数の虫かご。エックスはそのうちの一つに目を向けた。虫かごの中身としては不自然な指輪と腕時計。それから小さな血の跡。一つ一つの虫かごからは幾つかのキャンバスの気配を感じ取ることが出来た。公平は絶句した。そんなことあるわけがないと自分に言い聞かせていた可能性。それが現実に起きてしまっている。
「今日がその日だったんですね」
エックスと公平は身構えた。ショートカットで小柄の女が、二人に振り返ってにっこり笑う。
「初めまして。女神様。私は──」
次の瞬間、エックスは床を思い切り蹴った。相手は何かごちゃごちゃ言っているが知ったことではない。ここで止めればそれで終わり。大きく手を伸ばす。相手の首元に向かって。
「っ!」
女が小さく笑った。エックスは咄嗟に自らの身体を後方へと吹っ飛ばす。公平は大柄の身体を受け止めた。
「大丈夫か!?」
「……その人を離せよ」
「これですか?」
女は右手を上げた。親指と人差し指で何かを摘まんでいる形をしている。その間に非常に小さく弱っていたが、キャンバスがあるのが分かった。
「……そういうことか」
指先からキャンバスの存在を感知できるということは、即ちそこに人間がいるということ。指先で摘まんで隠せてしまうくらいに小さく縮められた人間がそこにいるのだ。女はそれを簡単に潰してしまえる。これではエックスは攻撃できない。
「ありがとっ。……えーっと。キタ……。なんだっけ?まあどうでもいいか。貴方で遊んでいたおかげで私助かっちゃいましたっ!」
女は指先ににっこりと笑いかけた。
部屋の机の上。『東』と書かれた名札が置いてある。