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記憶の本

「それじゃあ、おやすみ」

「どうしても一緒に寝ないとダメ?」

「ダメ」


 そう言ってエックスはゆっくりとベッドに身体を預けた。その重みでベッドが沈んでいく。彼女の身体に向かって落ちていきそうだ。そっと手の平が覆いかぶさってくる。羽毛布団のように暖かい。その気になれば押しつぶしてしまえるほどの大きさで優しく包み込んだ。目の前にはじいっとこちらを見つめてくるエックスの顔。大きな眼に見つめられていると、なんだか緊張してしまう。彼女と一緒に暮らすことを決めた公平だったが、やはりまだ恐かった。


「それじゃあ、灯り消すね」


 エックスの魔法で点いていた照明がパッと消える。程なくして、すうすうという寝息が聞こえてきた。寝つきがよくて羨ましいな、と公平は目を閉じながら思う。今までと環境が違い過ぎて、今夜は眠れないのではないかと心配だった。


(寝るときまでこの大きさじゃなくてもなあ)


 エックスは暫くの間、通常の魔女の大きさで生活することを決めた。記憶を無くした公平に、このサイズ差での共同生活をなるべく早く慣れてもらうためである。

 当の公平の胸中は不安でいっぱいだった。そのうち間違えて踏み潰されたりするんじゃないだろうかと。今だって危険と言えば危険だ。彼女が眠ってしまったら、当然手の中の公平に気を遣うことも出来なくなる。運が悪ければ寝ている間に握り潰されるかもしれない。そう考えるとぞっとして、公平は目を開けた。


「や、やっぱり他のところで寝ようかな……」


 が、それは最早不可能であった。エックスは軽く手を握っている。決して苦しくはないが抜け出すこともできない絶妙な力加減。公平は逃げられなくなっていた。

 握り潰されるかもしれないという不安が大きくなるほどに、眼が暗闇に慣れていった。エックスの寝顔もぼんやりと見えるようになってくる。大きささえ無視すれば可愛らしい寝顔だ。あまりに大きすぎるので怪獣に捕まっているような状態になっているだけである。


「うう……。もうしょうがないな……」


 諦めて公平は目を閉じた。記憶はないが、彼女は一応一年以上、自分と一緒に生活してきたのだから。籍は入れていないが──というより異世界からやってきたエックスには戸籍はないのだが──結婚しているとのこと。ならば今夜のように一緒に眠ることもあったはずだ。それでも今まで生きてこられたのだ。


(だからきっと大丈夫だ。全然覚えていないけど大丈夫なんだ)


 そうやって自分に言い聞かせ続けるうちに公平は眠りに落ちていた。その数十分後、エックスがむくりと身体を起こす。


--------------〇--------------


 手の中の公平をつんつん突っついてみる。むにゃむにゃ言っているが目を覚ます気配はない。


「うん。ぐっすり眠ってるね」


 怖がってしまったせいでなかなか眠ってくれなかった。ちょっとだけ寂しいが、いつまでもそこを気にしていても仕方ない。取り敢えず今はやるべきことをやるのだ。公平の額に指を当てる。今から『記憶』を覗きに行く。

 公平は一年と半年ほどの記憶を思い出せない状態である。恐らく自分と出会ってからの時間が丸ごと失われている。


(でも、ボクの力ならきっと治せる)


 記憶を無くした、とは言っても、殆どの場合ではその記憶を思い出せなくなっているだけで、実際には脳内には残っているのだと聞いたことがある。自分の力であれば、ガンズ・マリアの力で思い出せなくなった記憶を治せるはずだとエックスは信じていた。

 エックスは目を閉じて、公平の記憶の中に意識を飛ばす。


--------------〇--------------


 目の前には一冊の本があった。


「これが公平の記憶、かな」


 エックスはそれを手に取ってぱらぱらとめくる。子供のころの記憶にも大いに興味はあったが、取り敢えずそこは無視して、大学に入った頃のページを広げた。

 入学式の記憶。右も左も分からないままにどうにか一人暮らしを始めた頃の記憶。一年経って大学生活に慣れた頃の記憶。コンビニでバイトを始めた頃の記憶。──やがて、記憶の中の公平は三年生になった。


「よし。もうすぐキミはボクに出会うはずだよね」


 その辺りのページがどういう状態なのか知りたかった。恐らく読める状態には無いのだろう。だが自分の魔法ならきっとそれを治せる。本をめくる手が早くなった。

 アルバイトに飽きて辞めた記憶。入学した頃に入ったサークルもサボリがちになった記憶。一人の部屋で悶々として。何かが欠けている、なんて思って。そして、気を紛らわすために散歩でもしようかと外に出た記憶。


「で、この次がきっとボクの──」


 が、次にエックスの目に飛び込んできたのは全く予想外のページだった。先日のクリスマスの記憶である。いきなり目の前に巨人──エックスが現れて、困惑して逃げ出している。


「あれ?」


 本を広げてよく確認してみた。見ると『夜道を散歩した記憶』から『クリスマスに巨人と出会った記憶』の間にあるはずのページが綺麗に破り取られている。


「……これは」


 思っていたのと違う。これでは文字通り記憶が喪失した状態だ。治しようがない。今ここに存在しないページなのだから。治すには破られたページを取り戻すしかない。


「どうしよう……」


 エックスの目に涙が浮かぶ。公平の記憶は今どうなっているのだろう。もしも破り取られたページを完全に壊されてしまったら。それでは、自分と一緒に生きてきた公平を殺されたようなもので──。


「……ん?」


 だとしたら。何故記憶を奪うなんてまだるっこしいことをしたのだろう。直接殺した方が確実なはずなのに。疑問が頭を擡げた。

 ガンズ・マリアの最後の攻撃。超高速で撃ち込まれた、神の領域に手をかける程の高エネルギーの氷の矢。その気になれば確実に公平を殺せる一撃だったはずだ。だが敵は何故かとどめを刺さなかった。


「いや……きっととどめは刺せなかったんだ」


 公平を殺せばエックスの逆鱗に触れる。怒りのままに『聖技の連鎖』に乗り込んでいったかもしれない。そうなればア・ルファー以外の者は無事では済まなかっただろう。それを危惧したマリアは敢えて公平の命を奪わなかったのではないか。エックスはそう考えた。


「と、いうことは」


 記憶の本を見つめる。公平の記憶の中からエックスと一緒に過ごした時期のものを壊す──二度と戻らない状態にするということは、エックスにとっては公平を殺されるのとイコールである。エックスからの報復を恐れているマリアにはそんなことはできない。ではどうするか。自分が敵の立場だったらどうしただろうかと考えてみる。


「そうだな……。ボクなら……」


 そんなに大事なものなら。敢えて壊したりしない。もっと有効利用できるから。例えば。


「そう例えば。人質に使う、とか」


--------------〇--------------


 エックスが目を開けると暗闇の中だった。公平の記憶の中から戻ってきたのである。手の中で眠る公平の額に指先を当てている。


「……ふふっ」


 記憶の世界で考えたことを思い出して、自嘲する。酷く都合のいい考えだ。どこにも証拠はない。そうだったらいいなあと思っているだけだ。


「いいさ、それでも」


 エックスは、公平を亡くしたなんて思いたくなかった。だから、彼の記憶が人質のように使われていると信じることにした。と、なれば。一刻も早く『聖技の連鎖』に向かい、立ちはだかる敵を全て倒して、公平の記憶を取り戻したかった。──しかし、それには大きな問題がある。


「ウィッチがなー。どうしたもんかなあ」


 一度『魔法の連鎖』を離れれば、ウィッチがきっと動き出す。そうなればまた人間世界は彼女の玩具になってしまう。それは何としても防がなければならない。元々は公平をウィッチに負けないくらい強くするつもりだった。ウィッチのことは公平に任せて、自分は『聖技』に乗り込む計画だったのである。だがこうなっては水の泡だ。


「それに、敵が本当に公平の記憶を人質に使ってるんなら迂闊に手も出せないしなあ……」


 うんうん悩んでいると、手のひらの中で苦しむ声がした。目を向けると公平が苦悶の表情を浮かべている。


「ああっ、ごめんごめん」


 悩んでいたせいで知らず知らずのうちに手に力が入っていたらしい。力を緩めると公平の寝顔は穏やかな表情に変わる。相変わらず目を覚ます気配はない。思わず噴き出してしまう。記憶を無くしていても、本質的には何も変わらない。恐がったり図太かったり。公平は公平だ。


「まったく。ボクはキミのために悩んでるんだぞ」


 そう言いながらも彼女の口元は微笑んでいた。枕に頭を落とし、じいっと公平の寝顔を見つめながら目を閉じる。取り敢えず、眠ることにした。


『そうそう。慌てても仕方ないしさ。今日はもう寝て、明日考えようよ』


 なんて、公平が言っている気がした。

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