一年とちょっと前の出来事
目の前にあるのは大きな二つの緋色の眼。見つめられているだけでドキドキするけれど。これは恋愛感情というより食物連鎖で上位の生き物に目を付けられた恐怖のような気がする。。記憶を無くす前の自分は、彼女と交際……どころか結婚していたらしい。意味が分からない。吊り橋効果で勘違いしているだけではなかろうか。
「あの……一つ聞きたいんですけど」
だからこそ。確認したい。
「いいですか?」
「うん。なあに?」
彼女の瞳は優しく微笑んでいるように見えた。公平はごくりと生唾を飲み込む。
「俺、たち……その、結婚してたらしいですけど。ホント?」
「うん。公平がプロポーズして。ボクがそれを受け入れたんだよ」
「お、俺の方から!?」
「うん」
エックスはあっけらかんと言った。が、公平には信じられない。百歩譲って目の前の巨人に惚れたのは認めてもいい。可愛いのは本当のことだし。しかしこちらからプロポーズしたというのは分からない。そんな度胸が自分にあったとは。
エックスはずいっと顔を近付ける。大きな瞳が一層大きく見えてたじろいでしまう。
「信じてないな。それならもうちょっと詳しく教えてあげよう。キミがボクにプロポーズするまでをさ」
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「ボクがキミと最初に出会ったのは……。確か5月。春が終わる頃だったかな」
魔女の世界を追い出されてずっと一人だったエックスは、友達のローズに頼まれて人間世界を守るためにやってきた。ついでに奪われた魔法も取り戻すなんて企んで。
「あの時はボクも魔法が使えなかったから。ただ人間世界に向かって落ちることしかできなかった。足元に向かってキミが走ってきたときは絶対踏みつぶしたと思った」
「踏みつぶしそうになったのが最初って本当だったんだ……」
エックスはけらけら笑いながら懐かしい思い出話のように語るが、公平にとっては笑い話では済まない。出会ったその瞬間に一回死にかけたということではないか。ゾッとする。
辛うじて公平を踏みつぶさずに済んだエックスは、彼に魔法を教えて、その力を借りることで魔女と戦う作戦を思いついた。通常の兵器では魔女には絶対に勝てない。だが魔法であれば一矢報いる可能性がある。そこに自分が力を貸せば、弱い魔女であれば撃退できる。
「だからボクはキミに魔法を教えてあげようかって誘ったんだ」
「俺、そんな誘いに乗ったんですか?」
「キミは、なんだか色々と退屈していたみたいだから、二つ返事でボクの誘いに乗ったよ」
「……う。やりそう」
最近ずっと思っていることではあった。何かが欠けている。お金とか物とかでは決して埋められない何か。それを魔法に求めたのだと言われたら納得できないこともない。記憶を無くす前の自分の心の欠落は埋まっているのだろうか。
「そんな事を話していたら魔女が人間世界にやって来たんで、一緒にやっつけに行ったんだ」
エックスは公平に向かって手を伸ばした。
「うわっ!?」
慌てる公平の姿にくすっと笑い、優しく握りしめる。
「こんな風にアクアって魔女が女の子を捕まえていた。ボクはキミに魔力を貸してあげて、その子を助けてもらったんだよ」
「お、俺そんなこと出来たんスね……」
「うん」
エックスはにっこりと微笑む。
「いっぱい文句も言ってたけどね」
言いながら公平を握った手を広げて、つんつんと突っついてくる。突然のことで驚いて、指を避けようとする。しかし身体の大きさがあまりにも違い過ぎて逃げることはできなかった。普段とは違う反応が何だか面白い。
「な、なんでいきなり」
「ん?手持ち無沙汰だったから?」
つまりは特に理由もなく突っついてきているということだ。緋色の瞳が楽しそうである。もしかすると、この子はとても悪戯好きなのではないか。もしかすると、この子と一緒に居たら身がもたないのではないか。公平は訝しんだ。
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「……んで。その後公平はナイトから魔力を奪い取って」
「……あのイオン潰れたんだ……」
「う……。だからボクも悪かったって。もっとちゃんと守れれば良かったんだけど。あそこでワールドが来るなんて思わなかったんだって」
よく行く店が異世界の魔女に踏みつぶされて店員や客ごと物理的に潰されました、なんて馬鹿げたことを言われても困る。エックスにとっては一年以上前のことだが、記憶を無くした公平にとってはそうではない。彼の感覚ではイオンはついこの間も営業していたのだ。
「……とにかく。ナイトから魔力を奪い取った公平はその力でボクを助けてくれたんだ。……ふふっ。あの時はとっても嬉しかった」
エックスは頬を赤らめながら言った。本当に自分の話をしているのだろうかと疑問符が浮かぶ。目の前にいる彼女はとても大きい。公平を手のひらに楽々載せられるサイズだ。身長100mなのだとか。魔女はそれと殆ど同じ大きさらしい。それと戦おうだなんて。到底信じられない。
「そうしたら今度はヴィクトリーっていう魔女が現れた。ワールドと同じくらい強い魔女。その子が公平だけ攫って一騎打ちを仕掛けてきた」
「……俺はそれでどうなったの?」
「どうなったって……。勝って帰ってきたよ?ヴィクトリーも加減してくれたけど大金星だ」
「ああ……良かった……」
公平はほっと胸を撫でおろす。そんなに強い魔女と戦ってもどうにか自分は無事に帰ってこられたらしい。自分が今こうして生きている時点でそういうことになるのではあるが。
「その後公平はワールドと戦っているボクのところに駆けつけてくれた」
「ほうほう」
「そしてボクにプロポーズしてくれたんだ。結婚してくれーって」
「ほう……。……ん?なんで?」
「なんでって……。公平が言ったんじゃないか」
「いや……。それは……。そうなんでしょうケド……」
プロポーズに至る理由が分からない。ここまでの話を聞いた限りでは、エックスと結婚したいと思った理由がさっぱり分からなかった。
(だってさっきから酷い目に遭っている話しか出てこないぞ?)
踏みつぶされそうになったり。握りつぶされそうになったり。身体を登らさせられたり。公平は考え込んだ。どこかで嘘を吐いているんじゃないか。その様子をエックスはじっと見つめていた。
「そっか。公平にも理由は分からないよね」
「……ゴメン。ちょっと分からないです」
公平の返答にエックスはくすっと笑う。手のひらの上に顔を近付けた。
「実はボクにも分からないんだ」
自嘲するように言う。どうして公平が自分を好きになってくれたのか。何を思ってプロポーズしてくれたのか。聞いていないから分からない。
「でも嘘は言ってないよ。キミは確かにボクに結婚を申し込んだ。でも理由は記憶を無くす前のキミしか知らない。だから、その答えは思い出したら教えてほしいな」
「は、はい」
「……ずっと言おうと思ってたんだけど。敬語は止めてよ。ボクたちはこれでも夫婦だよ?」
「え、あ。はい」
「じゃなくて」
エックスはくすくす笑いながら訂正を求める。「そっか」と呟きながら言い直した。
「うん。分かったよ」
「うん。よろしい」
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とんとんとん、と。包丁の音が響く。公平はエックスの肩の上の乗せられていた。鼻唄を歌いながら冷蔵庫で余っていたハムやらタマネギやらを細かく刻むのを見つめる。あまりに生活感があって、なんだか自分の方が小人になったような錯覚を覚える。
「こんな大きなハムなんてどこから……」
「スーパー小枝で買ってきたのを魔法で大きくしたんだ」
「へー。魔法ってそんなことも出来るんだ」
「出来るのはボクくらいだけどねー。こう見えてもボクはすっごい魔女なんだぞ」
すっごい魔女であるエックスは魔法で火を起こしフライパンを熱した。そこへサラダ油をたらし刻んだハムと野菜を投入する。じゅうじゅうと音がしていい匂いが漂ってくる。もしもここで肩から落ちたら自分もああなるんだろうかと公平は思った。
「今、落ちたら大変だなーとか思った?」
「な、なんで分かったの!?」
すっごい魔女は人の心まで読めるのだろうか。公平はぎょっとした。エックスは悪戯っぽく笑って答える。
「何となくね。大丈夫大丈夫。そこは世界で一番安全な90mの地点だからさ」
「そ、そうなんだ……」
「そうそう。ボクは一回だってキミを落としたことは無い。……と思う」
「不安だ……」
「だ、大丈夫だって」
野菜とハムの炒め物を別の皿に移し、続いて事前に用意していた卵をかき混ぜる。
「チャーハン?」
「うん。公平の好きな、おうちのチャーハンだ」
「……よく知ってるね」
お店で出てくるようなぱらぱらチャーハンも好きだけど、土日に母親が適当に余りもので作ってくれたチャーハンも好きだった。
「ふふふっ。当然さ。ボクはキミのお嫁さんだからね」
嬉しそうに、それでいてどこか寂しそうにエックスは言う。今ここにいる自分は、彼女と一緒に一年以上過ごしてきた『公平』ではないからだろうか。
ただ、やっぱり現実感が無い。未だ夢を見ているようなふわふわとした感覚だった。
「お嫁さん、か……」
彼女はきっと嘘を言ってはいないのだろう。何となくそんな気がした。それでは、自分はどうして彼女と一緒に生きることを決めたのだろうか。どうして彼女は自分と一緒に生きることを決めたのだろうか。公平は記憶を無くす前の自分とエックスのことを、もう少し知りたくなっていた。




