準備③
いい目覚めだった。
実のところソファで寝るのは初めての経験だった。実家にはこんな洒落たものはなかったし。正直寝心地を心配していたのだが、びっくりするくらい熟睡できたのだから、自分の寝つきの良さに感心する。
朱音は既に起きていた。ホットコーヒーを飲みながらスマホの画面を眺めている。テレビが点いていないのは、寝ている俺に気を遣ってくれたのかもしれない。
「おはよ」
「あっ。起きたんだ。おはよう」
「……シャワーだけ借りていい?」
「そりゃあ勿論いいけど。顔も洗った方がいいんじゃない。洗面台の下に使ってないハブラシあるから、使っていいよ」
「ごめん。ありがと」
何から何まで至れり尽くせりといった感じだ。何だか悪いことしている気分だ。いきなり押しかけた身分だというのに風呂場も洗面所も借りてしまって本当にいいのか。
朱音の家は学生マンションというにはランクが一つか二つ違うように思っていたが……それは風呂場も同様だった。綺麗だし浴槽も広い。俺が前に住んでいたアパートの風呂場なんて最初から薄汚かったもんだから、お湯を溜める気にもならなかったのに。
置いてあるシャンプーだとかボディソープだと洗顔料だとかも、俺がエックスのお使いで、ドラッグストアで買うようなモノとは違って高そうだ。多分だけどここにあるものは売り場で見たことがない。
こんなのタダで使わせてもらっていいわけがない。どこかで埋め合わせしないと申し訳なくて仕方ない。しかし俺が朱音にできることは何も思いつかない。
学部が違うから授業やゼミの手伝いをすることはできない。そもそも俺より朱音の方が頭はいい。
金銭的に困っているような様子もない。一か月に使える金額は俺より朱音の方がきっと多い。
シャンプーしながら、どうやってお礼をしたらいいのか考えてみるが、遂に答えは出なかった。
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朱音に「ありがとう」を言って家を出た。お礼の仕方はまた後で考えることにして、ミライとの待ち合わせ場所に向かう。俺の家の近所で待ってくれるそうなので、前にエックスと一緒に行った喫茶店の『シャロン』を案内する。あそこはケーキが美味かったなとか考えながら、歩く。魔法を使う必要はなかった。少し歩くが行けない距離ではない。
スーパー小枝が見えたところでエックスからエビを買うように頼まれていたことを思い出した。ただここでエビを買っても、きっと持て余してしまう。ミライに「なんでエビ持ってるんですか。それ持って行くんですか」と白けた調子で言われる未来が見えた。かといって家にはワールドがいる。今は帰れない。鉢合わせたらまずワールドから攻撃されるかもしれない。余計な体力は使いたくない。
エビは、後だ。
犬の散歩をしている老人とすれ違った。すれ違う瞬間に犬が俺に向かって吠えてきて、思わずどきっとした。というか「うひゃっ」と変な声を出してしまった。どうも俺は犬に嫌われるタチなんだよな。
犬は飼ったことがない。けど長年一緒に暮らしていたら、いなくなったときに酷く悲しいのだろうということは当然想像できる。あのお爺さんは、もしあの俺を吠えた犬と別れることになったとして、その後に取り戻したいと思うだろうか。それとも別れを受け入れるのか。
それからもう少し歩いて、『シャロン』に着いた。待ち合わせ時間より少し早い。店の中に入るが、まだミライの姿はなかった。まだ時間はあるしなと納得して、席に座りコーヒーを頼む。
コーヒーを待つ間、ミライは来なかった。
コーヒーが届いた時にもまだミライは来なかった。
コーヒーを飲み干しても現れなかったところで流石に変だなと思った。
スマホを取り出す。何かトラブルでもあったのかとミライに電話をしようとしたところで、先に着信があった。ミライからだ。
「もしもし?」
『公平さん?何かあったんですか?』
「え?」
『もう待ち合わせ時間過ぎていますよ?』
何かおかしい。噛み合わない。まさか虚数空間に続いて異次元世界にも巻き込まれたのだろうか。
「いやいや。俺だってシャロンで待ってるよ。お前こそ何かあったのかなって……」
『ええー。私もシャロンにいますよ?』
「んー?」
一応店内を見回してみるが、ミライの姿はない。
「ちなみに、そこの住所って……」
俺は俺のいる『シャロン』の住所をミライに伝えた。元々店名しか伝えていなかったから、もしかすると似たような名前の店に入ったのかもしれないと思って。
『うそお』
「なにがだよ」
『この地域おかしいですよ。近い距離に全然違う『シャロン』が2軒ありますよ』
「は?」
何をバカなと思って地図アプリを開く。『シャロン』で検索をかける。
「……ホントだ。変なの」
『と、取り敢えずそっちに行きますね』
「う、うん……」
これじゃあ待ち合わせに使えないぞこの店……。なんでそういうことになるんだ。虚数空間からもう一個『シャロン』持ってきたのか?疑問は尽きなかった。
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「これで紅茶2杯目です。このお店は悪くないですけど、公平サンは悪いと思います」
「今度から住所も送るよ……。ここのお茶代も俺が出すから」
「そうですか?ではありがたく。さて」
ミライがカップを置いて俺の目を見る。
「いつ、どこにローズたちは現れるんですか」
「さあ。待つことしかできないよ」
「もう。今日はずっと場所が曖昧ですねえ。ちゃんとしてくださいよ」
「どこで計画を実行するんですか?って聞いて答えてくれたら苦労しないよ。でも多分人間世界でやるんじゃないか」
「ほお。その心は?」
「一度失敗してるらしいからな」
二度目はない。
次は確実に成功させようとするはず。そうなれば魔女の世界から遠隔で人間世界に対して魔法を使うのではなく、直接人間世界に来てやるはず。……という推理、というよりは勘だな。
「なるほど。ローズの性格から察するに……人の多いところではやらないはずですよね。できれば完全に人がいないところにしたいはず」
「そうだなあ。けど今時人がいないところなんて無いぜ」
「そうかなあ。ちょっと聞いてみますか」
「聞いてみるって誰に」
「あっ。ほら。色々出てきますよ」
ミライはスマホを俺に見せてきた。……チャットAIがなにやら色々候補地を上げている。こいつこんなモン使っているのか。
ノルウェーの無人島。南極の到達不能極。海の最遠隔点であるポイント・ネモ。……なんかかっこいい名前が多いな。
「こういう場所を選ぶんじゃないですか」
「……この場所本当にあるのか?AIは嘘吐くって言うぜ」
「ちゃんと情報元を出していますよ。実在する場所です。全く人がいないってことはないでしょうけど、人と遭遇する可能性は非常に低いはず。……そういうことならいっそ大気圏外でもいいですね。この世界にいることは間違いないですし?深海でもいいですね。地球上であることは間違いないです」
「宇宙空間に深海かあ」
暗闇の中を想像してみて怖くなる。
ミライは無敵の魔女になれるからいいけど俺はそういうことは出来ない。魔法の保護が途切れたら即死する環境だ。そういうところで戦いたくはないなあ。
「できれば人間が生きていける場所でやってほしいな」
「そりゃあ私だってその方が嬉しいですけど。そんな都合よくやってくれるとは限らないですよ。それに公平サンの推理が外れていたら、今頃魔女の世界でコトを済ませているかもしれません。そうなったら戦う前に終わりです」
ミライはそう言うと冷めた紅茶に再び口を付けた。
俺も出来ればそろそろ動き出したい。けれど、その前に、確認しておきたいことがあった。
「なあ。ミライはどうして手伝ってくれるワケ?ヴィクトリーはスルーしたぜ」
「そんなの、なんとなくイヤだったからです」
「……そうか。安心した。俺と同じだ」
それなら、ワールドとは違ってちゃんと協力できる、はずだ。
「取り敢えず先に魔女の世界の様子を見に行くか。そこでなにかやってるなら止めに入って……」
言い終わる前に、俺とミライが同時に魔女の現れる気配を感じた。俺たちは顔を見合わせて、その場で立ち上がる。
「会計してくる。大雑把でいいから場所だけ確認しといて?」
「分かりました。でも多分、公平サンが言ってた深海とか宇宙空間じゃあなさそうですね」
「うん。それは安心したけどさ」
伝票を持ってレジに走っていく。走りながらポケットに手を入れて財布を取り出す。……この感じ。ワールドが先に現場に着いたみたいだ。アイツは気配を隠すつもりは全くない。おかげで後を追いやすい。
手を貸してくれているわけではないだろうが、素直に助かった。後は、やれることをやるだけだ。




