『SICK』
雨。数日前からずっと雨。
季節は梅雨になっていた。強い日の光に焼かれる暑い夏の訪れを予感させる雨の日々。
雨の日は外に出たくない。エックスは雨が好きではなかった。服も靴も濡れてしまうし、傘を刺して歩く人の姿もどこか暗く見える。許されることなら雨雲を魔法で吹き飛ばして晴天にしてしまいたいくらいだ。
この日も雨だった。雨だったのでエックスは家にいた。横殴りの雨が吹き付ける窓と、その奥にある大荒れの景色をじっと見つめている。諸事情により灯りを点けていないので、室内は薄暗い。
「それにしても。災難だね。こんな時期にインフルエンザに罹るなんて……」
「し、仕方ないだろ……」
かすれた声が答える。
「あっ。起きちゃった?」
「っていうか寝てなかった」
通常サイズの60倍の大きさであるテーブルの上に敷かれたちいさな布団にくるまっている公平は酷い咳を繰り返していた。
「俺だってインフルになりたくてなったんじゃない。それにインフル喰らったのは俺だけじゃない。田中や田母神だって」
「分かった分かった。寝てなって。……ふふ。ユートピアが謝っていたよ。『私の魔法が迷惑かけてごめん』ってさ」
そっと。エックスは小さな公平のおでこに人差し指を乗せる。
「38度5分」
「精確な検温ドーモ……」
体温計いらずの指先だった。
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今回のインフルエンザの大流行は局所的に起こっていた。具体的に言うとエックスと公平の住んでいる地区だけ。そこに怪しさを感じたエックスは独自の調査を行い、この流行の原因が、奪われたユートピアの魔法の一つ、『SICK』であると突き止めたのである。
『SICK』の回収自体は既に終わっていた。犯人は近くに住む小学生男子である。学校に行きたくないという願いを叶えるために、インフルエンザを流行させて学級閉鎖を起こそうと目論んだらしい。
だが、人を呪わば穴二つ。最終的に彼自身もインフルエンザに罹って苦しい想いをしたそうだ。
どうにか病気を治そうと『SICK』で四苦八苦しているところをエックスに捕まったというわけである。
「これ返したくないなー……」
指先に摘まんだ小さな指輪を見つめながらエックスは呟いた。
『SICK』は本来魔女にさえ有効な病気をばらまく魔法だ。『UTOPIA』の魔法でエックスを操るためにキャンバスのリソースを使っていたので発動できなかったユートピアの切り札である。
発動されたら最後、人間なら致死率100%、魔女でも数日は寝込む熱病に侵されることになる。
指輪にされて弱体化し、インフルエンザをばらまくだけのものになったが、それでも危険なことに変わりはない。
できればこのまま一生預かっておくか、いっそのこと壊してしまいたいものである。
--------------〇--------------
今日の家事はサボることにした。それよりも公平の傍にいてあげたい。家のことは家事魔法に全部任せる。そうして、エックスはただじっと公平の寝顔を見つめるのだった。
穏やかな寝顔をしていると安心する。
魘されて、苦しそうにすると心配になった。
汗が酷ければ吹いてあげる。布団がはだけたらかけ直してあげる。
時々おでこに指先を置いて検温してあげる。熱は少しずつであるが落ち着いてきていた。この分なら完治は時間の問題である。
「……ふふ」
机に突っ伏して、顔を近付けた。机が揺れて公平を起こしてしまわないようにと慎重になりながら。
雨が降り続けている。時計の針が時を刻んでいる。
単調な音だけがエックスの耳に入ってくる。薄い闇が、時間経過とともに少しずつ濃くなっていく。彼女の視界にあるのは公平の眠る姿だけだ。それも少しずつぼんやりとしていく。
(明日の公平のおかゆの味は……お味噌にお醤油を入れてそこにポン酢をかけて……)
いつの間にかエックスは意味も脈絡もないことを考え始めていた。こうなるともうダメである。
程なくして彼女の瞼は閉ざされた。暗い室内と淡々とした音により促された眠気に落ちたのである。
--------------〇--------------
「……ん」
公平は目を開けた。身体を起こしてみる。その瞬間に気が付いた。眠る前とは全然違う。
「よくなってる……。この調子なら明日には本調子になってるんじゃないか?」
両手を開いて閉じてみる。自分の身体が思うように動くのを実感できた。まだ身体は怠いがそれももうちょっとで回復するだろう。当然根治するまでは学校には行けないが、それでもいい兆しである。
「エックス。この分だと……。あ……こいつ寝てる」
「すう……すう……ふふ……」
夢の中でいいことでもあったのだろうか。穏やかな寝顔が微笑んでいる。
呑気な巨人の姿に公平は何だか気が抜けてしまった。小さく噴き出して『何やってんだ』と呟く。
「……ええと。今何時だ。……もう五時か。どうすっかな。水でも飲んで、もうひと眠りするかな……」
エックスを起こして水を汲んできてもらうのは忍びない。それにこの体調でも台所くらいなら一人で行ける。公平は魔法を使って、台所に通じる巨大な扉を開けた。
「……え゛」
そこでは箒とか雑巾とか調理器具が、各々自分勝手に動いて家事をやっていた。反射的に公平は魔法で扉を閉める。
「……『水よ』」
魔法で水の球を作り出し、それを手ですくって口の中へ。そうして喉の渇きを癒し、再び布団の中に潜り込んだ。
「……まだ熱があるみたいだな俺。なんだよ今の幻覚は……」
熱のせいで公平の頭はまだ完全に機能していない。エックスが魔法で家事を自動化しているという答えにはたどり着けなかった。
--------------〇--------------
「……ん」
エックスが目を開けた。身体を起こして大きく背伸びをする。
「……んー?公平ってばまだ寝てる」
ほんの少し可笑しくなって、エックスは小さく笑った。
彼のおでこに指を乗せる。37度3分。微熱。明日には熱も下がっていることだろう。
「よしっ。そういうことならっ!」
公平を起こさないようにゆっくりと頭を起こした。
床を揺らさないようにとそろそろ歩き、音を立てないように台所への扉を開ける。果たしてそこでは家事魔法が休みなく働いてくれていた。
「うんうん。ご苦労さま」
魔法を解除する。掃除道具は所定の位置へと帰っていった。
料理は既に完成していた。たまごがゆと、公平の体調が戻ってきた場合を考えたやさいと生姜たっぷりのお鍋。味見をしてみる。
「……ああ。なんだ。こんなもんか」
美味しいことは美味しいけれど、魔法を使わずに作った時とほとんど変わらない。むしろそっちの方が美味しい気がする。
魔法にやらせた家事はだいたい自分の手でやるよりも上手に終わる。こうなると料理はどれだけ美味しいものになるのか少し心配をしていた。だが、どうやら杞憂に終わったらしい。料理はまだ自分の方が上手い。
「……なんかいい匂いだな」
リビングで公平の声がした。
「おっ。起きたなー。どうする?おかゆと……それからお野菜のお鍋作ったけど、食べる」
「両方ちょうだい。お腹空いたよ」
「オッケー!ふーふーして食べさせてあげるからねー」
「え。いや。そこまでしなくても……」
「いいからいいから」
文句を言わせないように自分の食器に料理を盛り付けた。つまりは巨人用の食器である。こうすることで公平は自分の力で料理を食べることはできない。必然的にエックスが公平に食べさせてあげる必要が発生するというわけだ。
「お待たせー!」
「だから自分で食べるって言ったじゃん!」
「まあまあ。いいからいいから」
スプーンにおかゆを掬う。ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから、公平の口元に近付ける。
公平はここで諦めた。これ以上何を言っても『まあまあ』と『いいからいいから』しか返ってこないだろう。かといって空腹なのは事実なので、巨大なスプーンに口を近付ける。
「……美味い」
「ボクが食べさせてあげてるからだね!」
「……んー。まあそういうことにしておくか……」
「なにさ。食べさせてあげないぞ」
「いや食べるって腹減ってるんだよ!」
「はいはい」
くすくす笑いながらスプーンを再び公平の口元へ。だいぶ食欲も出てきたみたいだ。これならきっと、すぐに治るはずである。安心しながら、おかゆを食べる公平を見つめるのであった。
--------------〇--------------
そして三日後。公平は根治した。
「……だからさあ」
「ねえ……いいでしょ?今日くらいさ」
寝室。エックスが頭に濡れタオルを乗せて、布団の中で何かを期待するような目で公平を見つめる。
礼儀として。公平は一応言っておくことにした。
「けどお前……風邪引いてないじゃん。元気じゃん」
「失礼な。風邪引いてるよ。ほら。けほっけほっ」
わざとらしい咳をするエックスを公平は白けた目で見つめる。
そんなに疑うならと、彼女は魔法で体温計を作り出した。それを脇に挟んで検温する。二秒後に完了のアラームが鳴った。
「……ほら」
エックスが突き付けてきた巨大な体温計のデジタル表示を見つめる。そこには『1000』と書かれていた。
「1000℃……」
「大変!高熱!けほんけほん。あー。公平に看病してほしいなー!」
嘘くさい咳。元気そうな顔色。怠いなんて概念知らないぜとでも言っているような笑み。
公平は小さくため息を吐いた。看病をしたから、今度は看病されたくなったのだろう。だからって仮病を使わなくてもいいのに。
「分かったよ」
「え?」
喜びを隠しきれないエックスの返事が聞こえる。公平はぴょんっとジャンプして彼女の胸に飛び乗った
「1000℃じゃあ仕方ないもんな。分かったよ。どうする?何か食べたいものとかある?」
公平がノッてくれたので。エックスは嬉しくなって。思わずと言った調子でにやけながら、『汗かいちゃったから拭いてほしいなー!』と言い出した。
無茶言うなと言ってやりたくなったが。彼女のおかげで治ったのは事実なので。余計なことは言わずに『いいよ』と答えるのであった。




