温泉旅行
「ああそうだ。公平クン」
「ん?」
ゼミが終わって、教授も退室して、三人で雑談していた時のことだ。田母神が何か紙切れを手渡してくる。
「なにこれ」
「温泉の宿泊券。もらったはいいけど使う予定がないからさ。エックスさんと行ってきなよ」
「えっ。いいな、それ。そういうのなら俺にくれよ」
田中の言葉に、田母神は微笑みながら『ダメよ』と答える。
「コレは公平クンじゃなくて、エックスさんに渡したの。だいたい田中クンに渡したらその日のうちに換金しちゃうじゃない」
「バレたか」
「お前この短期間でそんな人間だって思われてるの相当だぞ……」
「いや。だとしてもその旅券は俺に渡すべきだぜ田母神さんよ。こいつ等夫婦は金持ってるんだから」
「あ、あのな……」
「あっ。じゃあこうしよう」
何かろくでもないことを思いついたな、と公平は身構える。
「俺がまず田母神さんから旅券を受け取る。そしてそいつをコイツに売る。何処のホテルだ?N市か。なら通常2万くらいとみて……。二人で4万だから……。よし。3万円で売ってやろう。そうすればwin-win。みんなが得をするってわけだ。結果的に田母神さんの旅券が公平のところに行ったことになるし。間に一人挟んでるだけで……」
「な、なんでだよ。俺が損してるじゃねえか!」
「してないしてない。本来4万で泊まれるホテルに3万円で泊まれるんだぞ?1万円も得してる」
「詭弁を……!」
「私は別にどっちでもいいけど」
「ちょっと!?」
勝手に話が進んでいるが冗談ではない。タダでもらえるはずのものにどうして1万5千円も払わないといけないのか。とはいえ口では田中に勝てない。無限に詭弁が出てくるあの口には何度も負けているのだ。公平は少し考えて口を開いた。ターゲットを変更して。
「そうなったら俺はコイツをお前から貰ったとは言わないぞ。田中が売ってくれたとしか説明しないからな」
「じゃあダメ。私の点数稼ぎにならないなら」
「ちっ。ケチめ。守銭奴」
「いやいや。どっちがだよ!」
公平は笑いながら旅券を懐に仕舞いこんだ。少し前までずっと戦っていたからか、こういう普通のやり取りがすごく楽しいものに感じられてしまう。
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N市は公平たちが住む県の西部にある都市だ。千年以上前に開湯したという温泉地。車で少し行けば海があって、水族館や鮮魚市場にも行ける。沢山の見所がある観光地だ。
田母神から旅券を二枚貰った公平とエックスはその週末にN市に来ていた。少し急ではあったが、旅券の期日が今週までだったのでやむを得ずである。行楽シーズンではなかったために予約を取ることが出来たのは幸いであった。
「おお……。でかいホテルだ……」
「ホント!ボクの腰の高さくらいの大きさかな?」
「……なんかそう聞くと大したことないような気がしてくるな」
隣に並ぶエックスをちらっと見る。確かに元の大きさに戻ったエックスの方がこのホテルよりはずっと大きい。
「いやいや。ホテルの大きさと考えたらすごく大きいさ。それより早くチェックインチェックイン!荷物を預けて温泉行こうよ!」
「ああ。はいはい」
自動ドアを開けると女将や中居さんがずらっと並んで、出迎えの挨拶をしてくる。二人とも思わず一瞬気圧されてしまい、互いに顔を見合わせた。こんなところに貰った旅券を使ってタダで泊まっていいのだろうか。誰に向けたわけでもない罪悪感が込み上げてくる。
内装は圧倒されるほどに豪華。余裕の表情で入っていったエックスが、次の瞬間に緊張感でカチコチになるくらいだ。
担当の中居さんに案内されて予約をした部屋へ。純和風の部屋。公平とエックスは持ってきた荷物を下ろして部屋の中を見回す。
「露天風呂はないのか」
「そうだな。ちょっと期待してたんだけどな。まあタダだしなあ」
言いながら部屋の窓を開ける。窓の向こうに見えるのはN市の街並みだった。残念ながら海が臨めるような位置の部屋ではないらしい。
「まあまあ。ボクたちの身の丈にあったのはこういう部屋かもね」
そう言いつつもエックスの口調は少しばかり残念そうである。何かの間違いで露天風呂付の部屋に泊まれるのではないかとちょっとだけ期待をしていたらしい。図々しいと言えば図々しいが、可愛らしくも思える。公平はそんなエックスを見つめて小さく微笑んだ。
部屋の箪笥を開けて、用意されていた浴衣をぽいっとエックスに向かって放り投げる。
「おっと」
「まあ。温泉ならこの辺幾らでもあるさ。行こうぜ。俺も疲れちゃったし、早く温泉入りたいよ。総湯総湯」
「あっ。そうだね。行こう行こう!浴衣を着て行こう!」
『見ちゃダメだよ!』と言いながらエックスは服を脱ぐ。『はいはい』と答えて公平は彼女に背を向けた。後ろから布と肌とがこすれ合う音が聞こえてくる。
公平は普段は宿泊施設に備え付けの浴衣を着たりはしない。けれど、多分エックスだったら着る。形から入る。それなら自分の彼女に倣おうと思った。それはそれできっと楽しいはずである。
そうして着替えた二人は、互いの浴衣姿が少しおかしくてくすくすと笑い合う。
「じゃ、行くか?」
「うん」
そうして。客室の扉を開けると。
「おっ」
「あら」
「やっほ」
「うわっ!?びっくりしたあっ!」
何故かSF研の三人が立っていた。予想外の事態に公平は思わず腰を抜かしてしまう。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
朱音がへらへら笑いながら手を差し出す。公平はそれに素直に答えて、手を握り返して立ち上がる。
「な、なんだなんだ。どういうことだ。え?」
公平は田母神に疑念の視線を向ける。彼女は得意げな顔で『何か?』と答えた。
「『何か?』じゃねえよ。なんでここにいるんだよ?」
「使う予定がない旅券があるとは言ったわ。でも私の分の旅券がないとは言ってない」
「コイツ……!」
からくりに公平は気付く。田母神は初めから旅券を5枚用意していたのだ。そうして期限ぎりぎりに公平に渡す。そうすれば公平とエックスが泊まる日取りを制限出来る。仮に公平がSF研の企みに気付いても、旅券の期日までに使わなければいけない関係上、かなりの確率で予定を合わせることが出来るということだ。
「無駄に手の込んだことを……!」
「人聞きの悪い。たまたまこのホテルでSF研の決起集会をしようとしただけなのに」
「い、いけしゃあしゃあとでまかせ言いやがって……!」
「それより温泉に行くんだろう?」
「よかったら一緒に行かない?」
公平とエックスは互いに顔を見合わせた。エックスは屈託のない笑顔で『まあいいんじゃない?』と答える。彼女がいいのであれば仕方がない。公平は諦めたようにため息をはいて『分かったよ』と朱音に答えた。
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温泉に浸かりながら公平は問う。
「で?何企んでんの?」
「人聞きの悪いことを言うなよ、公平クン」
「ただ仲良くなりたいだけさ。やましい気持ちはない」
「仲良くなりたいってえのはやましい気持ちじゃないかね……」
そんなことを言いつつも、心の何処かではどうでもよくなっている自分がいることに公平は気付いていた。温泉に浸かっていると細かいことはどうでもよくなる。だいたいSF研の二人も女湯を覗きに行っているわけではない。悪いことはしていないのだ。
(まあ旅行のタイミング合わせてきただけだしな……。だいたい旅券は田母神から貰ったわけだし……そんなに目くじら立てる事でもないか……)
「なあなあ公平くん」
「ん?」
「実はさ。俺たちケチって食事なしのプランにしたんだよね。田母神は食事はあった方がいいって言って。アイツだけ用意したみたいなんだけど」
「ああそうなの」
「でさ。外に食べに行こうかと思ったんだけど、それだと金がかかる。そこでだ。エックスさんに俺と峰崎を小さくしてもらってだ……」
「メシなら外で食え」
「ちっ」
そこまで警戒心を解いたわけではない。のんびりした気分だが、油断はしきっていない。──だからかもしれない。
「……ん!?」
突然立ち上がった公平を峰崎と朱音はぎょっとした顔で見上げる。
「な、なんだよ急に」
「さっきの仕返しのつもりか?」
「今悲鳴が聞こえた」
「へ?悲鳴?」
「変態が覗きでもしたのか?」
「多分そういう悲鳴じゃない……」
公平は二人に目を向けて、彼らの手をぐいと引っ張って立たせる。
「な、なにすんだよ!」
「お、お前ら出るぞ!なんかヤな予感がする!」
嫌がる二人を無理やり立たせて風呂から上げる。彼らを残しておいてはいけない気がした。急いで身体を拭いて、服を着て、脱衣場の外へと出た。




