心さえなかったなら
左腕を動かす。肘を曲げたり伸ばしたり。肩を回したり。手を開いては閉じてみたり。そういった動作を繰り返して、自分の腕に問題がないことを確認する。エックスは手の上でそんなことをしている公平を、じっと見つめていた。
「うん。大丈夫みたいだ。エックスが治してくれた腕」
「はあ……よかったあ」
ほっと胸をなでおろす。大丈夫だとは思っていたけれど、実際に動かしてみないと安心できないエックスである。
『聖技』との戦いを終えたエックスたちは『魔法の連鎖』に戻ってきていた。
異連鎖の仲間たちはチェインゲートで一度『剣魔の連鎖』へと帰還した。
「『機功の連鎖』にはあの女もいるしな。明石四恩だっけ?なるべく近寄らん方がいいだろ」
とはヒビノの談である。最後に『じゃあな、公平。また縁があったら』と、ニックネームではなくて名前で呼んできたことが、公平には印象的に感じられた。
ワールドは魔女の世界へ。ユートピアはエックスに縮められて、高野や桑野の住むアパートへ帰っていった。
「一緒に魔女の世界にくればいいのに……」
「まだ弟子の育成が中途半端だからねえ。ここで投げ出すのは私のポリシーに反する」
ウィッチは、『聖技の連鎖』で姿を消してから消息不明である。彼女には連鎖を超えるだけの力はない。だからきっと、まだ『聖技の連鎖』にいるのだろう。殺しても死ぬような相手ではないし、かといって『聖技の連鎖』も相応に過酷な環境ではあるので、放置しても問題はないだろうと信じて、エックスは彼女を置いて帰ってきた。
「本当によかったのかな」
「問題があれば、ルファーがどうにかするさ。ルファーにもどうにもならなかったら、ボクにヘルプが来るはずだよ」
そう語る表情を見つめて、もしかしたらエックスは、どこかで『聖技の連鎖』とのつながりを残しておきたいのではないかと公平は思った。
「……さてっ!ところで、だ。公平」
「ん?」
「ちゃんと記憶を取り戻したのか、確認していこう。キミとボクが初めて出会ったのはいつ?」
「えーっと。確か2年前の春?夜中に散歩してるところにエックスが落ちてきたんだろ」
「正解!じゃあ次は……」
「えーっ。まだやるのかよ」
「まだまだやるさっ!」
初めてボクが作った料理は?プロポーズの言葉は?キミが初めてプレゼントしてくれたものはなに?その一つ一つに対して、公平は『えーっと』とか『確か……』とか前置きをしつつも、正しい答えを返してくる。その度にエックスは、離れていた公平が戻ってきてくれたことを実感していくのであった。そうして答える度に、目の前にあるエックスの大きな顔が嬉しそうにするので、公平の方もこのクイズが楽しくなっていたのだった。
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「ああ……」
目を覚ます。少しの間、眠っていたらしいことにルファーは気付いていた。
身体の傷は既に癒えていた。活動可能な状態に戻ってはいる。しかし心は。とうにへし折れていて、再起不能とも思える致命的な傷を受けていた。
『魔法の連鎖』は『聖技』同様の鍵によって閉ざされている。最早侵入は不可能だ。それに仮に入り込めたとしても、自分では絶対にエックスには敵わない、次元が違うとすら言える力の差があり、確かな認識として互いに共有されてしまった。それはつまり、公平の記憶をもう一度奪うことはできないということである。
「タンザナイト……」
名前を呟くと同時に涙がにじんだ。世界を水没させるほどに大粒の雫が虚無の海に浮かぶ。次に彼女を取り戻す機会は、きっともう来ない。
『聖技』が構築していた同盟は最早意味を為さないものになっていた。何故ならルファーがエックスに負けたから。ルファーが最強の女神であるという前提のもとに成り立っていた防衛の盟約が、ルファーを超える女神の存在で瓦解した。蘇生したタンザナイトの身体を維持するためのエネルギーを確保する手段がもう、ない。無理やりにでも他の連鎖から世界を奪う侵略を働けば、かつてのアルル=キリルと同じように、エックスによって滅ぼされる未来が見える。
それに何より。
『思うんだよ。そうして、色んなものを犠牲にして公平を取り戻したとしてもさ。きっと、公平は悲しむんじゃないかなって』
綺麗ごとと切り捨てたエックスの言葉が心のどこかに依然として引っかかっている。もしかしたらその綺麗ごとが一番大事なことだったのではないかと。
タンザナイトはきっと怒るはずだ。悲しむはずだ。ルファーを許さないはずなのだ。それを思えば、そもそも何かを犠牲にして彼女を蘇らせること自体が、結局のところ誤りなのである。そう思ってしまった時点で、自分はきっと二度とタンザナイトを蘇らせることはできない。どれだけ渇望しても、最後の最後できっと躊躇い、中止する。
これからの自分の未来を想像する。寄り添う者はどこにもいない自分。孤独の中でただ生きていくだけの自分。タンザナイトを蘇らせるために多くの罪を重ね、結局成し遂げる事が出来なかった自分。
「死にたい」
虚無の海で一人呟く。その言葉はどこにも届くことはなくて、一層死にたくなって、そうして仮に死んだとしてもタンザナイトと同じ場所には行けないだろうということを思ってまた死にたくなる。
こんなことなら。誰かを愛する心なんて、なかったら。
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「なあエックス」
「ん?なあに?」
「これからどうするのかな。『聖技の連鎖』……っていうかルファーは」
「……公平。タンザナイトの記憶になんか影響された?」
「そういうわけじゃあないと思うけど」
ただ朧げながらに、タンザナイトの記憶は思い出せる。タンザナイトの未来はいつか自分が辿りうる末路だ。エックスを残して、いつか自分も消えてしまうのかもしれない。そう思うと、ルファーのこともなんだか放っておけない気持ちになってしまう。きっとそれはエックスも同じはずだ。ルファーはいつか行き着く自分の未来の可能性なのだから。
「まあ。大丈夫だと思うよ」
「そうかね」
「うん。多分大丈夫だ。だってさ──」
「──ああ。そうか。そうかもな」
「ね?」
エックスの言葉を聞いて、公平は『聖技の連鎖』にいるであろうルファーに想いを馳せる。きっと。これからの彼女の生涯は苦しいことや辛いことばかりだ。けれど、きっとそれらを背負って生きていける。
「そうだよな。間違えていたとしても付いてきてくれる仲間がいたんだもんな」
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声がした。『聖技の連鎖』の外側。虚無の海。自分以外に生きる者が何もないこの空間で、彼女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
『ルファー!?ルファー!聞こえてるか!?』
「……マリア?」
心の中に直接響いてくる声。ルファーはその言葉に答える。
『驚いたな』
『ルファーか!?』
『うん。いつの間にこんなに遠くまで声を届けられるようになったの?』
『精一杯だよ。これが。アタシたちの。動けるヤツ全員の力を合わせて、アタシ一人の声を届けるのがさ』
『……そう。それで?』
『戻ってこい。無事なんだろ?』
ルファーはすぐには答えられなかった。少し悩んで、それからマリアに声を送る。
『いいの。もう。私はこのまま、ここに浮かんで、生きるでもなく死ぬでもなく』
『ばかっ!』
『……?』
『こっちだって分かってるよ!お前が辛いことくらい!けど、それを、こっちが勝手に決めつけて、何だかんだと言うのは違うから……。だから教えてくれよ……』
『……』
『アタシだって。タンザナイトが死んでムカつくくらい悲しかったさ。アイツのこと、嫌いじゃあなかったから』
『……そっか』
『なんだ』とルファーは思う。人の生き死ににドライなくせに。貴女も私と同じだったのね。
心さえなかったら、こんなに傷つくことはなかった。けれど心はどうしたってそこに在るので。であればそれを受け止めるしかない。それが一人でできないことなら、誰かと一緒にやるしかない。
『ごめんね』
『……』
『今から、帰るから……』
『……!』
『悪いけど、タンザナイトとの思い出を、話させてくれない?』
『……ああ』
安堵した声が返ってくる。
『待ってるさ』
『ありがとう』




