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エックスは何も納得できない

 真瀬紗季は新潟県にある某国立大学の教育学部に通っている。吹奏楽部に所属しており、二年上の先輩と交際していた。しかし、彼とは既に別れている。彼女自身自覚しているが、酷い別れ方をしたのだ。

 夏休みになった八月のことである。酷い感染症が流行っていた。彼氏は暫く会わないようにしようと言った。万が一にでも感染させないためである。紗季もそれは分かっていた。分かっていたのだが、やはり寂しさは募った。

 日用品を買いに出かけた八月の第三週頃。彼女はそこでばったりと、彼氏よりも一つ年上の大学院生の先輩に出会った。既に部活は引退していたのだが、時々顔を出してくれる。

 大学も休みで外出も控えていて、久しぶりに出会った知り合いに心が跳ねた。先輩の方も同じ想いだったようで、暫く談笑した。

 やがて会話の内容は紗季の恋人の話題に変わった。ずっと会えない寂しさ。文学部の彼と交際を続けて将来大丈夫だろうかという不安。そもそもセックスがヘタクソだって言う不満。

 先輩は時々笑って、時々憤ってくれた。共感してくれているように感じた。


「先輩が彼氏だったらよかったのに」


 口をついて出た言葉。自分でも信じられなくて、咄嗟に口を押える。


「ご、ごめんなさい」


 先輩は優しく笑って答えた。


「付き合ってみる?」


 その言葉が頭を通って。一瞬遅れて意味が分かって。紗季は『はいっ!』と答えていた。今までになく心がドキドキした。

 その足で先輩の家に行き、一緒にご飯を作って、一緒に食べて、そして夜を共にした。彼氏のセックスとは違った。全身が痺れるくらいに気持ちよくて、壊れるんじゃないかってくらいに心臓の鼓動が早くなった。


「どうだった?」


 先輩は得意げに言った。紗季は顔を赤らめて、抱き着きながらその腕に顔を埋める。


「幸せ、でした……」


 先輩が頭を撫でてくれた。お返し代わりにキスをして、犬みたいに頬ずりして、全身で甘えた。

 その後も彼氏に隠れて二人の交際は続いた。それから暫くして、八月病が根絶したというニュースが流れた次の日である。

 昼下がりのことだった。紗季は借りているアパートで先輩とゲームをしていた。そんな時、前触れなく玄関から呼び鈴が鳴った。紗季は「はあい」と答えて戸を開ける。そこには。


「あ、勇人、さん」

「やっ!紗季ちゃん久しぶり!」


 恋人である勇人が立っていた。


「あの、えっと」

「急にごめんっ。ほら、あのさ。そろそろ付き合って一年だし、さ。実は」

「あ、と。その。ごめんなさい。今日はちょっと」

「え?なんかマズかった?あ、でも俺どうしても今日」

「あのでも今日は」

「どうしたのー?」


 勇人は不思議そうに部屋の奥を見る。聞こえてきたのは男の声。出てきたのは一歳年上の先輩だった。


「え。あ。っと。え?」

「あ、お前……」


 勇人は紗季と先輩の顔を何度か見返した。「どういうこと?」と無言で語り掛けている。先輩は深く息を吐いて一言言い放った。


「帰れよ」

「はい?」

「帰れって」

「いやでも」

「帰れ」


 先輩は一言一言発するたびに前に出てきて、最後に玄関から突き出した。

 鍵をかけてチェーンもかけて。完全に勇人を締め出す。その後先輩は紗季に言った。


「アイツさ。部活から追い出そうよ」

「え?」

「だって居られても困るだろ?俺も紗季もさ。あっちは一人。こっちは二人だ。数は俺らの方が多い。アイツに消えてもらった方が幸せになる人間の数は多いだろ?」

「あっ。なるほど」


 やはり先輩は頭がいい。善は急げとばかりに同じ部活の友達に、恋人だった勇人についてあることないこと語った。最終的に勇人は『八月病が流行ったころに浮気をした女癖の悪い最低なヤツ』になった。どこかで聞いたことがある気がするが気のせいだろう。

 先輩も自分も、勇人以上に部活のメンバーと仲良くやれている自負がある。自分たちよりも勇人の言葉を信じる者の数はきっと少ない。これで彼の居場所は潰れた。


「簡単ですね!」

「そうだなあ!」


 ははは、と二人は笑いあった。

 同じころ、勇人は真っ白になった頭で帰り道を運転していた。信号で停車したタイミングでポケットの奥に手を突っ込んでみる。交際一年のプレゼントにと用意した指輪の箱。強く強く握りしめ、いつしか勇人は近くのコンビニに車を停めて大声で泣き叫んでいた。

 その後、落ち着いた勇人は他の部員に今回のことを話した。だがしかし。時すでに遅し。相手の根回しが一歩早かったせいで勇人の味方をしてくれる者は誰一人としていなかった。

 次の日、勇人は部活を辞める旨のメールを送った。それはつまり敗北宣言であり、先輩と紗季の勝利を告げる祝電でもあった。


--------------〇--------------


 『仕返ししよう』とエックスは言った。元の大きさに戻って二人を追いかけまわしてやろうとか。元の大きさに戻って二人でお手玉してやろうとか。元の大きさに戻って二人を蹴っ飛ばしてやろうとか色々と案を出した。何でもいいからぎゃふんと言わせてやりたかった。

 始めは勇人もそれに乗った。あんな連中どうにでもなってしまえ、と。

 怒りと恨みの力で酒が進んだ。宴会も大いに盛り上がった。酒が無くなった後はゲームをしたり、自分たちの近況を話したり。やることは沢山あった。

 そんなことをする中で、多少酔いも醒めて冷静になったタイミングで勇人は言った。


「でもまあ。仕返しはよくねえよなあ!色々あったけどよ!今日は楽しいし、もう忘れることにするよ!」


 公平も卓也もそうだそうだと同意した。陰気なことはよくない。そんなしょうもない女なんて忘れてしまえと。動揺したのは一人だけ。一切酔っ払っていないエックスだ。


「え、いや。あの。ゆ、勇人クン。その……それでいいの?」

「いやあエックスさんには悪いけどさ。いつまでも引きずっててもしょうがねえしさ」


 明るいことを言う勇人。大喜びする二人の酔っ払い。「よお言った!よお言った!」なんて盛り上がっている。

 エックスだけが納得できなかった。勇人の言うことが全部本当だったら、彼はその先輩に彼女も居場所も奪われたはずなのに。そんな事許していいのか。納得していいのか。


「そんな……それじゃあ、あの作戦は……?」


 四人で大盛り上がりしながら考えた復讐作戦。彼女自身珍しく全力で自分の力を振るうつもりだったのに。


「いやあ。まあ、復讐なんて考えても暗くなるだけだし?悪いけど、やっぱなしでっ!」


 勇人は爽やかに言った。エックスは愕然とした。公平は大喜びしている。


「よっしゃー!じゃあお祝いだ!酒飲むぞー!」

「しゃあ!コンビニ行こう!追加じゃ追加じゃー!」

「きゃははははは!」

「エックスもコンビニ来る?」

「ボクはいいや」

「そっか!じゃあなんか買ってくるし!待ってて!」


 三人は勝手に盛り上がって、エックスだけを残してコンビニに行った。

 部屋の中で静かに、目を閉じて考えてみる。みんなの言うことは正しい。復讐なんてよくない。どこかで恨みが断ち切れるならそれが一番いい。

 もしかしたら。勇人も、公平や卓也に思いの丈を吐き出してスッキリしたかっただけなのかもしれない。そういう意味ではきっとこれが一番いい幕切れだ。


「いいや!ボクは納得してない!」


 だがエックスの心中で燃え上がった怒りの炎は消えることはなかった。しかしこうなっては仕方ない。ここから先は三人を巻き込まないことにする。自分一人でやる。自分がスッキリするためだけに。復讐を完遂すると誓った。


--------------〇--------------


 夜道を歩く。公平とエックスは勇人の家を後にした。この辺は酷い田舎で街灯も殆どない。月や星の輝きだけが二人を照らしていた。


「ああ……。楽しかったな」

「よかったねえ」


 行けるところまで歩いて帰りたい。公平はエックスに頼んだ。この辺りに来ることは滅多にないので、せっかくの機会を大事にしたい。記憶にしっかりと刻み付けたかった。

 公平の手を握りながら家まで向かう。そんなエックスの頭の中では仕返しのプランが着々と組み上げられていた。

 住所は勇人から聞き出している。きっと彼女や部活の居場所を取り戻したところで勇人は喜ばないだろう。だって彼はもう納得しているから。無くしたことを受け入れたのだから戻ってきても戻ってこなくても同じことだ。だからそれは重要視しない。

 そして。何より一番大事なことは、これは話を聞いただけの第三者であるエックスが、心のもやもやを取り払ってスッキリするためだけの作戦であるということだ。彼女がスカッとすることだけが優先される。


「どういう作戦で行くかな」

「さくせん?」

「ううん。こっちの話」

「何かあるなら手伝うよ?」

「うーん。今回は公平は巻き込みたくないんだよなあ」

「そう?でも俺はエックスの為ならなんだってやるよ」


 そう答える公平を無言で見つめた。酔っ払ってるくせに。半分寝ているような状態のくせに。いつだって公平は嬉しいことを言ってくれる。

 少し躊躇って。でもどうせ覚えてないだろうしと言ってみた。


「実はさ。みんなはどうか知らないけど、ボクは全然納得できないんだ」

「なにが?」

「勇人クンのこと」

「ああ……」


 静かな夜道。暗い感情の声が闇に溶けていく。

 全部を公平に言った。全然相手のことを許せなかったこと。勇人が納得してしまったことが納得できないこと。だから一人でも仕返ししてやろうと思っていること。

 公平は一言「そっかあ」と答えた。エックスは「そうなんだ」と返した。丁度そこで家に着いた。家族を起こさないようにと、そっと玄関を開けて階段を登る。


「なあエックス」

「なあに?」

「やるなら俺もやるぞ」

「いいよ」

「俺はやるぞ」


 公平の部屋の扉を開けて、布団に入れる。本当は、この後相手の家へ行こうと思っていた。それで終わらせようと。彼を巻き込まず一人でやってやろうと。


『俺はやるぞ』


 魔法でそこまで行く直前に、公平の言葉を思い出してしまった。全然納得できていない。心はモヤモヤしているままだ。だけど、やっぱり今日はやめておこうかな、なんて思った。


--------------〇--------------


 翌日。予定通りに帰りの電車に乗って。予定通りに帰っていく。エックスは窓から流れる景色を眺めていた。


「エックス」


 公平が声をかけてきた。「なあに」と顔を向ける。真剣な表情だった。小さく息を吐いて、意を決したように言う。


「いつやるんだ」

「えっ?」

「エックスがやるなら。俺もやるぞ」


 覚えていたんじゃないか。エックスは何だか申し訳なくて。それでいてどこか可笑しくて。クスっと笑った。

 そして──。


「やる。今日やる。仕返しするんだ」


 悪い笑顔で答えたのだった。公平がいるならきっと大丈夫だ。相手の二人を、ざまあみろって笑ってやる。

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