リフレッシュをしよう:理不尽
ベッドの中。枕を抱きしめながらミサは独り言を呟く。
「取り敢えず合格、かァ……」
この日ミサは空を飛べるようになった。魔法の練習を始めてから十日目のことである。
魔力のコントロール。魔法の制御。必要な全ての技術を身につけたことで自由な飛行が可能となった。エックスが設定した最初の目的はクリアである。これでミサはヒトの社会へ帰っていっても、何かや誰かを踏み潰してしまうことは、ない。
魔法で空を飛ぶことができるようになった段階で、ミサは一度人間世界へ戻ることになっていた。今後はWWなる組織の支援を受けて生活していくことになる。
「んー……」
何となくでここまで来たような感覚。魔法を何となく覚えたいと思って、教師のような顔をして接してくる小人を仕留めたいと思って魔法を練習して、最終的によく分からない感情を抱いたままここに至った。
人差し指を立てて、その先に魔法の火を灯す。グレーの瞳に炎が映って揺らめいた。
最初にエックスに見せてもらった魔法。初めて見た時は感情を揺り動かされた。今となっては手品よりも簡単な作業でしかない。キラキラ輝いて見えた宝石の正体がただの色の着いたガラス玉だったような感覚。
魔法を覚えるという事がどうでもよくなったわけではなかった。一瞬そんな気持ちになったことはあるけれども、少なくとも今は違う。ただその感情の正体が分からないのだ。
「……チビ先は」
公平は魔法を文字通り死ぬ気で練習している。あそこまでやりたいとは思わない。けれど、エックスのためにやっていると聞いて、何か思うところがあったのは事実だった。
魔法を学ぶ最初の目標はクリアした。ではこの後はどうするか。もっともっと魔法を勉強するのか。或いはここで打ち止めにするか。
ベッドから身体を起こす。そっとドアを開けてリビングを覗き込む。シンと静かで人の気配はない。公平はいつものようにエックスの特訓を受けていて、まだ帰ってきていない。
「……ちぇ。いいや。寝ちゃお」
ベッドに飛び込むように戻って目を閉じる。これから先どうしようか。そんなこと、一回忘れてしまおうと思って。眠りの中へと落ちていく。
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『ミサッ!』
「っ!」
夢。両親の夢。巨人になって初めて見た夢。小さく震える身体を起こす。
「……なにさ。もう死んだくせに今更」
どうして今になって。少しだけ生きていてよかったなと思えるようになった今になってどうして。あの二人のそういうところが、本当に嫌いだ。
--------------〇--------------
殴られて。怒鳴られて。お腹はいつも空いていて。この身で圧し潰したあの家にいた時はいつでも死にたかった。
銃を持った男がやってきたあの日。彼女の両親は娘を盾にして逃げ出そうとした。その後ろ姿を男の銃から放たれた鉛の弾が撃ち抜いた時、その苦悶の声が聞こえてきた時、思わず口元が緩んだのを覚えている。銃口が自分にも向けられた時も、やはり恐ろしかったけれど、同時に安堵もしたのだ。
だからこうして巨人になって、家ごと全部を潰してやったことに思うところはない。あの強盗まで巻き込んでしまったのは、少しだけ悪いなとは思ったが、それだけだ。
──ただ。夢から醒めた瞬間に一瞬だけ思った。どんな相手であろうと、その命を奪った自分が、こうして生きていていいのか。
--------------〇--------------
「はあ……」
眠れない。
キッチンに行って、エックスが用意してくれた自分用のコップを手に取る。エックスの魔法で半永久的に中を冷やしている冷蔵庫を開けて、麦茶の入っているボトルを取り出して、コップに注いで一気に飲み干す。
「最悪。っていうかあのチビまだ帰って……」
「んー?あれー?魔女がいる?なんで?」
キッチンの扉の向こう、リビングの奥から聞いた事のない声が聞こえてくる。と、思うと。扉が無造作に開けられた。そこにいたのは見たことのない魔女。自分よりも少し背の高い魔女は眠そうな顔をして、深く暗い瞳を向けていた。
「はあ?誰。アンタ」
「……あ」
訳も分からず息が荒くなる。この魔女からは一切の力を感じない。まるで消滅したか、或いは封印されているようだった。だからその気になれば、自分でも倒せるだろうとミサは思った。なのに恐ろしい。
目の前の魔女は呆れたように息をはいて『なあんだ。ただのザコか』と言う。乱暴にミサを突き放し、彼女の背後にあった冷蔵庫を開けて、甘そうなものを適当に回収する。それからボトルに入った麦茶を手にする。蓋を開けて残りを全部飲み干し、空になったボトルを雑にシンクに放り投げる。
「まずっ」
それだけ言い残して、魔女はキッチンから出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと!」
「はあ?なに?」
「な、なにはこっちのセリフ!あんた何者!今日まで一度も見たこと──」
と、言っている最中で。魔女はすうっと左手を伸ばしてミサの首を掴む。
「かっ……!?」
「るっさいなあ。ザコのくせにさ。死にたいワケ?ウィッチちゃん今すっごく不機嫌なんだけど?」
「ウィ……ッチ?」
呼吸が出来なくなる。薄く開いた目に映るウィッチなる魔女の顔は、他者を痛めつける快楽を心底愉しんでいるように見えた。あの二人と同じ顔だ。
(これ、死……)
「ウィッチ!」
「!?ヤバっ!」
公平の声がした。
--------------〇--------------
ウィッチがミサの首から手を放した。その場に彼女は崩れ落ち、けほけほとせき込む。そんな姿を浮遊しながら見ていた公平は怒りを覚えながらウィッチに向かって光の矢を放つ。彼女はその矢を冷蔵庫から盗んだ甘味の皿で受け止めた。
「ちょっと!アタシのどら焼き!」
「お前……ミサに何してんだよ」
「ミサ?ああこれ?」
嘲笑うようにして涙目のミサに目を向ける。
「別に。なんか面白そうな玩具がいたから遊んでただけで」
「へえ。遊びたいの。なら代わりにボクと遊ぶかい?ウィッチ」
「……っ」
後ろから聞こえてきた声にウィッチは口を閉ざす。気付かないうちにエックスに背後を取られていて、流石に焦っているようすだ。そろりそろりと両手をあげる。
「冗談じゃないのよ。冗談。本気じゃあないって」
「本気じゃなきゃ何やっても許されるってわけじゃねえぞ」
「……お前とは会話してないっての」
そう言って。脚力を魔力で一気に強化して。思い切り床を蹴る。咄嗟に公平は突進してくるウィッチを躱した。その隙にキッチンを飛び出した彼女は、リビングの机に飛び乗って、その奥にある自分の部屋へと飛び込んでいった。そして自室の扉を思い切り閉める。
公平はウィッチの消えた先を苦々しく思いながら見つめた。
「あ、アイツ……!いつの間に魔力の強化まで使えるようになりやがった……!」
「ミサちゃん?大丈夫?」
エックスの言葉に公平はハッと我に返った。今はウィッチのことを気にしている場合ではない。しゃがみ込んでいるミサの顔の高さまで降りていき、怯えている彼女の瞳の前へと飛んで行く。
「大丈夫か。怪我は……」
ミサは力なく首を横に振った。公平はほうっと安堵の息をはく。
「悪かったな。アイツ、基本的に自分の部屋に引きこもってんだけどさ。よりによってこのタイミングで出てくるって思わなくて」
「いいよ……。それよりさ。チビ先」
「……なんだ?」
「またさ。魔法を教えてよ」
「え?」
「私分かったんだ。分かっちゃったんだよ。魔法を覚えたい理由をさ」
公平は一瞬だけ、ミサの背中を優しく撫でるエックスに目を向けた。彼女は公平の視線に気付くと、彼の意図を理解したかのように首を縦に振る。
「……いいよ。教えてやるよ。代わりに聞かせてくれないか?その理由って一体……」
「だって許せないじゃん」
涙で潤んだグレーの瞳が公平を見つめる。
「あんなさ。理不尽なこと、許せないって。自分の方が強いからってさ。私のパパもママも。あの強盗も。さっきの魔女もみんなみんな酷いんだ。あんなの。許しちゃダメでしょ」
だから自分がやっつけてやるんだと。彼女は暗に言っているように思えた。弱者を理不尽に傷つける暴力を真っ向から否定してやるんだ、と。
「……」
「お願いだよ。チビ先。私は」
「いいよ。また教えてやるよ。俺だって、ああいうのは嫌いだしさ」
ミサはほっとしたような顔で、小さく微笑んだ。
--------------〇--------------
翌日。予定よりも随分早くミサは元の国へと戻っていった。自分で決めたのだ。魔女であることを受け入れて、魔女のままで出来る限り生活していく。そういう強さを手に入れるのだと。
週に一度は公平に会いに来る。彼から魔法を教わるために。その力で自分の為そうと思ったことを為すと彼女は決心していた。
ミサが帰ったあと。エックスの家は少しだけ静かになっていた。元に戻っただけなのに、彼女が来る前よりも静かになった気がする。
「寂しい?」
エックスが問いかける。公平は今、彼女の手の上に座っていた。問いかける彼女に微笑んで、答える。
「ちょっとね。まあでも。またいつでも来るみたいだからさ」
寂しいし。色々な意味で心配でもある。ただ同時に、公平はミサを信じてもいた。
「でも大丈夫だよ。多分。俺の生徒だしさ」
「くすっ。同感」
これから人間世界には魔女がどんどん生まれてくる。或いは小さく弱い人間を理不尽に傷つける者も現れるかもしれない。だからこそ、ミサが魔女になったのはよかったことなのではないかと思うのだ。
先のことは分からないけれど、公平はそう信じることにした。




