引き金の魔女
九月初めのある日。大学生は未だ夏休みである。まだ日差しは強い。油断していると熱中症になってしまいそうだ。公平と田中はゼミを終えて大学から帰るところであった。空に巨大な穴が開いたのはそんな時である。
大学のある山中。それを降りた街の上空に穴は開いている。公平は一目で分かった。あの穴から何かが来る。穴の直径から察するに、魔女並みの巨体を持つ何かだ。エックスやローズならいいけれど。
「わるいな田中。俺ちょっと行くわ。あ、お前はさっさと避難しろよ!」
そう告げると田中一人を残して公平は魔法で街まで向かった。
穴を見上げた。何かが降りてくる。何が来るのか。先にエックスに知らせるべきだっただろうか。今更遅いか。何が来てもいいように戦いの用意をする。
ブーツが。ズボンが。それから母性的な胸が。順々に、まるで地面に気を遣うみたいにゆっくり降りてくる。「あれ」と公平は思った。どこかで見たことあるような。
徐々に顔が顕わになる。長い髪と翡翠色の瞳の魔女だ。その足は地面から数十メートル浮かんだ状態で静止した。靴裏が地上を覆う。
不安が街を包んだ。今は浮かんでいるからいい。だけどもし何かが起こって、この靴の主が落ちてきたら。彼女の足元には多くの建物がある。まだ逃げきれていない人がいる。それら全部を纏めて踏みつぶすことなんて簡単だ。
もう一つ何かが起きたら次の瞬間にパニックになりそうなギリギリの状態である。しかし、公平は臨戦態勢を解いた。彼女は知っている魔女だからだ。移動の魔法でその顔の高さまで行く。
彼女は公平の姿を認めると、ぱあっと明るい笑顔を向けた。
「来てくれたのね、人間クン。お久しぶり!」
「久しぶりトリガー。悪いけど、ここはちょっとよくないから。場所を変えないか?」
彼女はトリガー。魔女にしては比較的人間にも優しい方の子である。
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本当はエックスの部屋に行きたかった。人間世界では空を飛んでいようと何をしようと巨大な彼女は目立つ。何よりトリガーの姿は、こっちの世界ではあまり見慣れたものではない。余計に不安を煽ることになってしまう。
これがエックスかローズだったらいい。いつものことで済む。時々空を飛んだりしているけど決して危害を加えてこない巨人たち。半ば日常の風景になりつつある。近寄るのは恐ろしいが遠くから見る分には構わない。しかしトリガーは違うのだ。
なのに彼女はエックスの部屋に行くことを拒否した。これには公平も困ってしまった。どこかに人気のない所はないかなと、空を移動する。
「だって、エックスかローズに会いに来たんじゃないのか?」
「うーん。それでもいいかなーっと思っていたんだけどねー」
トリガーはバツが悪そうに、並んで飛んでいる公平に目を向けた。彼女は1000年前に魔女の世界で人間との戦いに参加していた魔女である。しかし彼女は完全に滅ぼすつもりはなかった。ちょっと脅して、力の差を見せつけて、魔女の領土を確保する。その程度でいいと思っていた。
しかし、同胞の魔女はそれに反対した。人間は全部丸ごと滅ぼすべきだという声の方が大きかった。そこまで乱暴な考え方にはついていけない。気の合わない魔女もいたので、距離を置くようになった。彼女もまた魔女の世界を捨てた魔女なのである。
「今日は人間クンに用があったりして」
「え?俺?」
「そ。実はね。アタシ今、他の世界を拠点にしているのだけれど」
と、その時。トリガーと公平の目の前に空間の裂け目が開いた。二人は咄嗟にその場で止まる。向こうから現れたのはエックスであった。空に穴が開いたと吾我に聞いて、公平と合流しようと思った矢先である。
「あれ。トリガーじゃないか。何してんの」
「うげ」
「うげって。……ちょっと待って。その前になんで公平と一緒に……」
「やば……」
トリガーは踵を返し。
「うわっ!」
「ごめんねっ!」
公平を握りしめると逃げるように猛スピードで飛んでいく。エックスはそれを無言で見つめて、ふうと息を吐く。
「舐められたもんだな」
それくらいで逃げられると思うなんて。トリガーの後を追いかけ始める。進むごとに徐々に徐々に、身体を大きくしていって。
「きゃっ!?」
トリガーの真横、何かが高速で通り抜けた。思わずスピードを落としてしまう。その直後空にあるはずのない壁にぽふんと衝突する。
「な、なにこ……。ええ!?」
見上げた先で緋色の瞳が見下ろしている。魔女である自分よりもずっとずっと大きくなって。エックスが何でも出来る力を手に入れたのは知っているけどここまで出来るなんて思ってもみなかった。
「ふふふ。キミの十倍の大きさになってみた。もう逃げられないよ?」
ゆっくりと手を伸ばす。捕まらないようにとまた離れようとする。しかしそれも無意味な抵抗だった。今のエックスにしてみれば、トリガーは小さな蝶と同じくらいの存在でしかない。蝶よりは頑丈だろうが、それ故に遠慮なく握りしめられてしまう。
「うあっ!」
「さあ。何しに来たのかな。っていうか公平を返してよ」
にぎにぎなんて言いながらちょっとだけ力を入れてみる。思ったよりも苦しそうにしたのでびっくりして力を抜いた。
「あ。ごめん」
「き、気を付けてよ!アンタ今滅茶苦茶大きいんだから!」
トリガーはエックスの拳から腕を出した。
「ほら。人間クン」
そう言うのでもう一方の手の人差し指を差し出す。トリガーはその上に公平を乗せてあげた。エックスは指先の上に乗る彼に笑いかけた。
「おかえり」
「あ、うん。ただいま」
この大きさのエックスにはまだあんまり慣れていない。いつものエックスなのだけれど、それでもいつもより注意しなければならない。彼女の感覚では自分は今0.3cmの大きさしかない。ちょっとした吐息で吹き飛んでしまうし、彼女のちょっとした身体の動きで潰されそうになる。
エックスの方もそれを分かっていた。この大きさで公平と一緒に触れ合うのは危険である。「そしたら、離すね」と言ってトリガーをゆっくりと開放する。その後エックスは普段の大きさに戻った。
「それで?今日は何の用?」
少し怒りのような感情をこめて目の前のエックスを睨むトリガー。
「な、なんだよ」
「アンタに用はないのだけれど」
ツンとした感じで言い放つ。
「……もしかして恐かった?」
「恐かったに決まってんでしょ!」
トリガーは昔のことを思い出した。彼女がまだ人間だったころ。空の上に住む魔女のお話を聞いて震えたことを思い出す。いつか巨人の魔女が地上に降りてきて自分たちごと地上を踏み荒らしていくんじゃないかって。
「わ、悪かったよぉ。もうしないから」
「……とにかく。アナタに用はないから。人間クンを貸して?」
トリガーはエックスに手を差し出した。用があるのは彼の方なのは変わらない。咄嗟にエ公平を両手で隠す。
「公平を連れて行くんならボクに話を通してもらわないと」
「……もう」
深く息を吐いて。顔に手を当てて。仕方ないという表情で口を開く。
「彼には言ったけど。アタシは今他所の世界を拠点にしているの。で。ちょっとそこで面倒ごとが起きたから協力してもらおうかなって」
「そんなのボクが行くよ。公平連れていくにしたってボクも行く」
「いやだからさ……」
巨人と巨人の会話を手の中に包まれた状態で聞いている。どうして二人とも自分の意見を聞いてくれないんだろう。誰も行くなんて言ってないのに。公平は訝しんだ。
「ボクが行ったらすぐに終わるんだって!」
「そりゃあそうかもしれないけど!向こうのみんなを怖がらせちゃうでしょ!アタシだってまだ受け入れてもらえてないのよ!無駄に恐がらせてどうするのって!」
やいのやいのと騒いでいる。公平はエックスの指にもたれかかって目を閉じた。取り敢えず二人の言い合いが終わらないことにはどうにもならない。のんびり待とう。彼女の体温に包まれて、少し昼寝をすることにする。




