八月病
8月の中旬。お盆が終わったころ。世間では夏休み真っただ中。過酷な暑さにも負けずに、外出する人が増える時期である。──例年であれば。
この年の夏は違った。街に人影は少ない。開店すらしていない店もあった。原因は連日テレビで報道されている。
『今年の8月突如世界中で流行した未知の感染症は日本でも感染者数を増しています。初期は風邪のような症状、重症化すると39度を超える発熱が起き……』
世間では八月病、なんて呼ばれている。世界各国で同時多発的に広まった新種の病だ。咳や鼻水・発熱など風邪のような症状が起こる。八月病特有の症状は全身を襲う筋肉痛のような痛みだ。エックスと公平は以前のお祭りでやけに咳込む人が多かったことを思い出していた。今にして思えばアレも八月病だったのかもしれない。
通常一週間程度で完治するのだが、高齢者など体力のない人はその後重症化することがある。その場合、そのまま亡くなるケースが多い。
感染力が恐ろしいほど高いのに感染経路は不明であった。そもそも何が原因で発生した病気なのかも分かっていない。分からないことだらけなので取り敢えずマスクと消毒液を備蓄しておこうと考えた人が多発した。現在ドラッグストアに行っても対象製品を買えない状況が続いている。
公平の通う大学は夏休み期間であるが研究室やゼミは開かれていた。しかしこれらも八月病の感染、及びパンデミックを防ぐために閉鎖されている。
多分に漏れず、公平もゼミには行けなくなっていた。実際友人の田中や担当の教授も八月病に罹っていた。症状は軽いと聞いたが、病気のせいで随分前から会っていない。因みに公平は八月病には罹っていない。田中からメールで『バカは風邪をひかないから』なんてからかわれた。
「健康だってだけでどうしてバカにされなきゃいけないんだろうな」
「そもそもボクには『バカは風邪をひかない』の意味が分からないんだけど?」
「ボクだって病気にはならないんだけどな」とエックスは呟いた。退屈そうに公平のことを指先で突っついている。実際退屈なのだろう。人間世界に行くことが出来ないのは彼女も同様なのだ。如何に彼女が病気にならないとは言え、病の原因が分からない以上は極力外出を控えたほうがいい。自分が持ち込んだ見えない何かのせいで公平が感染しては困る。
「ああ。なんてボクは優しい魔女なんだろう。だからちょっと乱暴しても許してくれるよね」
なんて言いながら指先で弾き飛ばしたり、少し強めに握りしめたりして公平の反応を楽しんでいる。どこが優しいんだ、と彼女の手の中で抗議した。エックスは聞こえないふりを決め込んだ。
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一度エックスに聞いたことがある。彼女の力ならばこの未知の感染症の原因を特定し、根絶することが出来るのではないかと。
彼女は少し悩みつつも答えた。出来るけど、やりたくないと。やろうと思えば簡単だ。しかしそれをすれば、人間から病に立ち向かう機会を奪うことになる。元々異世界の魔女である自分がそこまで介入するべきではないと思っていた。
それに、これは神様の行いである。エックスは神様のような力を持った魔女だが、神様ではありたくなかった。出来れば普通の女の子でいたい。だから、やらない。それで死んでしまう人もいるかもしれないけど、やりたくなかった。
我儘かな、エックスは公平に聞いた。俺はいいと思う、と公平は答えた。
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「あっ」
「どうした?」
「食べ物が無い」
台所の中でエックスは悩んだ。八月病が広がり始めた直後くらいに食料品を買い込んだのだが、とうとう尽きてしまった。
魔女であるエックスは食事を必要としない。ご飯を作ったり食べたりしているのは純粋に味を楽しんでいるだけ。娯楽なのである。しかし今は緊急事態。ご飯は公平の分だけ作るようにして節約するべきだったと反省する。
公平は机から飛び降りて台所へ向かった。彼女をその足元から見上げる。
「まあ。仕方ないよ。買いに行くしかないだろ」
「……うん。でもそれでも、八月病を持ちこみにくくするべきだ」
公平を拾い上げるとリビングに戻っていく。そして椅子に腰かけて机の上に降ろす。そして、カクンと顔を落とした。
ポン、という音と煙と共に、公平の隣に人間サイズのエックスが現れた。椅子に腰かけている巨体はそのままで。魔法で分身を作ったのである。意識だけそっちに移している。
「ふっふーん。しかも今回は特別バージョン!ランク99相当のキャンバスを持った魔法使いエックスだ!」
「えっ?大丈夫なのかそれ。あっちの魔法は?」
公平は俯いている本体を指差した。エックスは得意げな顔だ。
「問題なし!だってボクの本体が持っているのは無限のキャンバスだからね!そこから高々有限の、ランク99相当のキャンバスを持っていったところで影響はないよ!無限は無限だ!」
「あ……。そうか」
それから公平は分身エックスの全身を見つめる。
「な、なに……?」
なんだか照れくさそうにエックスは答えた。何か違和感がある。公平は本体と分身を何度か見比べた。そして、その感覚の正体に気付いた。
「そうか……。分身と本体を見比べることって今まであんまりなかったから気付かなかった」
「え?なんかヘン?」
「お前その身体ちょっと胸盛って」
咄嗟にエックスは公平の頬をビンタした。吹っ飛ばされて本体の太ももの上に落ちる。
「いたた……」
「変なところに気付くな!」
机の上から自分の太ももを見下ろす。そこにいる公平に向かって不機嫌に言う。どうしてこういうところの観察力はいいのかしら。ゴメンと謝る公平に、わざとらしくそっぽを向いて人間世界へ赴く。マスクとゴーグルは着けた。別に彼女自身感染することはないのだが。対策していますよというポーズである。
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「うーむ。小枝がお休みとは」
行きつけのスーパーは休業していた。こうなると他のお店に行くより他ない。しかし近くに他のお店はない。元々近くにイオンがあったのだが、他の魔女の攻撃で壊滅させられてしまったので選択肢から外れる。
「仕方ない。どーせ誰もいないし……」
とは言いつつもコソコソ周囲を窺いながら魔法で移動する。行先は同じ県内のイオンだ。昔公平にお財布を買ってもらった店舗である。
店内はやはり人が少なかった。本当に生活必需品だけ買って帰るような感じである。相変わらずマスクは品切れ状態。魔法で作ったインチキマスクとゴーグルが無ければ大変だったと思う。
取り急ぎ一週間分。お肉やお魚や野菜やお米や調味料や。暫くは自分の分は無しだ。公平さえ食べられればそれでいい。
「あ、でも待てよ。元の大きさのボク用に食べ物も大きくして料理すれば……。そうすればボクも公平もお腹いっぱい食べられるんじゃない?」
物の大きさを変えるのは自分しか使えない魔法ではあるので限りなくズルなのだが。
「まあ、いいか!」
エックスは魔女だ。魔女は自由な生き物なので、彼女は自分の都合で自分の好きなようにするのである。やっぱりボクもご飯を食べたいなという気持ちがあればそれを優先する。
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「あ、そうだ」
二階にある家電売り場。そこにあるテレビ。八月病の情報が流れていないかと見に向かう。
三台の液晶テレビがニュースを流していた。しかし肝心の八月病に関する話題ではない。夕方の天気予報をやっている。
「なあんだ」
回れ右して帰ろうとした。自分の部屋にもテレビがあった方がいいかもしれないとぼんやり考える。ニュースも見れるし。公平が借りているアパートから線を引けば何とかならないかな。
そうやって。歩き出した時。後ろのテレビモニターから悲鳴が聞こえた。
「ん?」
天気予報のどこに悲鳴を上げる要素があるのな。どこか呑気に思いながらテレビに目を戻す。天気予報士が映っていない。背景の景色だけである。
「なにこれ」
そう言ってスマホを取り出す。状況がよく分からない。SNSのアプリを立ち上げて番組名で調べてみる。今日の天気予報は浅見という人物が行ったらしい。だが。
『なんか急に浅見さん消えた?』
『突然咳込んだと思ったらいなくなった』
『なんかの企画?』
それが突然消えたらしい。まるで、魔法みたいに。
エックスはなんだか薄ら寒いものを感じた。雑多な情報を次々に見ていく。別に無視したってそんなもんだけど。何か嫌な予感が。
横目に映るテレビの画面上には『少々お待ちください』というテロップが表示されている。アプリの表示を切り替えて最新の情報を調べてみる。
「……ん?」
動画が投稿されていた。『八月病』と先ほどの番組名がそれぞれタグ付ける。プレビュー画面には見覚えのある女性が映っていた。可愛らしい顔立ちをした、ショートヘアの。『異連鎖からの侵略者』。
「何で?」
エックスは動画を再生してみる。
『……こほん。人間世界の皆さまこんにちは。単刀直入に。私、八月病をばら撒いた犯人です。そういうことが出来る力──神秘って言うんですけど。それを操ることが出来るのです』
急に。点と点が繋がるのを感じた。そういえばこの病気が流行り出したのは彼女を撃退したすぐ後だ。そして、これだけ大規模の力であれば、縮小能力と同様に、強力な魔法使いである公平には通じない可能性もある。それはつまり、感染しないということである。病気の正体が不明なのも当然のこと。この世界には存在しない力が元なのだから。
『残念なお知らせですが。八月病は完治しません。一週間経って、治ったように感じた人は、第一段階を生き抜いたというだけ』
そう言って。動画の中の彼女は何かを取り出した。
『その後、第二段階を発症します。人によって症状が出るタイミングは様々ですが……。遅くとも一月以内には発症します。この人は幸運な第二段階第一号さんですね。さっきの番組の天気予報士さんですよ。見えるかなー。こういう症状なんですよー』
過剰なくらい丁寧な説明だった。だがそれは親切心などではない。これは脅しだ。感染した人みんな、まだ全然助かっていないんだよと告げているのだ。指先をカメラに近づける。そこには蟻のような大きさで藻掻く人の姿が。
『この蟻んこサイズになったら自動的に私の所に転送されます。そこから先は……私の気分次第』
彼女は指先にほんの少しの力を籠めた。赤色が弾ける。
『さて。この連鎖の女神様。これはメッセージですよ。今すぐ。この連鎖をくださいな。そうすれば八月病を消してあげます。決断は早ければ早いほどいいと思います。まだまだ犠牲者が増えるでしょうから。……それではさよならっ!あっ、最後に自己紹介!私は『神秘の連鎖』のマアズと申しまーす!以後お見知りおきを!』
動画はそこで終わった。エックスはスマホを液晶が割れそうになるくらいの力で握っていることに気付いた。