魔女の身体を登ってみよう
その日エックスの部屋に二人の魔女が訪れていた。
金色の瞳に金髪ツインテールの魔女、ヴィクトリー。釣り目で黒髪でスリムな体型の魔女、ローズ。二人とも人間世界を守るのに協力してくれていた魔女である。昨夜遭遇した異連鎖からの侵入者について話し合うために呼んだのである。
敵は東と名乗る女。他人を縮めたり、身体を強化したりできる。魔法とは似て非なる『何か』を操る者。
「敵の力の気配は、少なくとも公平には感知できなかった。ボクでも姿を隠されたら追跡しきれない」
エックスには全能の力がある。その気に人間世界の全てを一望できる。そんな彼女ですら追いかけることが出来ない相手。東を守っている異連鎖の神の仕業であると予想している。
「一方で……『相手を縮める力』は公平には効かなかった。もしかしたら魔法使いには効きにくい攻撃もあるのかもしれない」
「……ねえ。エックス?」
「うん?なにかな?」
ヴィクトリーからの問いかけに顔を向ける。彼女は迷いながらも続けた。
「貴女の話を聞く限りだけど……。魔法を持たない身体なら貴女でも攻撃できるのよね?」
「うん」
「そんな相手魔女の大きさのダミーの身体を作って踏みつぶせば良かったんじゃないの?」
「……」
エックスは無言でヴィクトリーの瞳を見つめる。彼女の人間に対するスタンスは自分とは少し違う。それhよく知っていた。
人間世界を守ると決めた以上その敵となる相手には容赦しない。それが見た目も大きさも人間そのものであっても、踏みつぶしたって構わない。それがヴィクトリーという魔女。
「勿論、エックスがそういうの嫌いなのは知っているわ。だけどこのまま放置できないじゃない?だから、もし見つけたらアタシが……」
エックスは申し訳なさそうに微笑む。その気遣いが嬉しかった。「ありがとう」と答える。その上で「でも」と続けた。
「その前に出来るだけのことはやりたい。相手を殺さずに向こうの連鎖に帰せたらそれはそれでいいじゃないか。それに……どうにもならないってなったら。ボクがやるから」
ローズが思い切り机を叩く。鋭い視線が睨んでくる。
「ダメよっ!他に手段がないからって殺したりしちゃ……!嫌な想いするのはエックスでしょ!?」
「でも、他の誰かに責任を押し付けたくないんだよ。だって……」
「相手は貴女を狙っていたから?」
きょとんとした目でヴィクトリーを見つめるローズ。エックスはこくりと頷いた。
「ボクたちの連鎖……便宜上『魔法の連鎖』としようか。『魔法の連鎖』の上には天文学的な数の世界がある。敵はその中にある人間世界の、それもボクが拠点としている地域の辺りで活動していた。偶然のはずがないよ」
それにもう一つ。東の言った言葉。
『今日がその日だったんですね。初めまして。女神様』
まるで、いつか巡り合う日が来ると分かっていたみたいな言い方。そんな風に思えたのだ。敵は自分を狙っている。
「だから。これはボクのせいだよ」
自分のせいで関係ない人が巻き込まれた。何人も殺された。
『ミリは気まぐれな女の子だった』
北井の言葉とそれを語った時の顔を思い出す。何も言葉をかけられなかった。彼にかけられる言葉なんて持ち合わせていなかったからだ。
「でもそれは。別にエックスのせいじゃないじゃない……」
彼女の気持ちに胸の奥が暖かくなる。方向性は違うけれども、二人とも自分のことを想ってくれている。いい友達を持ったなとしみじみ感じた。だから。エックスはローズの言葉に笑顔で返した。
「うん。まあ、大丈夫だよ。ボクには公平がいるからさ」
自分を想ってくれている友達がいる。最後には何があっても必ず自分を支えてくれる人がいる。それが分かっているから。エックスはちっとも不安ではなかった。
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人間世界から公平が帰ってきたのは二人が去ってからだった。机の上に戻ってきて、椅子に座って頬杖ついているエックスを見上げた。
向こう側に行っていたのは吾我に会うためである。北井から東は人間世界のケーキ屋に勤めていたと聞いた。吾我の所属する組織──WWの力があれば何らかの情報を掴めるかもしれない。藁にも縋る想いの協力要請である。
「吾我クンはなんて?」
「取り敢えず調べてみるってさ。あとは……北井さんのことも気を付けてみるって」
「そう……」
話を終えてから人間世界に戻る北井を思い起こす。その後ろ姿からは何かただならぬものを感じた。登る朝日に生んだ影がいやに濃く見えた。思い詰めて、何かをやってしまいそうな雰囲気。吾我の組織が秘密裏に動いてくれなかったら安心できなかっただろう。
「あとは……。そうだな。東って名前に引っかかってる感じだった」
「へえ。なんだろ」
言いながら公平を指先に摘まみ上げる。そうしてじいっとその顔を見つめた。緋色の視線が突き刺さってくる。
「な、なに……?」
「ちょっと確認。昨日の夜のこと。……公平あんなに弱かったっけ?」
「……いや、えっと。そうかな?」
エックスはこくりと頷いた。
「鈍ってる。魔女の世界との戦いが終わって安心しているな?世界最強のくせに」
「いや……ほら、それは」
「試しにボクの指をどかして脱出してみてよ。力は入れてない。ユートピアをやっつけたころの公平だったら魔力強化ナシだって動かせたはずだ」
「……」
公平は半ば諦めた表情で彼女の指に手を当て、力を籠めてみた。自分の胴より太い親指はビクともしない。ちらっとエックスの顔を見上げる。どうして笑っているんだろう。却って嫌な予感がするのだけれど。
「これはボクのせいだねえ。ボクはキミの奥さんだけど、師匠でもあるんだから。近いうちに魔法の特訓を再開しようと思ったけど、その前にその身体を鍛えなおした方が良さそうだ」
「は、はい……」
ぐうの音も出ない。彼女の言う通りだ。正直言うと一度彼女が自分の前から去ってからあまり意識して鍛えていないのだ。しかしこのままではいけない。昨日までとは状況が違う。敵はすぐそこまで来ているのだ。
エックスは公平を摘まんだまま椅子から離れた。そして床に腰を下ろす。左脚は膝を立てて。右脚軽く曲げた状態に。片足だけ体育座りをしているような恰好で右のつま先のすぐ目の前に公平を下した。
「そこから」
つま先を指差しながら言う。そして彼女の指先は右肩へと。
「ここまで」
公平にはよく分からなかった。
「どういうこと……?」
「登って?」
「……それはお前の趣味だろ」
エックスは「どうかな?」と笑った。
彼女の気持ちは分かるのだ。沈んだ気持ちを抱えたままではいられない。切り替えなければいけない。だからいつもやっているように遊ぼうとしている。平常心を保つためにいつもと変わらないことをしようとしている。ついでに特訓である。順番が逆じゃないかな。公平は思った。
目の前の指先がくにくにと動いた。早く早くと待ちわびている。試しにやってみたけれど魔力強化は出来なかった。あくまで純粋な筋力だけで登れ、ということである。公平は小指の方へと回り込んで足の甲に上がった。「んっ」とエックスの声が零れる。
先へと歩いて足首の辺りに着く。ジーンズの裾は洞窟のようだ。その気になればここから中に侵入できるような。
「入っちゃダメだよ?」
上から声をかけられる。言葉とは裏腹に、見上げたエックスの顔はそれを期待しているようにも感じた。嫌な予感がするので裾を登ってジーンズの上を登ることにする。
緩やかな坂道だった。多少は加減してくれているようである。お陰で登りやすい、が。それでも身体の大きさはまるで違う。エックスの脚を往く道のりは公平にとってはちょっとした登山である。傾きが弱くても登りはやはりキツイ。
這うようにして。腕の力も合わせて彼女の脚の上を進んでいく。ジーンズは掴みどころがなかったが、一方で摩擦があるので落ちるようなことはなかった。膝のあたりまでたどり着く。右手が通せん坊していた。エックスの顔を見つめる。
「進めないよ?」
「ここから先は腕が道です」
なるほどと思った。このまま脚を進んでいくと鼠径部へ降りることになる。その先は大きく聳える胴体の壁。そこを登るのは勘弁してもらえるらしい。エックスの指先を撫でてみる。触れた瞬間にぴくっと震えたのがかわいらしい。綺麗に手入れされた爪に手をかける。つるつるしていたけれどここから手の甲へ進んでいける。
道としては細く指先としては太い人差し指。落ちないようにと這うように進む。手の甲の更に向こうには彼女のお気に入りのワインレッドの服の袖が口を開けている。
「入っちゃダメだよ?」
なんて声をかけられる。しかして見上げたエックスの顔は入って入ってと期待しているようである。公平には分かる。ここから服の中に入ったら、大義名分を得たとばかりに攻撃されるに決まっている。公平は大人しく袖を登って服の上を進むことにした。エックスはむうっとした表情でこちらを見つめた。
傾斜は脚よりもキツイ。重力が公平の身体を進ませまいと阻んでくる。
(……重力?)
ふと思った。この部屋の重力はどこから来ているんだろうか。別に惑星級の質量の物質の上に建っているわけでもないし……。じゃあどこから重力が働いているのかな……。
そんな風にくだらないことを考えた。考察に没頭した瞬間は疲れを忘れることが出来た。
時々エックスが妨害してくる。指で押し付けたり息を吹きかけたり。「何をする」と抗議すると「落ちそうだったから」とか「暑いかなって」なんて嘯いた。見ているだけでは退屈なのだろう。だからか時々悪戯を仕掛けてくる。口では文句を言っている公平だったが、万が一落ちても助けてくれるのを知っているので気楽だった。
袖を掴んで上へ上へ。小声で聞こえる「頑張れ頑張れ」という声。応援するなら妨害しないでほしい。
当然のことなのだけれど、エックスの身体からは女の子の香りがする。甘ったるくて進めば進むごとに頭がくらくらした。そんなこんなで彼女の肩へとたどり着く。
「着いたあ」
「お疲れ様―!」
エックスはパチパチ手を叩いた。そのせいで生じた揺れ。公平は彼女の肩から落っこちそうになる。公平は慌てて服にしがみ付き、エックスは落ちないようにと彼を手で支えた。
「危なあ……」
「で、でもセーフだよ」
そう言って肩の上に彼を乗せる。公平はその場に腰を下ろした。
「へとへとだあ……」
下を見下ろす。数十メートルくらいの高さ。これくらいでも思いのほか疲れるものだ。一番下に広がるのは部屋の床である。景色としてはそんなに面白くない。だから代わりに顔を上げた。エックスの緋色の瞳と見つめ合う。こっちの方がずっといい光景だ。
「暫くこれを続けるの?別にいいけどさ」
半分は彼女の趣味であるが。半分は自分の特訓である。これくらいなら続けても問題ない。
「……え?あ、そっか。いや。まだ終わりじゃないよ?」
「へ?」
「この後は」
左手の人差し指が肩を指す。それからうなじに回り込んで左肩へ。
「……そのルート危ないような」
「で、その後は」
指を右手に切り替えて。胸元へと下ろしていく。
「胴体を降りて」
鼠径部から、立てた膝を指先はなぞっていく。塔のようにそびえる彼女の左脚。
「こうして膝まで登って」
膝まで行くと脚を通って左のつま先へと指を落としていく。崖のような道のりだ。
「こうして降りて床まで。それで、1セット終わり。これを……そうねえ。何周出来るかな」
そこまで聞いて公平はエックスの肩に倒れた。
「ははは……。無茶言うなよ……」
「えーっ。前の公平なら出来たよ!」
「魔力強化ナシでそこまで出来たことねえよ!」
そんなことない。そんなことある。と、暫く言い合った。最終的には観念して公平はこの「エックス山地獄コース」で降りる羽目になったのだが。
何はともあれ、こうして新たな敵と戦うための準備が動き出したのである。