海で遊ぼう!
『聖技の連鎖』、ルファーの住む巨大な神殿。そこを大きな音を立てて駆ける一人の聖女がいた。
「ルファー!」
瞑想をしていたルファーは突然に開いた扉の向こうから聞こえた声に目を開ける。
「騒がしいですよ。タニア」
「どういうこと!?ルータが裏切ったって本当なの!?」
憤りながら歩み寄ってくるタニアに、ルファーは静かに告げた。
「ええ。残念ですが。今……あの子は『魔法の連鎖』にいるようですね」
タニアは唇を噛むと拳をギュっと握りしめて踵を返す。
「連れ戻してくる!」
ルータとの付き合いは決して短くはない。ルファーが女神になってからの永い期間で、共に彼女に仕えていた仲間の一人だった。急に出て行きました、と言われて納得できるはずもない。
「タニア」
「なに!?」
タニアはルファーに顔だけを向けた。止めたって連れ戻しに行ってやる、といった表情である。
「『魔法の連鎖』に行くのなら一つアドバイスを」
「……え?アドバイス?」
ルファーはにっこりとタニアに微笑んだ。
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『聖技の連鎖』でそんなやり取りがあったころ。
「今日は海であそ……魔法の特訓をしようと思う」
「今遊ぶって……」
「言ってない」
浜辺に来ていた。エックスとしては『箱庭』での特訓にいい加減飽きてしまったので、本当にただの気分転換だった。一足先にビキニ姿になって気合十分だ。一方で全く気乗りしない表情の公平である。エックスは足元の彼にしゃがみ込んだ。どうにかやる気を出してもらおうと考える。
「ほら、水の中っていうのはトレーニングにはピッタリだからさ。特に今のキミはスピードが足りない。水の中でも早く動けるようになれば、陸地ではまさに韋駄天だ!」
「いやまあ。それはいいんだけどさ。それより一つ確認なんだけど」
「確認?」
「今、冬だぜ?死ぬよ?俺」
公平の言う通り。今は一月。季節は冬。まだ時々雪が降ったりもする。気温だって10℃未満が平常だ。常人がこんなタイミングで海なんかに入ったら死んでしまう。
「ってことは。人が少なくて、ボクが遊んでも問題ないってことじゃあないか」
実際それは正しかった。1月に浜辺に来るようなバカはいないのだから。100mの大きさの女の子がいても誰の迷惑にもならない。すぐ傍の道路を走る車からは目立ってしまうだろうが、精々それくらいである。
エックスはそれでいいかもしれない。しかし公平にとってはそれで済む話ではない。
「おいおいおい。本気かよ。仮にこれで俺が死んでも多分誰も悲しんでくれないと思うんだけど?」
バカな大学生がバカなことをして死んだしょーもない事故として新聞の片隅で消費されそうだ。妙にリアルに想像できてしまって公平はゾッとした。
分かっているのかいないのか。エックスは首を傾げる。
「公平が死んだらボクは悲しいよ?」
「そう思うならやめない?」
「それとこれとは話が別。今日は海で遊ぶと決めたんだ」
「今絶対遊ぶって……。うわっ、ちょっと!?」
公平の言葉を意に介さず、エックスは彼を握りこむと立ち上がり、そのまま大きく振りかぶって海へ向かって投げた。悲鳴がどんどん遠くなっていって、数秒後には十数キロメートル先の地点に墜落し、水しぶきがあがった。
「おー。結構遠くまで行ったねえ」
エックスは呑気に言いながら海面へと歩いていく。最初は足首にも届かない程度の浅い海。やがて沖に入って、そこからはすいすいと泳いでいった。
公平は水面から顔を出して、エックスが来るのを待っている。彼女の巨大な身体が近付いたことで起こる波に流されそうになっても慌てるそぶりも見せなかった。
「どう?寒さで死んだりする?」
公平の目の前にまで来たエックスは得意げな顔で聞いた。公平は頭を振った。
「魔法で守ってくれているなら言ってくれればよかったのに」
「びっくりしたでしょ?」
「びっくりしたよ!」
公平を投げる直前に彼を守るためのありとあらゆる魔法をかけていた。超低温の環境下でも問題なく活動できるように。海の中でも呼吸ができるように。ついでに水着も着せてあげて。
エックスはくすくすと笑いながら公平を見つめて、ざぶんと海の中へ潜る。深く深く沈んで、少し泳ぎながら顔を上げた。
(このまま上がれば──)
公平との位置を計算したエックスは悪戯な笑みを浮かべながら浮上する。浜辺からでも見えるほどに大きな水柱があがった。
「うわあっ!?」
「わはははー!どうだー!ボクってばこんなことも出来ちゃう!」
ちょうど公平が胸の間に来るように。上から彼を見下ろすと少し顔を赤らめている。流石に照れているようだ。反応が可愛らしくて、からかうみたいにつんつんと突っつく。
「よせってば……。特訓するんだろ?」
「んー?あー。そうだったね」
「忘れてた?」
「わ、忘れてないが?」
言いながら公平を自分の胸元から出してあげて、海上へと戻す。
「……そうね。それじゃあ。シンプルに行こうか」
「シンプル?」
「ボクは追いかける。キミは逃げる。それだけ」
「なるほど。シンプルだね」
水の中では身体にかかる負荷は陸上でのそれよりもずっと大きい。ここでエックスの魔の手から逃げられるようになれば陸でもそれが出来るようになるはずである。
「そうね……。流石に十秒じゃあ短すぎるかな。十分。十分だけ待とう。十分経ったら捕まえに行くから。そこから更に十分逃げられたら公平の勝ち。当然だけどボクは魔法を使わない。あ、代わりに公平も移動の魔法は使ったらダメだよ?」
「十分か……」
公平は水面を見つめて逡巡した。魔力で身体を強化した状態で、全力で十分走ったらどれくらい行けるか。恐らくは数十キロは走れるだろう。だが水中ではどうなるか分からない。もっともっと移動できる距離は短いと考えるべきだろう。
一方でエックスが浜辺から十キロ以上離れたここまで来るのに一分とかからなかった。そんな相手からどうすれば逃げ切れるだろうか。うんうんと悩んでいる公平を見つめて、エックスはにんまりと笑った。もうちょっとドギマギさせてあげたくなる。
「それじゃあ早速始めようか!」
「ええっ!?もうっ!?」
考える余裕なんて与えない。だってこれは半ば遊びなんだから。なんて考えながら目を閉じてカウントを始める。
「いーち。にーぃ」
「十分数えるのかよ!?」
「だって携帯電話持ってきてないし。さーん。しーぃ」
「ああもうっ!」
『ちくしょうちくしょう』と言いながら公平は泳ぎ始めた。数を数えながら薄目を開けて、どんどん離れていく彼の姿を見つめる。魔力による強化で身体能力を限界まで高めて出来る限り遠くへと行こうとしているようだ。エックスは心の中でくすっと笑った。
(それじゃあまだ遅いよ)
もっと早く泳げる方法があるのにな。
--------------〇--------------
十分後。
「よぉーし行くよー」
言うとエックスは立ち泳ぎのままで進んで行った。当然だが普通に泳ぐ──例えばクロールのような泳ぎ方に比べればずっと遅い。だが魔女と人間の身体の違いというものがある。仮に同じ大きさでも魔女は人間よりもずっと高性能だ。まして60倍に大きな巨人であれば──。
「うげっ!?」
「おやおやぁ?公平まだそんなところに居たんだ?」
十分間のハンデがあったとしてもすぐに追いついてしまえる。手を伸ばせば届いてしまう距離。もう捕まえたも同然だ。だからここから先は本当にお遊びである。
「く、くそお!」
公平は更にスピードを上げた。それを受けてエックスは余裕の表情を崩さずに片手を軽く挙げた。
「まだ遅いよ?」
そう言って。『えいっ』と水面を叩きつける。その衝撃で生じた波が公平を更に前へと押し流した。
「うわあっ!?」
「あはは!今のはちょっと早かったかな?そらっ!もっと手伝ってあげようじゃないか!」
まるで子供のように何度も何度も手を振り下ろす。その度に海は大きくうねって、公平は半ば波に飲まれるように、自分の力だけで泳ぐよりもずっとずっと早くエックスから遠ざかって行った。
「エ、ックスぅううう!」
「ふふふ。身体を強化しただけでボクから逃げられるわけないだろ?」
「お前なぁああああ!」
「あはははは!……あ。そろそろ十分経つから終わりにしようね」
言うとエックスは手を止めて、代わりに海の中へと潜った。そうして腕を大きく動かして一気に前へと進んで行く。
「十分……!そうだった!」
このまま負けるのは癪だ。公平はもう一度体勢を立て直し泳ぎ始める。このまま十分逃げ切れば自分の勝ちだ。十分逃げれば。そう思った瞬間である。すぐ目の前で大きく海水が吹きあがった。かと思うと何か柔らかいものにぶつかって弾かれる。
エックスは水の中で公平を追い越して、そのすぐ目の前で身体を水上に出した。逃げようと必死に泳いでいた公平が左の胸にぶつかってくすぐったい。顔を絡めながら弾き飛ばされた彼をひょいと摘まみあげる。
「はい、捕まえた。ボクの勝ちぃー」
「ぐぐぐ……くっそお」
「こうして公平クンは巨大怪獣エックスちゃんに捕まって食べられてしまうのでしたー」
なんて言いながら大きく口を開けて近づける。生暖かい吐息が風になって公平の身体に纏わりついた。が、彼はそこまで動揺していない。いい加減公平もエックスの悪戯にも慣れた。身体に直接ダメージのいくものならともかく、食べられるマネではもう怖がったりはしない。
エックスにもそれが分かった。反応が無いのを寂しく思う反面、少し嬉しくなって、胸の奥がくすぐったくなる。
「フフフ。なんてね。と、まあこのように。ただ泳いでいるだけじゃあ、ボクからは逃げられないんだ」
「じゃあどうすればいいんだろう……」
「フフ。そりゃあ、簡単な話だよ」
エックスは公平を手に載せると陸地に顔を向けた。かと思うと手も足も動かさずに前進して、浜辺へと戻っていく。
「うえっ?」
「魔法を推進力にして進めばいいのさ。今は風の魔法をスクリューみたいにして使っている。これだけでも普通に泳ぐよりずっと早い」
「……あ、そういう」
公平はエックスの手の上で大の字になって倒れた。
「てっきり水の中でも早く泳げるように鍛えろって話かと思った」
「んー。まあ間違ってないんだけどさ。鍛えるのは筋力じゃなくて魔法だよ」
「だよねー。ははは……」
と、公平は苦笑いを浮かべながら『疲れた……』と呟く。そんな簡単なこと思いつかなかった自分が情けない。或いはもっといい勝負できたかもしれないのに。
エックスは手の上で猛省している公平の身体を指先で撫でた。
「魔法で機動力を上げるのは陸地でも使える実践的な技術だ。魔女や聖女との戦いでも使えるから覚えておいてね」
「ああ。もう忘れないと思うよ……」
「うん。……あ、そうだ。せっかく海に来たんだからさ。晩御飯のお魚獲って帰ろうよ」
「……それ密漁じゃねえかなあ?」
「ダメかな」
「ダメだろ」
そう言って二人はくすくす笑い合った。
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『魔法の連鎖』のとある世界。そこに移り住んだ聖女、デイン・ルータはじっと目の前にいる相手を睨んでいた。
「悪いけれど。私は帰らない。もうルファーに協力はしない」
「……冗談だよね。だとしたら、全然笑えないよ?ルータ?」
ルータはふるふると頭を振って、自分を迎えに来たベール・タニアを真っ直ぐに見つめる。
「私は本気。ルファーは間違っている。だから、私はここに来た」
「……そ」
タニアの周囲を飛び交う戦闘機が彼女に攻撃を仕掛ける。彼女はその蚊が刺したような攻撃を一切意に介さずに小さく呟く。
「『──聖剣起動──』」
立ち並ぶビルの中にいる人が怯えた表情で彼女を見つめた。タニアの手に真っ赤に燃える、聖剣という名を冠した扇が現れる。同時に彼女の足元──この世界の街中に炎が走った。軽く手を振れば戦闘機たちが炎に包まれて、次々に墜ちていく。
「なら。力づくでも連れ帰るわ」
ルータはぐっと身構えた。