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8-海の生まれる日


 何かを忘れて、何かが目覚めた。

 それは些細なことかもしれないけれど、変化したことだけには気付いた。

 まるで知恵熱みたいだと、医師には冗談交じりに言われたが、素直に笑えない。

 私は何かをずっと忘れていたようだ。

 その何かは私の中で冬眠から目覚めたのかもしれない。


――Happy birthday to me


 独り呟いてみた。

 まだ声はかすれて音にならない。言葉は口の中で生まれて、喉の奥にゆっくり沈んでいく。


――それでも、それでも。


 やっと安心できる。

 私は此処にいる。

 此処に生まれたんだ。


 蝉の鳴き声が遠くで聞こえる。


「季節はずれだね」


 久しぶりに出会った、友人は笑いながらいった。

 いつにもまして肌が黒く焼けている。

 彼女に会うのも二ヶ月ぶりだ。明日で夏季休業は終わり、学校が始まる。


――そうだね。


 声がわずかに唇から溢れる。ゆっくりと頷いて私が微笑むと、彼女は変な顔をして目に涙をためている。

 しきりにごめんね、ごめんねと呟きながら、彼女が顔を埋めている

 その手首から先だけが白い。

 彼女は悪くない。悪かったのは、私なのだ。


「わ、たし…こそ。ご……めん…ね」


 懸命に絞り出したはずの掠れた声は、それでもまだ空気のようにか細い。けれど、声はようやく声になった。

 精一杯でも、今はまだこの一言しか言えない。

 窓の外は晴れ渡り、空は一面真っ青に輝いているように思えた。

 それでもよく見れば片隅に入道雲は浮かび、それはとてつもないスピードで世界を包み始める。

 私がじっと祈ると、一際大きな汽笛が鳴り渡り、大粒の雨が降り出した。

 止まっていた時間の流れはどうやら加速し始めたらしい。

 

 私は泣き続ける彼女の頬にゆっくりと手を添えた。

 涙が指先に触れ、手のひらを下っていく。

 濡れた指先が、次の瞬間には渇き、伸ばしたはずの手も瞬きをする一瞬のうちにベッドの上に移動していた。

 その手を彼女が包み込み。時間はすこし緩やかになったようだった。

 

「雨、降ってきたね。そろそろ帰らなくちゃ」

「……も、う少し、……もう少し……だ、け居て」


 あなたを確かめるために、忘れないために。

 目を固く閉じて、ゆっくりと開き、そっと窓の外を見る。

 灰色の空から降り続いていた雨は小雨になり、片隅が青く光り始めていた。

 この光景は何だろう。

 空ばかりを見ていた。

 ぼやけている思考の中で、揺らぐ景色が少しづつ意味を持ち始める。

 海の底に沈む、ゴールポスト、窓のないバス、古びた机と椅子、朽ちた船の周りを色とりどりの海月が泳いでいる。


「ね、え、こ……れって」

「うん」


「う、み?」

「うん」


 スッと小さく息を吸い込む。胸が一瞬鼓動を止める。あぁ、それならば。

 外ばかりを見ていた。確かにあるはずの彼女の手のぬくもりを、その先にある彼女の顔を確かめたくて、私はもう一度目を閉じる。

 それでも開いた瞼は変わらない外の景色を映し出し、時間は緩やかなままで……巡らそうとした視線は――


「……駄目だよ」


 私が彼女のほうを振り返るのをとどめるように、手がぎゅっと握られた。

 それだけで、私はもう振り返ることができなくなった。

 頬を涙が伝う。窓についた水滴が流れ落ちるように、何度も何度も。


「な……んで、な、んで。なんで、なんで。なんで」

「ごめんね、海。でも、まだ駄目。もう少し、もう少しだから」


 二人で眺めた窓の外の海は、どこまでも美しく、透き通っていて、私はそれを眺めることしかできない。

 やがて雨は止み、ゆっくりと小さな虹が姿を現す。

 凪いだ海はすべてを閉じ込めて、ただ青く光るばかり。

 そこにあったはずのモノはもう、私には見ることができなかった。


 どれくらい時間がたっただろう。


「虹! ねえ、虹だよ」


 声がすぐ横から聞こえた。耳元に彼女の息吹を感じる。


 もう一度だけ。そう、これが始まりならば。

 目を閉じる。風が横を通りすぎる。

 ガラッと窓を開ける音。サッとざわめくカーテンレール。

 突風が一瞬顔に吹き付けて、そよぐ髪の毛に急かされるように私は目を開いた。


 光が視界いっぱいに広がり――そこに彼女の姿を見つける。

 

「うん……綺麗」


 虹を見て、目を輝かせている友人の笑顔を見て、私は久しぶりに微笑んだ。

 それに答えてふりむいた彼女の顔がまぶしすぎて、自分の顔が自然とくしゃくしゃになってしまう。

 きっと不細工に見えてるんだろうな。


「何、その顔。海、まだ寝ぼけてるんじゃない?」


 大声で楽しそうに笑いながら話す彼女の声。

 そう、私はまだ夢の中にいるのかもしれない。

 それでも、それでも彼女がいてくれるのなら。


「大丈夫。もう起きたよ」


 もうここは私の生まれた世界だ。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 


 それでも時々思うことがある。

 あの日、生まれることの出来なかった私はまだ、きっとあの夏に取り残されているのだろう。


 蝉の死骸に埋もれた、モノトーンの海の底で。

 ゆらぐ海月の群れの中で。

 一人椅子に座って誰かを待っている。

 見上げた空に飛行船が現れることを望みながら。


 もしも、もしも、だけれど。

 もう一度会えたら言ってあげたい。

 それは誰にも祝福されることのなかった彼女と彼、二人の私へのメッセージ。

 海が生まれる、あの日へ捧げる祝福として。


――Happy birthday to you

 


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