7-影
薄暗い病室の窓際のベッドで、少女は飛び跳ねるように上体を勢いよく起こした。
心臓が今にも胸を貫いて飛び出してしまいそうな予感を覚える。制御できない脈動に、微かな不安を覚えた。まるで背中から心臓を鷲掴みにされ、そのまま前へと押し出されたようだ。
ギリギリまで引き伸ばしながら、本題を中々話さず、最後になって後味の悪い一撃を食らわすような、屈辱的な痛みが、胸の奥のほうをちりちりと燻らせる。
そんな彼女の不安な気持ちとは裏腹に、身体は平穏を求め、その余韻は心臓の高鳴りと共に徐々に治まっていった。
身体を冷たい雫が伝う。
どうも夢を見ていたみたいだ。
心臓がドクドクと脈を打ち、その脈動にあわせ視界が細かに揺れる。上半身をベッドに起こし、胸を忙しく上下させている彼女の横顔から、刻みよく白い息が吐き出された。
胸に軽く手をあてて、彼女は夢の内容を思い出そうとしていた。
強くなった雨音が、彼女の息遣い以外聞こえない病室の中で単調なBGMを打ち鳴らしている。普段は心地が良い音も、今は頼り無い思考を刺激する。
あれは何だったのだろう。薄靄に包まれたような薄暗い空間。周囲をどろりとした生き物の体液が取り巻いているような、気持ちの悪い感触。生きていることはわかるのだけれど、何の暖かさの断片も感じさせない、その凍てつくような冷たい温度が、身体の内側から何かを奪い取っていく。ミントのような清涼感を放つ血が、皮膚の内側を寒さに震え上がらせながら、何処かへ流れていく……。
それは、まるで幼い頃に夢に見て、夜中に何度も震え上がり、眠れなくなった、吸血鬼のお話の出来事のように思えた。
そのお話の吸血鬼は確か、血を飲むことが出来ない、できそこないの吸血鬼だったのだけれど、彼が飲む真っ赤なワインの色のほうが、幼い彼女にとっては遥かに怖く、美しかった。あれは一種の憧れだったのかもしれない。
確か結末は……。
そこまで考えて、彼女は自分が興奮していることに気がついた。どうしてそんな前のことを今思い出せるのだろう?
落ち着きを取り戻してきた思考のなかで、彼女は必死に夢の断片をかき集めていた。そこに自分を取り戻すことのできる、重要なものがあるような気がしてならなかったからだ。
それにしても、と彼女は腕まくりをした自分の白い腕をさすり、身体を抱きかかえるように身震いした。なんて気持ちが悪いのだろう。
もがくことさえ、無力に感じるその空間で、何をしようとしていたのか? 夢に見た僅かな記憶の光景の中で、一人の少女になり、傍観者にもなった。そして、それは現実に生きる彼女の中で混ざり合っていま消えようとしている……。
フラッシュバックする記憶の数々が頭の内側を駆け巡っていく。
汽笛。影。海。蝉。海月。ピエロ。そして薔薇と手紙。
――この光景は何だろう。
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私は今、どこにいるのだろう。もう片付けは終わったのだろうか。
頭がズキズキと痛んでそれ以上考えることをやめさせようとする。これ以上進んではならない。扉を開ける必要なんて無いじゃないか。
私は今、何の扉を開けようとしているのか。
混乱した頭を抱え込んで、白いベッドの上にじっと佇んでいると、不意に横から声をかけられた。
「海、元気になったんだ」
声の主は知っているような気がした。そして、この瞬間がいつか訪れるものであったことにも気付いていた。
名前を手に入れた私は、同時に鍵も手に入れて、扉も開いてしまったのだ。
無言のまま、隣に座っている少女の顔を眺め続ける。
黒い少女はそっと腕を伸ばして、私を包み込む。
嗚咽が止まらない。私はずっと忘れていたんだ。
海が生まれたその日から。
答えはまだ用意できない。私はあなたを抱きしめる資格なんてない。
それが少女にも伝わったのか、か細い腕で私の背中を強く強く握り締めてきた。
「私は海のことが好き。だから、もう逃げないで」
その瞬間、抑えてきたものすべてがあふれ出した。涙が止まらない。声の限りに泣いた。止める術を失った私の何かは、少女と私を包み込むようにして広がった。
そうして、私と少女は一つになった。
影を得た私は、ようやく安心して眠りについた。
きっと明日は凄い顔をしているだろうな。