第二章
それ以来
宇龍は朱鞠に興味を持ち頻繁に店を訪れた。
いつしか宇龍の心の中では朱鞠が陀院と重なっていき、
朱鞠も宇龍に対し親近感を抱くようになっていった。
店主は、
店にいても役に立たず邪魔だった朱鞠に子守役が現れ、厄介払いができたと思い、
しかも、宇龍が店にいるだけで盗みをする者が随分減り、文句どころか有り難いくらいだった。
二人は、
時折連れ立って市場で食事をしたり街を散策したりもした。
海燕宅に朱鞠を連れて行くこともあった。海燕夫妻は、宇龍に元気が出てきたので喜んでくれたし、朱鞠に海燕の三人の息子達はよくなつき一緒に遊んだ。
朱鞠の両親は、
息子が何故軍人達と近づきになれたのか分からなかった。
しかし、店から追い出された様子もなく、以前より嬉しそうに出掛けるのを見て安心していた。
その日も、朱鞠は店の奥で座ったまま傍らの空間に何かを描いていた。
宇龍が、
「今日は何を描いているんだい?」
と聞くと
「文字のような形が心に浮かんで来るので、その通りに手を動かしているんだ。」
何かをなぞっているような感覚らしい。
その感覚が心地良いらしく、暇さえあれば空間に何かを描いていた。
しかし、日常生活では苦労することが多かった。
人と話すと的外れな答えをしてしまい、相手を苛立たせてしまう。
話しをしていても、相手の話した言葉通りの意味しか分からず、含まれている意図が汲み取れなかった。
遠回しに言われていることが感じ取れず、単純だと思われていた。
『この様子では周りの人間も困っただろうな』と宇龍でさえ思ったほどだ。
互いに話しが食い違ってしまうことがよくあり、相手が怒り出すこともあった。
一旦そうなると、どうにもできなくなり、ただ黙っているしかなかった。
朱鞠にとって、黙っているのは同意している訳ではなく、下手に喋って状況を悪くしないための消極的な対策だったのだ。
だが相手からすると、黙っているだけの朱鞠を見て、余計腹を立てる者も少なくなかった。
まともに話しを聞いていないと思われるからだった。
いずれにしても相手に好印象を与えることは難しかった。
そこで、
会話をする時には相手を怒らせないよう、無難な受け答えをいくつか用意しておき使い分けてていた。
子供の頃から、人との会話は朱鞠にとって苦痛を伴うことが多く、決して心の安らぐものではなかった。
人が大勢集まっている場では、話しについていけないことがよくあったし、
店番をしていても、店主から言い付けられたことの肝心な部分が抜けてしまう。
心は上の空なことが多く、他人の感情を共有することが苦手だった。
自分は生まれつき頭が悪いと思っていたし、親や他人からもそう言われていた。
一人切りで空間に形を描いている時だけが、自分自身を感じ思い通りに振る舞える時間だった。
一人でそうしていられる時間が、子供の頃からの楽しみだった。
できれば一日中でもそうしていたかった。
そんな調子だから、
子供の頃から友達もできず家族からもうとまれていた。
しかし、宇龍だけは怒らずに相手をしてくれるので、彼のことは好きだった。
宇龍には、話しの内容はあまり分からなかったが、相手の側に寄り添って聞くよう心掛けた。
それは実の息子にできなかったことをしたいという、言わば償いの気持ちからだった。
宇龍は朱鞠と話しながら、陀院との共通点をいくつか感じていた。
息子は訓練中上の空でよく注意されていた。
指示された事の真意が分かっておらず、肝心な部分が抜けている事があった。
また、
兵士達の話しをまとめるのが苦手で、戦略会議では意見があまり採用されなかった。
こんな調子で、一人前の軍人になれるのか宇龍はいつも心配だった。
しかし、陀院は幼少期から人一倍記憶力が良く、周りの人から聡明だと褒められていた。
各種の戦術戦法にも詳しかったので、初陣も参謀として参加させた。
身体の成長に伴い、いずれは一人前の軍人になるであろうと思い、長い眼で見るようにしていた。
それは周りからも言われ、宇龍自身もそう思うようにしていた。
今になってみて、
『息子の心は何処にあったのか?』
『自分は息子と何処で繋がっていたのか?』
宇龍は朱鞠の様子を見ながら、毎日自問自答し続けた。
しばらく経つと、
朱鞠は誰にも語ったことのない不思議な話しをしてくれた。
「昔、城のそばにある寺院を何気なく眺めていた時のことだけど、
大きな屋根の左端に眼が行った時、
俺の頭に何本も線が組合わさったような形が浮かんだんだ。
それを何気なく屋根に向けて書いたところへ、偶然木の葉が飛んで来た。
すると、屋根の先の辺りでふっと消えてしまったんだ。」
「何かの見間違いかと思って、回りを見回したけど何もなかった。」
「不思議に思いながら、そのまま同じ屋根の右端を見たら、さっきと似た感じがした。」
そう言いながら、朱鞠は空間に手を伸ばし、その時と同じように何かを描いてみせた。
「そこで屋根の右端に向けて、同じ形を書いたら、そこからさっきの木の葉が現れて飛んで行ったんだ。」
「そうしたかったのでしてみたんたけれど・・
あれはいったい何だったんだろう。
何かの偶然かと思ったけど不思議でならない。」
「それは何かの見間違いじゃなかったのかい?」
宇龍が聞くと、
「俺もそう思った。
それから、同じ場所で何度か同じことをしてみたけど何も起こらなかったしね。」
「やっぱり見間違いだったかと思ってしばらくは忘れていたんだ。
ところが・・」
「ところがどうしたんだ。」
「それから一ケ月くらいしてからだけど、別の所で建物を眺めていると、前と同じ形が頭に浮かんだんだ。」
「前の事を思い出して、屋根の端に向かって文字を描いてみた。」
「また木の葉が消えてしまったのか?」
「いや木の葉は飛んで来なかった。
でも屋根の端に鳥がとまっていた。」
「まさかその鳥が。」
「そう 鳥が消えてしまったんだ。」
「まさか・・」
「しかも、その後屋根の右端に同じ形を描いたら、そこから鳥が出て来て飛んで行った。」
「本当なのか 信じられない。」
以前の宇龍であれば、話しもろくに聞かず早々に引き上げていただろう。
しかし、今は朱鞠の内面に触れたい気持ちが優先していた。
感心したように、身を乗り出して聞く宇龍の姿を見て、朱鞠は嬉しそうに話しを続けた。
「毎日頭に浮かんだ形を空間になぞっていると、今みたいに不思議なことが起こる事があるんだよ。」
「ほう 他にもあったのかい。」
「うん その中でも特に不思議だったのはね・・
一年位前の事だった。
その時は、頭の中に強い閃きのような感じがして、次には空間が歪んで見えたんだ。」
「空間が歪む?それはどういうことなんだ?」
「何て言うかぁ
揺らいで見えるんだ。何もないのに、目の前の、その辺りがこんなふうに波打っているんだよ。」
朱鞠はそう言って、空中に両手を翳し左右に動かしてみせた。
宇龍にはとても信じることができなかった。
幻を見たに違いないと思った。
しかしここで否定してはならない、
この子はもっと話したい事があるのではと思い、
「そんな不思議な話しは始めて聞く、
もっと詳しく話してくれないか。」
朱鞠は安心したらしく続けた。
「歪んでいるところは、大きくなったり小さくなったりしていた。
しばらく見ていると、その奥に何かがあるような気がしたんだ。」
「なぜか自然と頭の中に書き方というか、手の動かし方が、いつもよりはっきりと浮かんで来た。
そして、何も考えずに浮かんだ通りの形をなぞったんだ。
こんなふうにね。」
朱鞠はそう言って、宇龍の目の前に掌を翳し、左から右へ扉を開けるようにした後、次には上下に小さく動かしてみせた。
「これを繰り返したんだよ。
両手ですればもっと良かったのかもしれないなあ。」
朱鞠は身振り手振りを交えて宇龍に説明した。
「どう動かすかは頭に浮かんでくるのでその通りやればいい。」
「そうすると歪んでいた空間の感じが変わって来た。
うまく言えないけど、何か様子が変わった気がしたんだ。
そこで、空間の奥に何があるのか気になって手を入れてみた。
そしたら硬い物に触った。
その時は気味悪くて手を引っ込めてしまったよ。」
「そんな気味の悪い中に、よく手を入れてみたなあ。」
「うん自分でもそう思うけど、その時は危ないとか嫌だとか、全然思わなかったんだ。
どっちかというと、触ってみたかった。
そこで気を取り直し、もう一度奥に手を入れて、触った物を掴んでみたんだ。
これがそれだよ。」
朱鞠がそう言って、胸元から取り出したのは黒い石のような塊だった。
大きさは手の平ほどで、形は丸く扁平な硬い物体で出来ていた。
中心辺りに小さな穴が空いていた。
その穴に紐を通して首から下げていたのだ。
「これは、街外れの地獄堂の入口で描いた時に歪んだ空間の奥から掴んで来たやつさ。
あの時は、いつもよりずっと強い感じがしていたんだ。
頭に浮かんだ通りやってみたんだよ。」
地獄堂というのは、
正式には六界天魔堂という。
国内の寺院では珍しく、閻魔大王を本尊として羅刹や鬼達を多数奉っていたので、人々から怖がられ、地獄堂と呼ばれていた。
「時々おじさんが父さんのように思えるよ。」
朱鞠がふと言った言葉に宇龍は嬉しかった。
『この子と陀院は何かの因縁で繋がっているのかもしれないな。』
と宇龍は感じた。
『息子の魂がこの青年との出会いを導いてくれたのかもしれない。』
とも思った。
偶然な出会いからではあったが、宇龍の中で朱鞠は息子同様の存在となっていった。
「これは俺の宝物なんだ。
変な石ころだけど、近くからよく見ると結構綺麗なんだよ。」
そう言って、朱鞠は笑いながら黒い石を首から外し差し出した。
その石を手に取り、眼を凝らすと黒い表面の奥に何色もの小さな光が瞬いていた。
その瞬きは、風に揺れる黄金の首飾りの如く、可憐な輝きを放っていた。
「こいつは綺麗だ。
こんな美しい石は今まで見たことがない。なくさないように大切しろよ。」
それを聞いた朱鞠は、にっこりと頷きながら大切そうに首から釣り下げた。
宇龍は、彼の話がどこまで本当なのか疑問だった。
この青年は幻を見る癖があるのかもしれない。
ただそんな話しをしてくれたことが、互いの距離が近づいたことなのだと思った。
しかし、石に不思議な魅力を感じたことも事実だった。
見ていると、その小さな光の瞬きに心が引き込まれてしまいそうな不思議な感じがしたからだ。
それは、城内の女官達が身につけているどの装飾品よりも立派なものに思われた。
その頃
城内の一室で、倭三が娘の登南と話しをしていた。
その部屋は、城内の目立たない場所にあった。
室内には大した飾りもなく、石の壁が剥き出しになっているような殺風景な造りで、人目をはばかって話しをするに好都合な場所だった。
二人はそこでよく密談を行う。
倭三は、権力を握るために娘を王家に嫁がせていた。
また、娘の登南も父親に似て権力欲が強かったので、喜んで王の第二夫人に収まっていた。
王には正妻との間に子供がいたが女の子だった。
正室は登南より十歳近くも年上だったので、今後世継ぎを産めるかは分からない。
もしこのまま男の子が生まれず、
第二夫人の登南に男の子が生まれれば、次の王はその子となる。
登南は王の母親となり、倭三は祖父となる。
それがこの親子の描いている将来像だった。
登南は考えていた。
自分だけが王の寵愛を受け、世継ぎを産むためにはどうしようかと。
そこで倭三に自分の計画を話した。
それはまず城から離れた場所に別邸を設けること。
王妃やうるさい家臣達から王を引き離しておけば、周りの目を気にせず勝手に振る舞うことができる。
王を取り込み、自分の意のままに操り、いずれは世継ぎを授かろうというものだ。
登南の話しを聞いた倭三は喜んだ。
別邸を造り、登南が仕切ってくれれば王を操り易くなり倭三にも都合が良い。
いずれ娘が男の子を産んでくれれば、長い間望んでいた国の政権を自らの手に握れる。
ついては王をその気にさせなくてはならない。
王子がいない不安を倭三があおり、娘が王をたぶらかすといった役割が自然と出来上がった。
登南が言った。
「私に任せて あんなお坊ちゃん簡単にだませるわ。」
では別邸を設けるにはどこがいいか。
城から離れていて、景色の良い郊外で適当な場所はないか二人は話し合った。
ふと登南が思いつき
「あそこはどうかしら。
東へ行った山の麓にある有名な寺院のあるところ。」
「寺院とは 天用武寺のことか。」
「そうそんな名前だった。」
「確かあそこは、大昔に開祖が悟りを開いた場所だと聞いたことがあるな。」
「それは好都合だわ。
そんな由緒正しい場所で子が授かれば、それこそ世継ぎに相応しいじゃない。
お父様はそう思いません?」
「なるほど
今の寺院はどこかに移ってもらえばいいしな。
あそこには、坊主や年よりしかおらん。
皆大人しく言うことを聞くだろう。」
「お前に世継ぎが授かれば、今の王には隠居してもらおう。余生を送ってもらうにも良い場所ではないか。」
「あらっお墓もそばにあるじゃない」
「それは手っ取り早いなあ ハッハッハッ」
彼等の欲望の前には礼儀も敬意も無かった。
歳を重ね権力を持つほど、その不遜な考え方は強まっていったのだ。
短時間でこの相談はまとまった。
翌日、倭三は久龍を密談に使ういつもの小部屋に呼び出した。
窓が北側にひとつしかない暗い小部屋の椅子に、二人は腰を掛け相談を始めた。
倭三は久龍に計画のあらましを話した。
「恐らく僧侶や信者達が大勢反対するだろう。
反対者側の規模が大きくなれば、いずれ軍を出動させなくてはなるまい。
その時は、お前に働いてもらいたいのだ。」
「僧侶達に武力を使うのはいかがなものでしょうか?
信者達の反感を買うと思われます。」
「ではどうすれば良いのだ。」
「まず下見をさせて僧侶達の反応を見ましょう。」
「その上で、歯向かいたくなるよう仕向けるのです。
口実を揃えて、国に盾突く反逆者と決めつけられれば、こちらの思う壷です。
国の反逆者相手に軍を出動させても、文句は出ないでしょう。」
「うまくことが運べばお前には貸しができるなあ。」
「いえっ 貸しなどと滅相もない。」
二人はニヤニヤしながら企みを話し続けた。