1話 いきなり転生じゃやりきれない!
1
高校2年の5月。
その日の空は、やけに青かった。
梅雨入り前の貴重な晴れ間だと、テレビの天気予報が言っていた。
制服の長袖が歩くたび肌に張りつく。
俺はまたひとつ、ため息をついて腕まくりを巻き直した。
駅へと向かう坂道。
歩道の脇では、アジサイの蕾がまだ固い。
吹き抜ける風に期待しても、汗ばんだ首元にはただ、生ぬるい空気が触れるだけだった。
「マジで、もう半袖でいいだろ……」
誰にでもない言葉がこぼれる。
校則に文句を言ったところで、変わるわけじゃない。それでも口にせずにはいられなかった。
遠くから、トラックのエンジン音が近づいてくる。
少し荒い音。
だが、俺はこの時イヤホンから流れる音楽に気を取られていた。
ふと顔を上げた瞬間、目の端に異様なスピードで迫る白い車体が映った。
「えっ」と声が出るよりも早く、世界が裏返った。
鈍い衝撃。
重力の感覚が消え、次の瞬間、体が宙を舞った。
痛みではなく、音が先に来た。
金属がひしゃげるような、タイヤが急制動するような、そんな音。
弾かれた体が、対向車線に投げ出される。
視界の中で、空と電線と車のヘッドライトがぐるぐる回った。
「——っ!」
ブレーキ音は聞こえた。でも、止まることはなかった。
跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられる。
何かが折れる音が、自分の中から響いた。
それでも終わりではなかった。
ぼやける視界の先に、もう一台。
まるで悪い冗談のように、別の車が俺の方へと突っ込んできた。
時間が止まったような、加速したような、現実味のない刹那。
最後の衝撃は、まるで音のない爆発のようだった。
骨のきしむ感覚が、頭の奥でぼやけた鈍い音と混ざって、やがて何も聞こえなくなった。
身体がどこにあるのか、もうよくわからない。
地面に倒れているはずなのに、感覚は遠く、まるで誰か別の人間のもののようだった。
目を開けているはずなのに、視界は暗く、ぼやけて、淡く光る青空だけが滲んで見えた。
誰かが叫んでいる。足音がする。
だけどそれも、ずいぶん遠くの出来事みたいに響く。
喉が、何かを言おうとした。
けれど、声は出なかった。
代わりにこぼれたのは、ほんのわずかな呼吸の音。
肺の奥で何かが詰まっていて、空気が入ってこない。
意識は深い水の底に沈んでいくようで、まぶたひとつ動かすのも、もう難しい。
なのに、頭のどこかだけはまだ動いていた。
ほんのわずかな思考の残り火みたいに、小さな“後悔”がふっと浮かぶ。
——まだ、なにもしてないのに。
そんな言葉が、心の奥に滲んできた。
今まで好きな子に、ちゃんと話しかけたこともなかった。
部活だって、ただ続けていただけで、本気になれずに高校ではやめてしまった。
親にありがとうって言ったこと、最近あったか?
将来の夢も、やりたいことも、曖昧なまま全て中途半端にしてきた。
「いつか」「そのうち」「まだ大丈夫」
そう思って、今日までやり過ごしてきた。
でも、「そのうち」は、永遠には続かない。
こんな形で終わるなんて、想像すらしていなかった。
胸の奥が締めつけられる。けれど、身体はもう動かない。
言葉も出ず、ただ後悔だけが静かに胸の中を満たし、溢れていく。
本当は、もっと笑いたかった。
もっと誰かを好きになって、誰かに好かれてみたかった。
バカみたいに叫んで、走って、泣いて、そういう普通の毎日を過ごしたかった。
ただ、それだけだった。
後悔が止めどなく流れる。
けれど、時間はもう戻らない。
光が、だんだんと遠ざかる。
音も、匂いも、世界そのものが、淡く溶けていく。
最後に残ったのは、やりたいことをやらなかった、自分自身への静かな悔しさだった。
先程まで溢れていた後悔が嘘のように、途端に静寂に変わる。
いや………もう……………いいか…………
ぽつり、とその言葉だけが浮かんだ。
死ぬことが怖いとか、そういう感情ももう湧かない。
ただ眠る前のまどろみのように、静かに、ゆっくりと世界が滲んでいく。
目の前の空は、あいかわらず青かった。
どこまでも澄んでいて、雲ひとつなくて、今日がただの登校日だったことを思い出させた。
時間が、止まっていく。
耳鳴りが消え、音がなくなり、感覚が遠ざかっていく。
視界はもう真っ暗で、何も見えない。
唯一、遠くから救急車のサイレンが聞こえるが、もうどうでもよくなった。
ごめん、約束、守れなかったよ。
2
どれくらい時間が経ったのだろうか........。
音も、光も、空気すら感じられない——ただ、深い深い闇の中に自分だけがぽつんと取り残されている。
さっきまで交通事故に遭って倒れていたはずだ。
けれど、不思議なことに、今俺は暗闇の中で立っている。
自分の体だけは、はっきりと感じ取れた。
手も、足も、胸の鼓動も確かにある。
まるで目を閉じているだけのようだが、どれだけ目をこすっても開けても、景色は変わらない。
「夢……なのか?」
俺は思わず呟く。
試しに頬をつねってみる。
指先に伝わる柔らかな感触——そして、その次に鋭い痛み。
「……痛い」
夢ではない、と確信するには十分すぎた。
事故の痛みは覚えているが、シャツをめくって腹を見ても傷や出血はどこにもない。
考えれば考えるほど訳がわからなくなる。
さて、これからどうしたもんか........。
腕を組んで考えるが、何も思い付かない。
俺が悩んでいると、目の前に光の粒が数個現れた。
星屑のように繊細で、ほんのかすかなきらめきだったが、それは確かに「何か」の始まりだった。
ひとつ、またひとつと、光の粒が闇の中に現れてはふわりと漂い、やがて少しずつ集まり始める。
それはまるで、見えない誰かの手で形づくられていくようだった。
目を凝らすと、粒たちはひとつの輪郭を描き出し——そして、ぽん、と軽快な音を立てて弾けた。
そこに現れたのは、小さなウサギのようなぬいぐるみだった。
少し無造作な髪からピンとした耳が見える。
ふわふわの毛並みに大きな丸い目、首元にはネクタイが結ばれている。
まるで誰かの部屋に飾ってありそうな愛らしい姿だが、そのぬいぐるみは、
「やあ、ようこそ。びっくりした?」
確かに喋ったのだ。
その声は子どものように無邪気で、どこか懐かしさを含んでいた。
「こんにちは、沖谷悠斗くん」
「は、はぁ…」
うさぎは続けるが、俺はいきなり始まった意味不明な現象に戸惑うことしかできなかった。
光の中からぬいぐるみが現れ、話しかけてきたんだ。戸惑うのが普通だろう。
しかも俺の名前まで知っている。
そんな現実離れした状況に普通の人はついていけないし、むしろ「はぁ……」と答えた俺は良い方ではないだろうか。
そんなことを考えている俺をよそにぬいぐるみは、
「まあ君も知ってるだろうけど」
と淡々と話を続ける。
「君はもう死んでいる」
ぬいぐるみにいきなり北◯の拳ばりの死んでる宣告をされ、俺は思わずあべしっと言いそうになったし、実際心の中で呟いた。
「そういえばまだ名乗ってなかったね。僕の名前はルウ。君をここに連れてきた張本人さ」
うさぎ、もといルウはそう言って胸に手を当てる。
「へぇ……」
まあ、そこら辺はなんとなく察していたけど。
いたけども........!
そんな話されても「へぇ……」しか言えないじゃん。
でもなんだろう、こいつからは嫌な感じがしない。
むしろいい奴?いやまだわからんけどとにかく悪い奴には見えない。
「俺はなんでここに連れてこられたんだ?死んでるはずだろ?」
ルウの雰囲気で少し警戒心を解いた俺は、とりあえずの質問を投げかける。
「それは君の魂を天界に送れなくなったからだよ」
て、天界?
俺は何かしたのか?
「……ざっくりしすぎてわからん。もう少しわかるように頼む」
ルウは心得たとばかりに頷き、話し始める。
「君が死ぬ間際にした後悔や未練が強すぎて、このままじゃ完全に天界に送ることができないんだよ」
そう言うと、ルウはやれやれみたいな呆れポーズをとる。
なんだこのうさぎは。
初対面のくせに失礼じゃないか。
「未練が多すぎると、現世との繋がりが強すぎて現世で行き場を失って彷徨う幽霊になるのさ」
幽霊ねぇ........。
「なるほど。つまり俺はここに来ていなければ幽霊になってた訳か」
壁とかすり抜け放題だし、心霊写真に写ったり。
それはそれで面白そうだな。
「まあそう言うこと。で、ここからが本題」
そう言うとルウは小さな手を俺の方に向けた。
すると、ルウの手が紫色に光り、その光は俺の方へと伸びていった。
眩しくて思わず目を瞑る。
目を瞑っててもわかる何とも言えない不快な感覚が、体に流れる。
しばらくして光が収まり、ゆっくり目を開けると右手の中指に見慣れない指輪があった。
「それはコントラクトリング。君に呪いがかかった証さ」
指輪をまじまじと見ているとルウが説明する。
「え……!?は?呪い?」
死んでるのに、呪われるのかよ!?
「そう、呪い。君は前世でやり残した10の後悔を、僕が用意した次の世界でやり遂げるまで死ねない呪いにかかったんだよ」
勘弁してくれよ........。
「なんだよそれ……ていうか俺、自分が死ぬ時にした後悔の内容なんて覚えてねーぞ?」
そういや死ぬ時、何がしたくて後悔してたんだっけ?
…………。
全く思い出せない........。
こんなことになっている元凶の部分が思い出せないとはどういうことだ?
死に際の光景はまだ覚えているのに、その時の感情がまるっきり抜け落ちている。
死んだせいなのだろうか……。
「まあ、それは追々見つかるさ」
くるくる回りながらルウが気楽そうに答える。
呪いをかけておいてなんて軽さだ。
しかし死なない呪いとは、チートにも程がある。
死ぬたびに特異点まで戻ることができたり、同じパーティの女神の復活魔法よりはるかにタチが悪い。
そもそも死なないのだ。そんな痛い思いもしなくて良いと思うとこれはむしろプラスか?
「えーっと……一ついいか?」
そういうとルウはピタリと回るのをやめ、こちらを見た。
「俺は別に生き返らせてほしいとか、もう思ってないんだけど」
正直俺はもう生きることを諦めていた。
未練を残したせいでこの展開になってるのに何を言ってるんだと思うかもしれないが、一回死んでからもう一度生きたいと思わなかった。
別に大した思い入れもあるわけじゃないし、残してきた想い人もいるわけじゃない。
このまま大人になっても、ストレス社会の波に飲まれるのが関の山だ。
ここで死ねるならいっそ清々しい。
しかし俺の気持ちに関係なく、ルウは答えた。
「は?君の意思で転生させるわけじゃなくて、こっちの都合で転生させるのさ。君がどう思っていようが、これは揺るぎない決定事項なんだよ。拒否権なんて、最初からないない」
「…………」
手をひらひらさせて俺の意見をあしらうルウ。
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
絵に描いたような横暴に俺は黙るしかなかった。
「ちなみに呪いを解いて天界に来れば、何でも一つお願いを叶えてあげよう」
そういうと俺の足元が光り次の世界に転生するための魔方陣が出来上がる。
「おい!ちょっと待てって!!」
俺の体がふわりと浮かび上がる。
え、もう行くの?
ほんと待って?
俺が転生する?あのアニメや漫画みたいにか?
ありえない。
「それじゃ、無事天界に帰ってきてくれることを願っているよ」
魔方陣が光を放ち、俺はその光に包まれる。
こうして、
俺の「死なない呪い」という奇妙なおまけ付きの異世界転生が始まった。