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ちょっとだけオチのある短編集(ここを押したら短編集一覧に飛びます)

記憶コンダクター

作者: よっきゃ

「あなたは記憶が混濁しています。そして記憶できなくなっています。もはやまともに指揮を執ることはできないでしょう」


 それは医者からの非情なる宣告だった。


 その時、僕の脳内にはベートーベンの交響曲第五番第一楽章『運命』の一部分がひっきりなしに鳴り響いていた。


 確かに最近の僕はおかしかったと思う。

 妻に言われたことも、オーケストラの指揮の仕事中のことも、どれも記憶が曖昧ではっきりと覚えていないのだ。


 まるで世の中が乱れて、色んなものが混ざりあってしまったような状態だと感じた。意識もぼんやりとしていて、自分の力で生きているのかもわからないような状態。生と死が混濁していた気もする。


 今もこうして医者から悲痛な宣告を受けたばかりだが、早くても明日にはすっかり忘れているだろう。それか勘違いして別の意味に取り違えているかだと思う。


「あなた、やっぱり記憶がどこかおかしかったのね」

「ああ、すまない。こんなことになってしまって」

「いいえ、いいのよ。気にしないで。私がしっかりと支えるから、あなたは安心して生活してちょうだい」

「しかし、僕の記憶は混濁しているんだ。安心なんてできないよ。もう指揮者の仕事も辞めなければならないだろう」


 診察室を出た後、一緒に病院に付いてきてくれた妻と、さきほど先生から言われたこと、そしてこれからのことについての話をする。

 まだ記憶が乱れていないうちに、できるだけ妻と話をしよう。


「それで、明日の指揮なんだが」

「明日は演奏会の日でしたわね。これが最後の指揮になるのかしら……それとも……ううっ」

「え? どうして最後の指揮になるんだい?」

「あ、あなた……もう記憶が……」

「記憶がどうかしたのかい? あ、そう言えば僕はいま病院にきてるけど……。あれ? 何の用事で来たんだっけな。ははは。忘れちゃったよ」

「あなたは記憶の……いえ、なんでもないですわ。あなたは今日、健康診断にきただけなのですよ。そして健康状態はいたって良好でしたわ」

「そうか、健康か。それはよかった」


 僕は健康診断のために、わざわざ妻と一緒に病院へきたようだ。

 しかし、健康だというのにどうして妻は泣きそうな表情をしているのだろう。

 まあいいか。そんなことよりも、僕は健康なのだから、明日はしっかりと指揮を執らないと。



 翌日。高齢になると朝が早くなるというが、今日は太陽が地平線に顔を覗かせる前に目覚めた。


 なぜこんなに早く起きたのか。それはオーケストラの指揮という仕事に行くためだ。今日は演奏会なのだ。気分が高まっているのだ。早く起きた理由は僕の年齢が高いからだけじゃないのだ。


「あなた。おはようございます」

「ああ、おはよう」

「今日は演奏会の日ですわね。私、楽しみにしておりましたのよ」

「そうか。今日はおまえも聞きにくるんだったな。……と、それよりもだ。なんだかおまえ、やつれていないかい?」

「あら、そんなことないですわよ。私はいつだって元気ですわ」


 そう言うと妻は両手をぎゅっと握りしめ、力こぶを見せる仕草を僕にしてきた。

 このお茶目な仕草が僕の心をくすぐる。抱きしめたくなる。

 僕はそんな妻をそっと抱きしめ、


「そうか。健康なら別にいいんだ。やつれたなんて不快なことを言ったことは気にしないでくれ」

「ええ、気にしてないですわよ」

「それはよかった。あ、そういえば、僕は今日演奏会に行く予定なんだが、今日のおまえは何をする予定なんだい?」

「私はあなたを演奏会の会場まで連れていく予定ですわ」

「おお、そうだったな。今日はお前が運転して連れて行ってくれるんだったな」

「そうですわよ。では、朝食を済ませましたら会場へ向かいましょうか」


 こうしちゃいられない。早く会場へ向かわなくては。

 僕は抱きしめていた妻から離れ、朝食をとることにした。



 妻に連れられ、会場へとやってきた。

 裏口から控え室へと入る。

 するとそこには、すでに集まっているメンバーたちがいた。


「おはようございます! マエストロ!」

「ああ、おはよう」


 元気にあいさつをしてくれるメンバーたち。

 こんな私に対して、こんなにも明るく接してくれる。

 私はこのメンバーたちと過ごすことのできるオーケストラが心から好きだ。私の生きがいだ。かけがえのない宝物だ。一生大事にしたい。



 さて、本番が近づいてきた。

 緊張感が一気に増していく。


 すると突然、「これを今から読んでください」と、メンバーの一人から一通の手紙を渡された。


 とても綺麗とは言えず、くしゃくしゃとしている一通の手紙。

 だが、そのくしゃくしゃが、どこかあたたかい。ほっとする。そんな気持ちにさせてくれた。

 僕はその気持ちを抱きながら、手紙を読むことにした。手紙にはこう書いてあった。


『いい音楽は人々の頭でなく心に刻み込まれ、記憶されていきます。たとえその音楽を奏でた人間の記憶が混濁していたとしても、否応なしに記憶されていきます。頭でなく、心からの記憶。そうしていい音楽は刻み込まれ、時代と心を繋ぎ、次なる時代と人々の心へと受け継がれていくのです。そしていい音楽を奏でていたある指揮者の一人は、人々からこう呼ばれていました。彼は記憶コンダクターだと。今日も指揮、頑張ってくださいね』


 僕は手紙を読み終えた。

 手紙の裏には妻の名前と昨日の日付が書いてあった。目頭が熱くなる。


 記憶コンダクターか。僕もそのような人々の心に残る指揮が執れるのだろうか。

 いや、執らないといけないな。


 実は最近、僕の記憶が曖昧になってきていることに気づいている。

 なのでこの演奏会が終わったら病院に行くつもりだ。

 だから、もしかしたらだが、これが最後の指揮になるかもしれない。


 そうして今日の僕は、精一杯、人々の心に残るように心を込めて指揮を執った。

 そんな今日の演目には、ベートーベンの『運命』が入っていた。


 僕は信じている。記憶コンダクターとなれる運命が僕にもやってくることを。

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