あの人
赤龍の肢体がのた打ち回るような雲がある。爽やかでありながら濃い青の、すう、と冷えてゆく感じの空の全体に広がっている。
早春の夕暮れ。
あの人はまだ来ない。
私は花殻を土に返すべく、そっと庭の下草の上に置いた。少し肌寒い。
明けて。暮れて。
私には長いと感じる月日が過ぎた。
春が来て夏が来て秋が来て冬が去り、再び春が巡ってきた。
赤龍の雲を見上げる。空は刻々と変容し、色合いも形も微妙に異なるものとなる。
今時、古風な日本家屋に女一人、住まうのを奇妙に感じる近隣の住民もいるだろう。両親の死後、私は遺産によりこの家を維持管理し、活け花や書道を教えながら細々と生活している。あの人との約束のトパーズが左手の薬指に光る。竹箒で庭を掃きながら、和名では黄玉とも呼ばれる石が、残照を反射してきらり、ちらり、と。
黄昏時は逢魔ヶ時とも言う。
今の私は心弱く、脆く、魔が現れたならいとも簡単につけ入られてしまうだろう。竹箒は清かでささやかな音を立てて規則的に動く。
規則的でないのは私の心だ。
指輪まで貰っておきながら、それでも揺れる私の心は、あの人に以前、想う相手がいたと知るゆえだ。トパーズは、本来ならその女性に贈りたかったのではないか。長く海外出張に出たあの人の心を、そう邪推してしまうのは、やはり時と距離のせいだろう。
目を瞑ると花の甘く熟れた香りと少しきつい匂い、夕食の支度の匂いなどが入り混じって鼻腔に届く。子供たちがただいまと言い、母親がお帰りと迎える。
そんな家庭が私にも築けるのだろうか。
海を隔てたあの人に尋ねてみたい。
少し照れたようにしながらも頷く。
そんな様子が目に浮かぶ。空はいよいよ深く透き通った青じみてきた。赤龍が押し遣られ、どこかへ消えてしまった。
あの幻獣はどこへ行ったの。
もしも海を隔てたのなら、あの人に伝えて欲しい。私が待っていることを。
竹箒を立て掛ける時、右手親指の逆剥けに気付いた。逆剥けは親不孝の印だとも言うが、私の親はとうに亡い。それとも生前の足りなかった孝行を、責められているのだろうか。
私は庭をゆっくり歩きながら、右の手を、そして左の手を顔に押し当てた。
あの人が欲しかった。
略奪だと罵られ、父に頬を張られても。
何度だって相手の女性に謝る。土下座しても良い。
赤い龍。黄昏の魔魅。
冷え始めた空気が肌に触れても、私は庭を緩慢に歩いていた。梅、桜、柿の樹などの横を精霊のようにすり抜けながら。
美しいトパーズは雫の形。
まるで私の流す涙の予兆のよう。
知っていたのだろうか。あの人は。私の狡さ、卑小さ、醜さを。
彼女と私を天秤に掛けた時、どうして私の重みが増していたのか解らない。
何度も何度も繰り返し繰り返し、私はあの人の愛を確かめた。
ああ、甘くすえた花殻の匂いがする。
木戸がきい、と開く音がして、私の弛緩していた心がはっと張り詰めた。
庭の裏。知る人とて少ない木戸が開いて、そこにあの人が立っていた。
悪戯めいた微笑を浮かべて。
驚かせようと思って。
そう告げ終わる前に、私はしゃにむにあの人にしがみついた。あの人は自分のほうが驚いて、それから私を全身で受け止めてくれた。冷えてるね、そう言って、暗に私を屋内に促す。
夕食の用意も何も疎かにして、私は日に焼けて色褪せた畳の上であの人に身体を全て委ねた。
待っていた。
待っていたのよ。ずっと。
ずっとずっとずっと。
乾燥の為だろうか、少しかさついたあの人の手が、私の上を愛しむように這う。
唇に唇が。私の双丘はあの人の胸板に押し潰されぐにゃりと変形した。啄まれて舐められる。深い、深いところまで導かれる。
痺れるような陶酔。
気が付くと私は、一人で庭に立っていた。竹箒を手に。
一体、今のは何だったのだろう。黄昏が見せた夢幻だったのだろうか。
庭に横たわる花殻は先程までの夢の中の私のようだ。
身体の火照りがまだ身の内にある。埋み火のように私を焦がす。
私は独りよがりのように紺の増した空へ手を伸ばした。手の甲に、あの人が夢で散らした痣が花のように咲いている。
何が現実で何が夢なのか、私には解らなくなってしまった。
その時。
木戸がきい、と開く音がした。
美しいお写真は空乃千尋さんの提供によるものです。
ありがとうございます。