06 悪夢 3
バシャバシャと水を跳ね散らせながら、だんだんと足音が近づく。黒髪の少年は恐怖で目を見開いていた。
不意に川の流れる音がした。雨が降り続くせいで、濁流と化している。どうやら知らないうちに川の淵に向かって走っていたらしい。すんでのところで少年は足を止めた。
その時、男が追い付き、空を斬る音がした。
「あっ……!」
音がすると同時に背中に熱を感じた。男が背中を斬ったのだ。
少年の体中の力が抜け、彼は濁流に頭から落ちた。
寒い、冷たい、痛い、誰か助けて―――!少年はそれしか感じなかった。狂ったように手で何かを掴もうとした。だがそれは虚しい努力でしかなかった。そして泥水にむせながら、少年は下流へと流されていった。
「死んだの?」
女性が近づいてきて訊ねた。執事は肩をすくめた。
「剣では無理でした、暗めさでは難しいですね。今一つ、致命傷には浅い傷です。しかし濁流に飲まれましたから、よほど運が良くない限りこのまま死ぬでしょう」
そう、と女性はもはや興味を失ったように呟いた。二人はそのまま馬車に戻り、屋敷へと急いだ。
水の中で、少年はもがいた。
死にたくない!神様、神様、神様―――!!
その時、誰かの声がした。セロ、セロ、と繰り返す。セロって誰、何なの!?
はっと目を開けた。
「おい、大丈夫かセロ!」
ハウアーがいた。心配そうな顔をしている。セロは自分の息づかいを聞いた。
「大丈夫か?随分うなされていたぞ」
「大丈夫です……すみませんでした」
外はまだ暗い。
夢……か。久しぶりに小さい頃の夢を見た。
ハウアーはまた寝に戻ったが、セロは寝付けずに、その後のことを思い出していた。
「あら、あれは何かしら、お祖父様?」
その声で石造りの橋の上を馬車が停まった。川は降り続いた雨のせいで、茶色く濁った水がゴウゴウと音を立てて流れている。
七、八歳ほどの金髪の少女が指差した先を、老人が目を凝らして見つめた。濁流の中、何かが引っ掛かっている。水の流れに伴って、一瞬浮かび上がった。
「おい、『あれ』を拾ってこい!」
老人が命令すると、使用人が二人、慎重に川へ下りていった。老人は少女にじっとしているように言うと、自分も馬車を降りた。
使用人達が引き揚げたものは、孫娘と同い年くらいの少年だった。随分冷たい。もう死んでいるのかと思ったが、まだ微かに息があった。老人は上着を脱いでその少年をくるむと、すぐ屋敷へ戻るよう言った。
次に少年が目を覚ました時、もとの屋敷のような天井が目に入った。暖かい。ベッドの中にいた。
「目が覚めたかね」
老人が枕元にいた。少年は辺りを見回した。
「私はクレルモン子爵家現当主、マクシミリアンだ」
所用からの帰りに君を見つけてもう四日になる、と彼は言った。
四日―――その間、ずっと眠っていたのか。
「君は……もしかしたら、アレン=エスメラルダスではないかね?」
少年はびくっとした。
「やはりそうか。いや、以前エスメラルダス家に行っていた時に君を見た気がしたんだ」
笑いながらマクシミリアンが言う。
少年はその老人の顔と、クレルモン子爵という単語に反応した。そう、この子爵がエスメラルダス公爵を訪ねた理由、それは―――。
「孫娘のリアンと君の、許嫁のことだったな、たしか」
少年は体を起こした。
「うあっ……!」
背中に鋭い痛みが走り、少年は倒れ臥した。思わず涙が滲む痛さだ。
「一体どうしたというんだね、その背中の傷は」
思い出して、少年は涙ぐんだ。
「何があったんだ、話してみなさい」
少年は黙ったままだ。マクシミリアンは再度促した。
「どうか、何もお訊ねくださいますな。エスメラルダス家の恥になることでございます」
涙声で少年が、肩を震わせながら呟いた。静かな部屋によく響いた。