05 悪夢 2
すっかり陽も落ちてしまったらしい、辺りは一気に暗くなった。黒髪の少年は自分の居場所を見失った。
家を走り出て、そこからはずっと歩きづめだった。ここがどこかも分からない。
寒い、と感じた。雨に打たれた分、体力を奪われる。
時は少し遡る。黒髪の少年が家を出た直後だ。彼の義母は、二階の窓からそれを見ていた。口許には悪魔も震え上がるほどの笑みがある。
「お母さま……義兄上は……」
半ば青ざめた様子で金髪の子どもが訪ねた。
「ああ、レイモン。早くアレンを殺してしまわねばなりません」
金髪の子どもが目を見開く。
「なぜです!義兄上はもうこの家を出て行かれたはずでは……」
女性は屈んで子どもと目線を合わせた。
「あなたは優しい子ですからね、レイモン。そう思うのも当然でしょう。でもね、アレンはいつかあなたを殺そうとするわ」
「義兄上が!?」
「ええ、レイモン。正当な私達を恨んで、あなたを殺してこの家を奪うつもりなのよ」
金髪の子どもは震えていた。
「でも……義兄上は今までとても優しかったのに」
「あなたを騙す手口ですよ。そうやって安心させて、後ろからグサリとやることだって出来ますからね」
「義兄上……そんな人だったなんて……」
ショックのあまり、金髪の子どもは涙ぐむ。
「さあレイモン、あなたは早くおやすみなさい。今日はもう疲れたでしょう。明日からお客様が多く見えますからね。あとはお母さまにお任せなさい」
「お母さまはいつも僕の味方ですね」
嬉しそうに笑う子どもを見て、女性も笑った。
「ええ、勿論。お母さまはいつもあなたの味方ですよ」
子どもを寝かしつけると、女性は自分の執事を呼んだ。
「馬車の用意を。あなたは剣を持っていきなさい」
雨のなか、ガラガラと馬車の音がした。しかし、それは近くに来ると止んだ。
なぜだろう、この辺りには貴族の屋敷など―――いや、普通に民家すらないのに。
そう思っていると、灯りが見えた。カンテラがゆらゆらと揺れている。すると、声がした。
「奥様、見つけましてございます」
聞き覚えのある声……義母付きの執事だ!
そう思ったが、足が動かない。黒髪の少年の呼吸は荒くなった。
「あらあら、まだこんなところでぐずぐずしていたの?」
義母の声。恐怖で足どころか、体が動かない。
「なんで……」
か細い声が少年の口から漏れた。
「なんで?簡単よ。あなたは邪魔なの。レイモンがエスメラルダス家を継ぐためにはね」
「でも、私は正統なエスメラルダス家継承者です!」
「お黙り!」
女性の顔が下からカンテラに照らされ、化け物かと少年は思った。
「黙るがいいわ。……さすがにレイモンの居る前では言えなかったけどね、今日まで殺さなかっただけでも感謝しなさい。不吉の黒髪……そんな者が公爵家を継いでみなさい、いい笑い者よ!」
黒髪は滅多に生まれないとても稀な存在だ。黒は悪魔を連想させるとして、わざわざ黒髪を薬で変色させる者もいる。もちろん、稀な存在だからこそ、神の遣わした者だと信じる者もいる。いずれにしろ、国中探しても十人いるかいないかぐらいだろう。
「悪魔め!いつかお前はレイモンに復讐するつもりでしょう!」
「そんなことはしません!」
「うるさい!……『今日まで殺さなかっただけでも感謝しなさい』。ここで死んで貰うわ」
その言葉を言い終えた途端、彼女付きの執事が剣を抜いた。カンテラの光を銀の刃が反射する。
「頼んだわ」
「お任せ下さい、奥様」
少年は駆け出した。
誰か、誰か助けて―――!
なぜこんな目に遭わなければならない?レイモンが生まれた後でも、正統なエスメラルダス家継承者だと父上はおっしゃっていたのに!どうして、どうして!
わずか八歳ほどの疲れた子どもが全力で走ったところで、大人の男に敵うわけもない。簡単に捕まった。
義母の前に引きずられていく。カンテラで少年の雨に濡れた顔を照らし、彼女は満足そうに笑った。
「良い様よ、アレン。あなたはあの女狐に似て顔だけは良いから、娼館へ売り飛ばしてやってもいいのだけれど、せめて殺してあげるのが慈悲ってものでしょう?」
さあ、と彼女は執事を急かした。その一瞬の隙を見逃さず、少年は執事に掴まれた上着を残して駆け出した。
「何やってるの!?早く追いかけなさい!」
後ろからヒステリックな声がした。すぐにまた、自分を追う足音がした。
ふらつく足で、雨音が狂ったように響く闇の中、少年は見えない前を目指してただ走った。