01 運命の曲がり角
三回、丁寧なノックが聞こえる。
「お嬢様。お時間です」
入ってきたのは、黒髪を後ろで一つに縛った男だ。と言っても、髪はそれほど長いわけでもない。ほどいても肩くらいだろう。
瞳は闇のように黒い。整った顔立ちに、その髪と目はとても印象的だ。
「ありがとう、セロ。でももうちょっと待って」
その先にはドレッサーに向かう娘がいる。華やかな薄桃のドレスに身を包み、オレンジがかった豊かな金髪は、濃いめの桃色のリボンで結い上げられている。彼女はイヤリングをつけている最中だ。
二人は貴族令嬢と執事の関係にある。娘はクレルモン家の一人娘リアンといい、執事はセロ=オランという。二人ともまだ二十代前半という若さだ。
ようやくイヤリングをつけ終わり、ノックはいいのに、と娘が言う。
「ねえ、どうかしら?この間お父様に新しく買っていただいたイヤリングは」
「とてもよくお似合いです」
リアンは嬉しそうに笑った。セロも思わず微笑む。
「さあ、お嬢様。旦那様はもうお待ちでございます」
玄関の前には、既に馬車がある。中には彼女の父と、彼付きの執事がいる。
「おお、リアン。さ、早くおいで。約束の時間に遅れてしまうよ」
優しい声だ。リアンは馬車に飛び乗り、セロはそれに続いて乗り込んだ。馭者が外から扉を閉め、ヒュッと鞭が空を切る音がして、馬が走り出した。
「ねえお父様。コンラート様って、どんなお方なの?」
リアンの父は銀の髪で、少し太っている。彼は広大な領地を持つ貴族だ。名をローク=ディーン=ルシフェンド=ラ=クレルモンという。
彼は腕を組んだ。セロは目を閉じた。
ガラガラと音をたてながら、馬車が街の石畳の道を駆け抜ける。
「どんな、ねえ……。まあ、行ってのお楽しみだ。でも、きっとすぐに打ち解けると思うよ」
彼らはフロレンシア家に向かう途中だ。ロークはお茶に招かれている。コンラートがリアンの噂に興味を持ったらしく、本当はリアンに会うためのものだ。
馬車がフロレンシア家に入ると、コンラートが自ら出迎えに来た。彼は焦げ茶色の艶やかな髪をショートに揃え、紫の上品な服を着ている。歳はセロと同じくらいか。黄緑に近い瞳は親愛の情に満ちていた。
「はじめまして、リアン嬢。コンラート=グライン=ジギスムント=デル=フロレンシアです」
「はじめましてコンラート様。リアン=シャーロット=グランヴィル=ラ=クレルモンでございます」
コンラートは流れるように跪き、リアンの手にキスを落とした。
立ち話もなんですから、とコンラートは屋敷に二人を招き入れた。
「久しぶりだ、ローク。元気にしていたか」
「おう、ジュダ。あなたこそ」
現フロレンシア家当主ジュダが二人を出迎えた。ロークと同じくらいの、年相応の皺がある。頭はてっぺんまで禿げ上がっていた。
「さ、こちらへ。リアン嬢も……」
コンラートはリアンをエスコートした。
使用人二人もそれへついて行こうとした。しかし、それをコンラートが制した。
「しかし、我らはご主人様に……」
ローク付きの執事が語尾を濁した。
「いや、よい。今日は私的な話ばかりだ。二人とも待っておいてくれ」
ロークに制され、使用人二人はその場に立ち尽くした。目の前でバタンと扉が閉まり、セロとローク付きの執事は顔を見合わせた。
「ああ、コンラート様って素敵なお方ねえ……」
屋敷に戻ってから、リアンはそればかりだ。頬を染めてうっとりとしている。
「でも、私とコンラート様じゃあ……不釣り合いかしら」
フロレンシア家は伯爵家、クレルモン家は子爵家だ。
「そんなことはございません。宮廷での旦那様の位階は素晴らしいものですし、リアンお嬢様はそこいらの貴族令嬢より飛び抜けて教養もございます」
セロはお茶を入れながら、リアンを見た。
「それに、なんと言ってもお嬢様はとてもお美しゅうございます。コンラート様のお隣にいらっしゃった時も、決してひけはとりませんでした。これが他の者ならば、うわべを飾ったとて、そうはいきますまい」
そうかしら、とリアンはますます頬を赤らめた。そんな彼女を見て、セロはただ胸の内の疼きを抑えることしかできなかった。
今まで花や動物にしか興味を示さなかった彼女が、一人の人間にここまで興味を持つことはなかった。それを嬉しく思う。しかし、拭いても取れないガラスの一点の曇りのように、なにかがセロの感情を揺らした。
リアンが一人で考え事をしたいと言い、セロや他の女中は退出した。
廊下に飾ってある花を手入れするふりをしながら、セロは涙が出そうなのを堪えていた。
決して言ってはならない感情を持ってしまったことが、悔やまれる。
コンラート。フロレンシア家の次期当主。有り余る権力に財産。リアンを幸せにし、またそうすると誓うだけの力がある。引き換え、自分が差し出せるものといったらこの命くらいだ。なんとも惨めだった。
幼い頃から仕え、大それた想いに気付く前から命を懸けて守ろうとした存在。それなのに彼女にとって自分は、一介の執事でしかなかったのだと痛感させられた。
あいつが憎らしい。なぜあいつは良くて、俺は駄目なのか。この世は全く不条理だ。
本当なら、あの手を取っていたのは俺だったのに―――。
思ってみても始まらないことだが、自分の運命を呪ってしまう。
「痛っ……」
バラの枝に、取り忘れた棘があったようだ。人差し指に刺さってしまった。血が滲む。けれど、誰も俺が怪我をしたことに気付きもしない。
そして、どんなに辛くとも思うことしかできない。
きっとお嬢様はお花が好きだから、廊下にバラが飾ってあれば触るだろう。良かった、怪我をしたのがお嬢様でなくて―――。
こんな風に、ただ思うことしかできないのだ。