第4話 自由への勝訴、あるいは…
裁判所の重い扉が開く。
そこから出てきた一条海斗と夢野美紀の姿は、もはや幽霊のようだった。
判決は、私の完全勝訴。
慰謝料、損害賠償、そして業務上横領に伴う返還請求。あわせて五〇〇〇万円を超える支払命令に加え、海斗には執行猶予付きの有罪判決。一条グループからの永久追放。
「……満足か、玲奈」
海斗が、枯れ果てた声で私を呼んだ。
その隣で、夢野美紀はもはや私と目を合わせることすらできない。彼女に科せられた連帯保証の重みは、これから彼女が過ごす数十年の「労働」で贖うことになる。
「満足? ええ、法的な精算としては、これ以上ないほどに」
私は、九条から渡された書類をバッグに収め、冷ややかに言い放った。
「あなたたちは『真実の愛』を求め、私は『正当な権利』を求めた。ただそれだけのことです。……では、失礼します。もう二度とお会いすることはないでしょうが、お元気で。借金の返済、頑張ってくださいね」
私は一度も振り返らず、九条と共に裁判所を後にした。
――さて。
ここまでは、世間一般に言うところの「ざまぁ」な結末だ。
だが、物語には大抵、知られざる裏がある。
裁判所から少し離れた、会員制のバーの個室。
昼間からカーテンを閉め切ったその店内で、私は一人、最高級のヴィンテージワインを傾けていた。
目の前には、一条グループの元会長――一条剛三が座っている。
彼は、息子を切り捨てた時のような険しい顔ではなく、どこか晴れやかな、商談を成立させた経営者の顔をしていた。
「……約束通り、海斗を経営から完全に排除し、君の指定したペーパーカンパニーに、一条の保有する西園寺グループの全株式を売却したよ、玲奈さん」
「ありがとうございます、お義父様。……いえ、元・お義父様」
私はグラスを掲げた。
そう。
この「婚約破棄騒動」の真のシナリオライターは、私だ。
そもそも、一条海斗という無能な御曹司と婚約した時点から、私は「出口戦略」を練っていた。
西園寺家と一条家の古い結びつき。その中で膠着していた株式を動かし、私個人が西園寺グループの実権を握るためには、一条家との関係を「向こう側の非」で断絶させる必要があった。
「夢野美紀を海斗様の前に送り込んだのも、実は私なんですよ」
「……だろうな。あんな安っぽい女が、そう簡単に海斗の懐に入り込めるはずがない」
「あら。美紀さんに特別扱いしてもらえて、海斗さん、満更でもなさそうでしたわよ」
剛三会長は苦笑した。
彼は知っていた。自分の息子が救いようのない馬鹿であり、そのままでは一条グループごと沈没することを。
だから彼は、私と「契約」した。
息子を法的に社会的に再起不能にする代わりに、私が一条グループの負債部門を切り離し、再建のパートナーとなることを。
「海斗は最後まで気づかなかったな。自分が愛に狂っていると思っていたのが、実は君が引いたレールの上の出来事だったとは。……録音データも、内容証明も、すべては株式を安値で買い叩くための『材料』だったわけだ」
「ビジネスにおいて、感情は最高の『目くらまし』ですから」
私はワインを一口啜る。
あの日、パーティー会場で私がスマホを掲げた時、海斗様は「往生際が悪い」と言った。
笑わせてくれる。
往生際が悪かったのは、私ではない。
何の準備もなく、ただ「愛」という言葉を盾に戦場に飛び出した、彼らの方だ。
九条が、私の隣に座り、新しい書類を差し出した。
「玲奈、お前の勝ちだ。西園寺グループの筆頭株主としての登記、完了したぞ。これで、お前を縛る『令嬢』という檻はなくなった。お前は今日から、この国の経済を動かす側の一人だ」
「お疲れ様、九条。……あなたの成功報酬も、一条から勝ち取った慰謝料からたっぷり払っておくわね」
「慰謝料を弁護士費用に充てるなんて、最高に合理的だな」
九条は肩をすくめて笑った。
一条海斗は、今頃どこかの工事現場で汗を流しながら、私を「冷酷な女」と呪っているだろう。
夢野美紀は、自分が「運命の恋」だと思っていたものが、単なる「市場操作の駒」だったとも知らずに、夜の街で私への恨み言を漏らしているだろう。
だが、彼らがどれだけ呪おうとも、判決は覆らない。
民法という盾。会社法という剣。
それらを完璧に使いこなした私にとって、彼らはもはや視界にすら入らない「過去の不良債権」だ。
私はバーを出て、眩しい午後の光の中に踏み出した。
スマートフォンの画面を見る。
西園寺グループの株価は、一条との「不採算提携の解消」を受けて、右肩上がりに急上昇していた。
「……さあ、次はどの市場を整理しましょうか」
本当の「悠々自適な暮らし」とは、ただ贅沢をすることではない。
自分の人生を、自分のルールで、完璧にコントロールすることだ。
私はヒールの音を響かせ、東京の街を歩き出す。
自由。それは、知性を武器に戦った者だけに与えられる、最も甘美な「報酬」なのだから。
――もし、あなたの隣に「真実の愛」を語る婚約者が現れたら。
まずは弁護士に相談することをお勧めしますわ。
その愛の裏側に、どんな「契約」が隠されているか、確かめるために。
(完)




