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第3話 六法全書は根源魔導書(グリモワール)



 西新宿の高層ビルの一室。

 貸し会議室というにはあまりに重厚なその空間に、ピンと張り詰めた空気が漂っている。

 対面式の長机。こちら側には私と九条。

 向かい側には、憔悴しきった表情の海斗様と、真っ赤な目で俯く夢野美紀。そして、海斗様の父である一条グループ会長――一条剛三が、眉間に深い皺を刻んで座っている。

 剛三会長の隣には、いかにも「老舗の重鎮」といった風貌の、白髪の弁護士が控えていた。


「……西園寺君。いや、玲奈さん。昨晩のパーティーでの無礼は、親として、また組織の長として深く詫びよう。息子がこれほどまでに愚かだったとは、私の教育不足だ」


 剛三会長の声は地を這うように低い。

 だが、その瞳には謝罪の念など微塵もなかった。

 あるのは「どうやってこの不始末を最小限のコストで収めるか」という、冷徹な経営者の計算だけだ。

 

「それで、本題に入らせてもらう。海斗は美紀君という女性に惑わされただけだ。若気の至りと言ってもいい。君も西園寺の娘なら、大人の事情は分かるだろう? 提携の話を白紙に戻すのは両社にとって不利益だ」


 剛三会長が顎をしゃくると、隣の白髪弁護士が一枚の書類を差し出してきた。


「示談書です。解決金として五〇〇万円を用意しました。不貞行為の慰謝料相場としては破格の金額です。これで録音データはすべて破棄し、今後一切の請求を行わない、および他言しないことを約束していただきたい」


 五〇〇万。

 なるほど、世間一般の相場からすれば確かに「高い」部類に入るだろう。

 だが、私の隣で書類に目を通した九条が、鼻で笑った。

 私の幼馴染みにして顧問弁護士。

 複雑すぎて常人には扱えない「法の魔力」を、主人公の代わりに最適化して放つ代行者だ。相手がどれだけ物理攻撃(感情的な罵倒)を仕掛けてきても、論理の結界で完封し、最短ルートで相手の心臓(銀行口座)を撃ち抜く、最高位の賢者アークメイジ』である。


「五〇〇万? ……会長。耳を疑いますね。一条グループの御曹司が、公衆の面前で私のクライアントの名誉をズタズタにした。その対価が、高級外車一台分にも満たないのですか?」


「何だと。若造、言葉を慎め。これは情けだ」


「『情け』が必要なのは、そちらの方では?」


 九条は私の目配せを受けると、無造作にノートパソコンを開いた。

 会議室の照明を落とす。壁の大型スクリーンに、プロジェクターの光が投射された。


「では、交渉の前提となる『事実確認』を行いましょうか。……スライド、お願いします」


 画面に映し出されたのは、色鮮やかな、しかし当事者にとっては地獄のような写真の数々だった。

 海斗様と夢野様が腕を組み、宝石店で指輪を選んでいる姿。

 深夜のシティホテルに入っていく後姿。

 さらには、夢野様がSNSにアップしていた「匂わせ投稿」の数々。


「これらはすべて、調査会社を通じて入手した確定的な証拠です。民法上の不貞行為を立証するには十分すぎますね」


「……う、うるさい! そんな写真、合成に決まっている!」


 海斗様が顔を真っ赤にして叫ぶ。

 だが、次のスライドが表示された瞬間、彼の声は喉に張り付いた。


 映し出されたのは、数枚の銀行振込明細と、一条グループ名義の領収書。

 

「これ、何だか分かりますか? 会長。海斗様が夢野美紀様に買い与えた中目黒のマンション。その初期費用、および月々の賃料の一部が、一条グループの『広報宣伝費』および『交際費』として不適切に会計処理されています」


 会議室に、静まり返った沈黙が落ちた。

 剛三会長の顔が、土気色から一気に真っ白に変わる。


「……何……?」


「これ、法的にはどう見えます? 九条先生」


「そうですね。個人の愛人に貢ぐ金を会社の経費で落とす。これは民法上の婚約破棄の問題を超えて、刑法上の『業務上横領罪』、あるいは会社法上の『特別背任罪』に抵触する可能性が極めて高い。つまり、一条グループの株主に対する重大な裏切り行為、ひいてはコンプライアンスの完全な崩壊です」


 九条の声は淡々としているが、その内容は一条家にとって核爆弾級の威力を持っていた。


「ま、待て……! それは海斗が勝手に……!」


「いいえ。会長の決裁権限のない部署でも、海斗様の立場を利用して経理担当者を脅せば容易だったようです。証言もすでに取っています。裁判で公開されたら、一条グループの株価はどうなるでしょうか? 今進めている西園寺との提携どころか、銀行からの融資も止まるかもしれませんね」


 私は、震える手で茶を啜る海斗様を冷ややかに見つめた。

 夢野美紀はもはや言葉も出ず、隣にいる海斗様を「汚物」でも見るような目で見ている。

 彼女にとっての「真実の愛」とは、海斗様の経済力、ひいては一条家の看板そのものだったのだ。それが崩れれば、愛など瞬時に腐敗する。


「……玲奈さん。分かった、分かったから。話し合おう」


 剛三会長の声が震えている。

 先ほどまでの高圧的な態度は消え、そこには老いた敗北者しかいなかった。


「示談金はいくらだ? 三〇〇〇万か? いや、五〇〇〇万出そう。それでこのデータはすべて……」


「お断りします」


 私は、はっきりと告げた。

 

「え……?」


「五〇〇〇万? はした金ですね。私が求めているのは、お金による解決ではありません。……徹底的な『精算』です。海斗様には、一条グループの全役職からの解任。および、株主代表訴訟の対象となる覚悟をしていただきます。もちろん、夢野様に対する不法行為責任の追及も一切妥協しません」


「そんな……! 玲奈、君は俺を愛していたんじゃないのか!?」


 海斗様が、すが縋るように私の腕を掴もうとする。

 私はそれを、汚いものでも払うように避けた。


「愛? 海斗様、あなたがパーティーで仰ったこと、忘れてはいませんよね? 『真実の愛があれば、契約は一方的に破棄できる』。……その言葉、そのままお返しします。私にとっての『真実』は、今この瞬間、あなたを社会的に抹殺することにあります」


 私は立ち上がり、バッグから一通の書類を取り出した。


「こちらは準備してきた、示談決裂の通知、および訴状の写しです。明日、東京地方裁判所に正式に提出いたします。もちろん、業務上横領の疑いについては、当局への告発を準備中です」


「玲奈さん! 待ってくれ! 頼む、話し合いを……!」


 剛三会長の叫びを背に、私は会議室の重い扉を開けた。

 背後で、ガシャン、と何かが割れる音がした。海斗様が椅子から転げ落ちた音だろうか。

 あるいは、一条家の未来が砕け散った音だろうか。


 廊下に出ると、九条が「ふぅ」と大きく息を吐いた。


「やりすぎだぞ、玲奈。横領の件まで掴んでたとはな。俺も聞いてなかったぞ」


「あら、サプライズは交渉の基本でしょう? それに、あんなに分かりやすく経理をいじっているなんて、一条の管理体制はザルなのかしら。……九条、次のステップは?」


「ああ。訴訟提起のプレスリリース。そして、西園寺グループとしての正式な提携中止発表だ。これで一条グループは、法的にも経済的にも完全に『詰み』だ」


 エレベーターが、静かに一階へと降りていく。

 鏡に映る自分の顔を見る。

 そこには、婚約破棄に泣く哀れな令嬢の姿はない。

 

 法の力を借りて、自分を縛っていた過去をなぎ倒した、一人の狩人の顔があるだけだ。


「さあ、次は夢野様の『その後』を追い詰めに行きましょうか。彼女、まだあのマンションに居座っているみたいだし。所有権の侵害についても、しっかり教育してあげないと」


 私はスマートフォンの画面をタップし、新たなタスクリストを更新した。


 絶望は、これからが本番だ。

 法廷という名の、逃げ場のない檻の中で。


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