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第2話 内容証明は回避不能の追尾呪印(ギアス)



 東京・丸の内。洗練された高層ビルの三十五階に、私の「戦場」はある。

 西園寺グループの令嬢という肩書きを脱ぎ捨て、私が真っ先に向かったのは、幼馴染であり、この国で最も「性格が悪いが腕は確か」と評判の弁護士、九条蓮の事務所だった。


「……で、これが昨晩の録音データよ。バックアップはクラウドと外付けHDD、さらに念のためSDカードに焼いて三か所の貸金庫に分散してあるわ。あ、文字起こし(反訳)も終わらせておいたから、証拠説明書に添付しておいて」


 私が差し出した資料を、九条は眼鏡の奥の冷徹な瞳で一瞥した。

 彼はコーヒーを一口啜り、口角を歪めて笑う。


「玲奈、お前……。被害者というよりは、獲物を追い詰める猟師の顔をしてるぞ。普通、婚約破棄された令嬢ってのは、もっとこう、絶望に打ちひしがれて涙を流すものじゃないのか?」


「涙で慰謝料が増額されるなら一リットルくらい流してあげるけど、現実はそうじゃないでしょう? 必要なのは同情じゃなくて、被告を経済的に再起不能にするための法的根拠よ」


 私は、九条のデスクに足を組んで座った。

 彼が手元のタブレットで録音を再生する。


『真実の愛を見つけたのだ! 君のような冷酷な女は……!』


 海斗様の、あの陶酔しきった声が事務所に響く。九条は「プッ」と吹き出した。


「うわあ! 『真実の愛』か。民法にはそんなロマンチックな項目は存在しないんだがな。あるのは契約の不履行と、それによる不法行為、あとは共同不法行為者としての連帯責任だ。……いいぞ、玲奈。このパーティー会場での公然たる侮辱は、精神的苦痛の増額事由として最高に効く。慰謝料のブースト案件だ」


「でしょう? だからあえて、あの場で言わせたのよ」


 私は九条と視線を合わせた。

 彼がペンを回しながら、ホワイトボードに図を書き始める。


「まず、一条海斗。婚約の不当破棄による債務不履行。そして夢野美紀。彼女に対しては、婚姻予約という法的保護に値する利益を侵害したことによる不法行為責任。民法第七〇九条だ。玲奈、お前の主張は『金か、地獄か』どっちだ?」


「両方に決まっているでしょう。まず第一弾として、本日中に『内容証明郵便』を発送してちょうだい。送り先は、一条海斗の自宅と――彼の勤務先である一条グループの本社。広報部も把握できる宛名でね」


「性格悪いな。……最高だ」


 九条はキーボードを叩き始めた。

 内容証明郵便。それは、単なる手紙ではない。

 「いつ、誰が、誰に、どのような内容を送ったか」を郵便局が公的に証明する制度だ。

 弁護士名義で届くその封筒は、受け取った者に「逃げ場はない」と宣告する、現代日本における公式の宣戦布告である。



 数時間後。

 ところ変わって、一条グループ本社。


 営業一部のフロアでは、若きエース(自称)の一条海斗が、昨晩の「勇気ある決断」の余韻に浸っていた。

 夢野美紀という「真実の愛」を手に入れ、悪役令嬢のごとき玲奈との腐れ縁を断ち切った。

 これからは自由だ。愛がすべてだ。

 そう確信していた彼のデスクに、一通の封筒が置かれた。


「一条さん。……なんか、弁護士事務所から届いてますよ? しかも書留で」


 同僚の怪訝そうな声に、海斗は鼻で笑った。


「弁護士? はは、玲奈のやつ、まだ諦めきれずに脅しでもかけてきたか。往生際が悪いな」


 彼は余裕の表情で封筒を破り、中身を取り出した。

 そこには、びっしりと詰め込まれた法律用語と、三枚にわたる「通知書」が同封されていた。


『……貴殿の行為は、正当な理由なき婚約の破棄に該当し……』

『……公衆の面前での誹謗中傷による名誉毀損……』

『……不貞行為の相手方である夢野氏との連帯債務として、金二〇〇〇万円を以下の期限までに支払うよう請求する……』

『……回答なき場合は、直ちに民事訴訟の提起、および刑事告訴の検討に移行し……』


 海斗の顔から、急速に血の気が引いていく。

 二〇〇〇万? 期限は一週間?

 「は? 二、二千万!? なんだよこれ、冗談だろ……!?」


 さらに最悪なことに、その通知書の写しは「コンプライアンス室」にも届いていた。

 一条グループは、今まさに西園寺グループとの提携を控えている。

 その提携の「要」であった婚約を、御曹司が不倫の末に自らぶち壊した。

 これは、個人の色恋沙汰では済まない。

 「背任に近い行為」だと、会社の上層部が判断するのは時間の問題だった。


 一方、その頃。

 「不貞のヒロイン」こと夢野美紀は、中目黒の高級マンションで、自撮り写真をSNSにアップしていた。

 ハッシュタグは「#真実の愛」「#新しい人生」「#勝訴」。

 彼女はまだ、玲奈に慰謝料を奪われる以上の目に遭わされることなど、露ほども考えていなかった。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴る。

 「海斗様かな? 合鍵で入ればいいのに」

 浮かれた足取りで玄関を開けた彼女の前に立っていたのは、郵便局員だった。


「夢野美紀様ですね。内容証明郵便です。こちらに受領印をお願いします」


「ないよう……しょうめい?」


 首を傾げながら受け取った封筒。

 中を読んだ彼女の反応は、海斗よりもさらに劇的だった。


「ひ、ひぃっ!? い、いっしゃりょう、いっせんまん!? なんで!? 私、ただ愛し合ってただけなのに! 憲法で自由が保障されてるんじゃないの!? ねえ!」


 無人に向かって叫ぶ彼女の声は、防音性の高いマンションの壁に虚しく跳ね返った。

 彼女が信奉していた「愛」という名の幻想が、法律という名の暴力によって、音を立てて崩れていく。

 ちなみに彼女が海斗から「プレゼント」されたこのマンションの頭金も、実は一条グループの経費から不適切に処理されていたことが後に判明するのだが、それはまた別の話である。



 再び、九条法律事務所。


 私は、九条が淹れ直した二杯目のコーヒーを飲みながら、タブレットで物件サイトを眺めていた。


「ねえ九条。港区のこのタワーマンションの最上階、いいと思わない? 勝訴確実な慰謝料と、私が持っている株の売却益、それに一条グループからむしり取る損害賠償を合わせれば、キャッシュで買えるわね」


「お前な……。まだ一回目の通知書を送っただけだぞ」


「あら、期待値の計算よ。海斗様はパニックになって自滅するし、夢野様は支払い能力がないことを証明するために、海斗様との密約をすべて吐き出すわ。協調行動が取れないばかりに最悪の選択をするの。囚人のジレンマってやつね。……ふふ。現代日本で一番強い武器は、剣でも魔法でもないわ」


 私は窓の外、青く広がる空を見上げた。


「『証拠』と『法律』。そして、それを使えるだけの『知性』よ」


 私は立ち上がり、九条に背を向けた。

 次は、会社への「落とし前」だ。

 西園寺グループの令嬢としてではなく、一人の優秀な社員として、私がどれだけの損失(および利益)を会社にもたらしてきたか。

 それを突きつけ、最高の条件で退職届を受理させる。


 労働基準法も、私の味方だ。


「さあ、まずは有給休暇の完全消化から始めましょうか。全四十日間、一日たりとも無駄にせず、一条家が滅びていく様子を観察するための時間に充てるわ」


 私のヒールが、大理石の床を軽快に叩く。

 海斗様、夢野様。

 あなたたちが求めた「真実の愛」の対価は、想像以上に高いのよ?




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