第1話 レコーダーは回避不能な真実の魔弾
シャンデリアの光が、クリスタルグラスに反射して残酷なまでに輝いている。
都内最高級ホテルの大宴会場。政財界の重鎮が集まる立食パーティーの最中、その「事件」は唐突に、しかしあまりにも様式美に則った形で発生した。
「西園寺玲奈! 俺は貴様との婚約を破棄する!」
会場に響き渡る朗々とした声。
声の主は、一条グループの御曹司であり、私の婚約者である一条海斗だ。
彼の傍らには、守ってあげたくなるような儚げな表情を浮かべ、彼の腕にこれでもかと縋り付いている女性――夢野美紀がいる。
会場の喧騒が、急速に引いていく。
まるでドラマか、あるいは流行りの異世界転生小説の一場面だ。
海斗様は陶酔しきった表情で、指をこちらに突きつけている。
「真実の愛を見つけたのだ! 君のような冷酷な女は、一条の妻に相応しくない! 美紀のような清らかな心を持った女性こそ、俺の運命だ!」
周囲からは「まあ」「なんてこと」という、定番の驚きの声が漏れる。
中には、私への同情や、あるいはスキャンダルを期待する好奇の視線も混じっていた。
さて。
私はゆっくりと、手にしていたシャンパングラスを給仕のトレイに置いた。
そして、イブニングドレスの隠しポケットから、最新型のスマートフォンを取り出す。
画面を確認し、コントロールパネルから「録音停止」のボタンをタップした。
これこそ、家電量販店ですら手に入る、現代社会の必中魔法具。どんなに権力者が嘘をつこうとも、本人の声をそのまま再生する「逃げ逃げ不能の呪い」あり、放たれた瞬間に相手の「偽りの聖騎士」としてのメッキを剥がす「真実の弾丸」である。
「……承知しました、一条海斗様。今の発言により、民法上の『正当な理由のない婚約破棄』、および『不貞行為の自白』の証拠として、音声データの保存を完了いたしました。非常にクリアな録音状態で助かります」
私の声は、海斗様の絶叫よりもずっと低く、しかし会場の隅々までよく通った。
海斗様が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「な、何を言っている……? 録音だと? 貴様、この期に及んで往生際が悪いぞ!」
「いえ、往生際が悪いのではなく、コンプライアンスの遵守とリスクヘッジのお話です」
私は一歩、前へ出た。
海斗様が反射的に後ずさる。
「海斗様、ここは現代日本です。貴族社会が横車を押せるファンタジー世界ではありません。婚約とは、法的には『将来において婚姻することを合意する契約』です。あなたは今、公衆の面前で、一方的な契約不履行を宣言されました。それも、そちらの夢野様との不貞行為を自ら理由に挙げて。……その意味をお分かりですか?」
「不貞……!? 美紀との愛をそんな汚らわしい言葉で呼ぶな!」
「いえ、民法第709条および710条に基づけば、婚姻に準ずる関係を破壊する第三者の介入は、立派な不法行為です。美紀様、あなたにも同様の損害賠償請求権が発生しますので、後ほど内容証明を送付させていただきます。現住所は、海斗様が買い与えた中目黒のマンションで相違ありませんね?」
夢野美紀が、ぴくりと肩を震わせた。
彼女の「清らかな表情」が、一瞬で「経済的危機を察知した顔」に変貌する。
「な、なんでそれを……」
「先週の火曜日、午後八時。新宿の高級ブティックでのお買い物。その後のホテルでの滞在。すべて調査済みです。調査報告書は既に三部作成し、弁護士事務所の金庫を含む安全な場所に分散して保管してあります」
私は無表情を貫く。
こうした「ざまぁ」の場において、最も効果的なのは感情をぶつけることではない。
徹底的な「法と事実」の提示で殴ることだ。
感情論は、裁判では一円の得にもならない。
「海斗様、あなたは『冷酷な女』と仰いましたが、私は実務的なだけです。さて、本日の婚約破棄宣言に伴う損害についてですが、ざっと概算してさしあげましょうか」
私はスマートフォンの計算機アプリを起動し、周囲にも見えるように画面を掲げた。
「まず、結納金の返還。これは当然ですね。次に、このパーティーのために用意したドレス一式、および宝飾品の購入費。さらに、予定されていた結婚式場および披露宴のキャンセル料。これが約600万円。そして、最も重要な精神的苦痛に対する慰謝料。相場としては不貞ありの婚約破棄で300万円から500万円といったところですが……」
私はふっと、今日初めての微笑を浮かべた。
それは慈愛に満ちた令嬢の笑みではなく、債権回収を完了した金融業者の笑みだった。
「これほど大勢の、しかも政財界の関係者の前で私の名誉を毀損された。これは慰謝料の増額事由になります。さらに、一条グループと西園寺グループの間で進行していた合弁事業の頓挫に伴う特別損害……。総額で、数千万円規模の訴訟になるかと予想されます」
「す、数千万……!? たかが婚約をやめるだけで、そんなにかかるわけがないだろう!」
海斗様が顔を真っ赤にして叫ぶ。
その隣で、夢野様がそっと彼の腕から手を離し、一歩、二歩と距離を取り始めた。
現金なものである。
「『たかが』ではありません。契約の重みを知らない方に、経営の椅子に座る資格はありませんね。ああ、そういえば先ほど『悪役令嬢のような』とも仰っていましたか? 残念ながら、貴方の目の前にいるのは悪役でも令嬢でもありません。ただの『法に守られ法を信奉する日本国民』です」
私は一度深くお辞儀をし、入り口の方へと歩き出した。
「これ以上のやり取りは、私の顧問弁護士を通していただけますか。本日の音声データと映像データは、明日一番で家庭裁判所と、そしてもちろん、一条の会長――あなたのお父様にも提出いたします」
「待て! 親父にだけは……!」
「あら、ご自分で行った『真実の愛の決断』ではありませんか。堂々と胸を張ってお父様に説明なさってください。それでは、訴状の到着をお楽しみに」
背後で、海斗様の情けない絶叫と、夢野様の「私、関係ないですよね?」という、あまりにも清らかではない言い訳が聞こえてきた。
ホテルの廊下に出ると、夜風が心地よい。
私はスマートフォンの連絡先を開き、一件の電話をかける。
「もしもし、九条先生? ……ええ、完璧です。最高にクリアな音声が取れましたわ。はい、明日の午前十時に事務所へ伺います。ええ、もちろん『徹底的』にお願いします」
電話を切った私の口角は、自然と上がっていた。
世の中、愛だの恋だの、そんな不確かなものに縋るから足元を掬われるのだ。
信じるべきは法律。そして、通帳に刻まれるゼロの羅列。
さあ、これから忙しくなる。
あの馬鹿げた婚約から解放されるための、最高に合理的で、最高に楽しいリーガル・バトルの始まりだ。
勝ち取った慰謝料で、まずはハワイの別荘でも見に行こうか。
西園寺玲奈の、新しい人生の第一歩は、ヒールの音と共に力強く刻まれた。




