それはゾンビと共生する世界
朝の空気は、やけに澄んでいた。
少しひんやりしていて、肺の奥まで一気に入ってくる。
泉水智子は、学校へ向かって疾走していた。
寝坊した。
昨夜、布団に入ってからもスマホを手放せず、動画を一本だけ、と思ったのが間違いだった。結局、気づけば深夜になっていた。
やっぱり寝ればよかった。
でも続きが気になるし、途中で止めるのもなんだか悔しかった。
そんなことを考えながら走っている時点で、もう遅刻は確定している。
「……しょうがない」
智子は小さく呟き、いつもの通学路を外れた。
少しでも時間を短縮しようと、公園の中を突っ切ることにしたのだ。
朝の公園は静かだった。
通勤途中の人影もまばらで、ベンチはまだ誰にも使われていない。
植え込みの葉に残った露が、陽の光を受けてきらきらと光っている。
その植え込みの中に、不自然なものが見えた。
人の足だった。
一瞬、何かの見間違いかと思った。
だが、近づくにつれてそれが靴を履いた人間の足だとはっきり分かる。
智子は足を止め、植え込みの中を覗き込んだ。
倒れている。
うつ伏せで、動かない。
皮膚の色が、明らかにおかしかった。
「……ゾンビだ」
声に出して、そう確認する。
驚きよりも、先に判断が来た。
智子はポケットからスマートフォンを取り出し、迷いなく番号を押した。
『#6666』
全国共通ゾンビ通報ダイヤル。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が応答した。
『こちら、ゾンビ通報窓口です』
「公園に倒れている人がいます。皮膚が黒くなってるので、ゾンビです」
『確認します。首の後ろにコブはありますか?』
智子は少し距離を取り、視線を倒れている人物の首元へ向けた。
「はい、あります。……五センチくらいだと思います」
『では、まだ成長期ですね。わかりました』
声は淡々としていた。
『これから所員がゾンビの回収に向かいます。到着まで、そこで待機してもらうことは可能でしょうか』
「でも、これから学校で」
『到着した所員から遅刻証明をお渡ししますので、学校に提出していただければ遅刻扱いにはなりませんから』
「……わかりました」
通話を終え、智子はスマホをしまった。
ベンチに腰を下ろし、公園の中で待つ。
朝の空気は、相変わらず爽やかだった。
◇
智子が教室に着いたときには、すでに二時限目が始まっていた。
「おお、泉水。連絡はもらってるぞ。大変だったな」
教壇に立つ担任が、そう声をかける。
智子は軽く一礼し、ポケットから遅刻証明を取り出して担任に手渡した。それを確認した担任がうなずくのを見てから、自分の席へ向かう。
椅子に腰を下ろした途端、隣の席から小声が飛んできた。
「おはよ、ともっち。大変だったね」
谷千春。中学からの付き合いで、気心の知れた友達だ。
「ほんと最悪。まあ、朝ごはん食べる時間できたから、それだけはよかったけど」
「なに、また寝坊?」
「まあね。あとで購買付き合ってよ。お昼ゴハン買わなきゃ」
「了解」
そんなやり取りをしているうちに、担任が黒板に大きく文字を書き始めた。
『人寄生型菌類性自意識喪失症』
教室が、少しだけ静かになる。
「ちょうどいい機会だ。みんな分かってると思うが、今日は改めておさらいするぞ」
担任は黒板の文字を指しながら続けた。
「正式名称は
Invasive Parasitic Basidiomycotic Mind-loss Syndrome、通称はIPBM。
世間ではゾンビ症なんて呼ばれることもあるが、原因はウイルスじゃない。冬虫夏草やアリタケに近い種類の菌類、つまりキノコだ」
何人かが、ああ、と小さく声を漏らす。
「最初の患者が確認されたのは十年前だ。当初は新型コロナウイルスの変異型だと疑われていたが、後に真菌感染症だと判明した。現在では治療法も確立されていて、初期ならほぼ完治する」
担任はそこで一拍置いた。
「中期の場合、多少の後遺症が残ることはあるが、死亡率は低い。問題は――末期だ」
黒板に、新しい図が描き足される。
「肌が黒く、固く変質していき、やがて意識を失う。意識が薄れるにつれて感染者は徘徊を始めるが、皮膚が固くなる影響で関節が曲がらず、脚を引きずるように歩く。その様子がゾンビみたいだ、ってことで、報道ではゾンビ症なんて言われるわけだ」
智子は、今朝見た背中を思い出していた。
「そして、徘徊した感染者がどこかで倒れて動けなくなると、首の後ろにコブ状の器官ができる。これが寄生キノコの胞子を放出する部分でな。こぶし大になると破裂して、周囲に胞子を撒き散らす」
教室の空気が、わずかに張りつめる。
「その危険性を受けて、三年前に法律が改正された。徘徊している、あるいは倒れている感染者を見つけた場合、通報が義務付けられている」
担任は、ふいに智子のほうを見た。
「泉水。どこに通報するんだ?」
一瞬、教室中の視線が集まる。
「全国共通ダイヤル、#6666です」
智子が答えると、担任は満足そうにうなずいた。
「そうだ。みんなも覚えておけ。早期発見のおかげで患者数はかなり減ったが、ホームレスや一人暮らしの人間を中心に、まだ根絶には至っていない」
少し言い淀んでから、付け足す。
「風邪だと思い込まず、体調不良があったら病院で検査すること。ゾンビを見かけたら、迷わず通報だ」
ちょうどそのとき、予鈴が鳴った。
教室は、何事もなかったかのように、次の授業の準備を始める。
◇
昼休みのチャイムが鳴ると、智子は弁当袋を手に立ち上がった。
「屋上、行く?」
隣の席の千春が、当然のように聞いてくる。
「うん。今日は空いてそうだし」
二人は人の流れに逆らうように階段を上り、屋上へ出た。
春先の風が思ったより冷たくて、思わず肩をすくめる。
フェンス沿いのベンチに腰を下ろし、それぞれ弁当を広げる。
「ともっち、朝大丈夫だった?」
「うん。保健所の人にも聞いたけど、直接触ってないし、潜伏期間もあるから今は問題ないって」
「潜伏期間、どれくらいだっけ」
「だいたい一週間くらい」
千春は箸を止めて、少し考える。
「じゃあ、来週まで様子見?」
「いや、一応検査は受けてって言われた」
「もう?」
「うん。でもすぐじゃなくて、金曜日」
智子はスマホを取り出して、メモアプリを開いた。
「今日が月曜でしょ。陽性反応が出るのが、だいたい四日後くらいからだから、金曜に最寄りの医療機関で検査して、もし陽性だったら保健所に連絡してって」
「ちゃんと決まってるんだ」
「マニュアルあるみたい」
千春は、へえ、と気の抜けた返事をして、弁当の唐揚げを一つ口に放り込んだ。
「まあ、危険性は低いって言ってたしね」
「初期なら治るし」
「それにしてもさ」
千春はフェンス越しに校舎を見下ろしながら言った。
「朝からゾンビ見つけて、午後は普通に屋上で弁当って、なんか変じゃない?」
智子は少し考えてから、首をかしげる。
「そう?」
「普通の人なら、もうちょっと引きずりそうじゃん」
「でも、引きずってもしょうがなくない?」
「まあ、そうだけど」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
風に乗って、遠くの運動場から声が聞こえてくる。
「そういえばさ」
千春が思い出したように言った。
「今度の土曜、駅前のショッピングセンター行かない? 新しい店入ったって」
「行きたい。服も見たいし」
「じゃ、決まり」
話題はそれで終わり、あとはテスト範囲の愚痴とか、動画のおすすめとか、どうでもいい話が続いた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「金曜、検査終わったら連絡してよ」
「うん。たぶん何も出ないと思うけど」
「だよね」
弁当箱を片付けながら、千春は軽く言った。
「最近ちょっと身体だるいんだよね。季節の変わり目かな」
「それ、検査したほうがいいんじゃない?」
「えー、めんどくさい」
「めんどくさくても、念のためだって」
千春は一瞬だけ顔をしかめて、それから笑った。
「ともっち、今日やけに真面目じゃん」
「朝のせいかも」
二人はそんな会話をしながら、屋上を後にした。
ゾンビの話は、もう出なかった。
◇
金曜日の放課後、智子は最寄りの医療機関にいた。
待合室には、同じような年齢の学生や、仕事帰りらしい社会人が何人か座っているが、誰も深刻そうな顔はしていない。
「泉水さん、どうぞー」
呼ばれて診察室に入ると、看護師が手際よく説明を始めた。
「ゾンビ症の検査ですね。インフルエンザと同じです。ちょっと鼻に綿棒入れますよー」
「はい」
慣れた手つきで、細い綿棒が鼻に入る。
一瞬つんとした痛みがあって、思わず目が潤んだ。
「はい、終わりです。結果は十五分ほどで出ますので、待合室でお待ちください」
それだけだった。
十五分後、名前を呼ばれて結果を渡される。
「陰性ですね。今回は問題ありません」
「ありがとうございます」
それで終わり。
追加の説明も、特別な注意もない。
智子は病院を出て、スマホを取り出した。
歩きながら、いつものトーク画面を開く。
――――――
やほー
陰性だたよー
――――――
すぐに既読がつく。
――――――
よかったー
痛くなかった?
――――――
――――――
ちょっとだけ
インフルと一緒
――――――
――――――
じゃあ明日予定通りね
ショッピングセンター
――――――
智子は画面を見て、小さく笑った。
――――――
了解
――――――
スマホをポケットにしまい、夕方の街を歩き出す。
検査は簡単だった。結果もすぐ出た。危険性は低い。
そう言われている病気だからこそ、誰も足を止めない。
智子も、その一人だった。
翌日、彼女たちは何事もなかったように、ショッピングセンターへ向かうことになる。
◇
土曜日の午後、ショッピングセンターは人で溢れていた。
「人多っ」
智子が言うと、千春は「休日だしね」と当然みたいに返す。
二人はまず、服屋をいくつか回った。
試着室の前で迷って、結局どちらも買わない。
似合うとか似合わないとか言い合って、時間だけが過ぎていく。
「お腹すいた」
「さっきからそれしか言ってないじゃん」
フードフロアのケーキ屋で、ショーケースを前にしばらく悩んでから、結局いつものやつを選ぶ。
甘すぎる、でも美味しい、と文句を言いながらフォークを動かす。
「ねえ、これ写真撮る?」
「撮る撮る」
ケーキが少し崩れてから撮るのも、いつものことだった。
そのあと、なんとなくゲームセンターに入った。
音がうるさい、でも落ち着く。
クレーンゲームは一回で諦めて、音ゲーも途中で投げ出す。
「ガチャやろ」
壁際に並んだカプセルトイの前で、千春が立ち止まった。
「それ、さっきもやらなかった?」
「うん。でも次こそ違うの出る気がする」
「その理屈、信用ならないんだけど」
千春がコインを入れて、ハンドルを回す。
ごとん、と音を立てて落ちてきたカプセルを開ける。
中身を見た瞬間、二人同時に固まった。
「……また?」
「三個目じゃん、それ」
「うそでしょ」
一拍遅れて、二人は声を上げて笑い出した。
「被りすぎでしょ!」
「もう逆にすごいわ!」
周囲の視線なんて気にもせず、笑いが止まらない。
「これどうすんの」
「飾るしかないでしょ。縁起物ってことで」
「縁起いいのかな、それ」
笑いながら、カプセルをバッグに放り込む。
時間はあっという間に過ぎて、気づけば外は少し暗くなっていた。
「楽しかったね」
「うん。なんか久しぶりに遊んだ気する」
「また来よう」
「来週とか?」
「テスト前じゃん」
「じゃあ、その次」
そんな約束をして、駅で別れた。
◇
月曜日。
「みんな分かってると思うが、来週からテストだぞ」
帰りのホームルームで、担任がいつもの調子で言った。
「せめてテスト前くらいは、教科書とノート、持って帰れよ」
その瞬間、教室のどこからともなく声が上がる。
「めんどくさーい」
「重いんですけどー」
担任はため息をついた。
「お前らが帰ってから勉強するかしないかは別としてだな」
黒板を軽く叩きながら続ける。
「せめて、テスト前くらいは“勉強してます”ってアピールくらいしろって言ってんだ」
数人が小さく笑う。
「まあ、勉強しないで赤点取るのはお前らの勝手だが」
そこで、担任はにやりとした。
「よし。机の中に残ってる教科書とノートの数、数えてテスト問題の難易度アップさせるか」
一拍置いてから、教室中にブーイングが広がる。
「それ関係なくない!?」
「脅しでしょ、それ!」
「冗談だ、冗談」
担任は手を振って、話を締めた。
そんなやり取りのあと、みんな教科書を無理やり鞄に詰め込んで帰っていく。
その一週間は、特に変わったこともなく過ぎた。
授業があって、昼休みがあって、放課後はそれぞれの予定がある。
テスト範囲の話をして、どうせ勉強しないと言い合って、結局少しだけノートを開く。
智子も千春も、いつも通りだった。
朝は少し眠くて、昼はお腹が空いて、夜はスマホを触って寝る。体調も、特に悪くはなかった。
――少なくとも、その時点では。
潜伏期間は、およそ一週間。
それが過ぎたころ、
教室の空気は、ほんのわずかに変わり始めることになる。
それに、誰もまだ気づいていなかった。
◇
翌週の月曜日。
「ねえ、聞いた?」
席に着くなり、千春が小声で言った。
「隣のクラスの斎藤さん、テスト中に倒れて保健室に運ばれたんだって」
「え……」
智子はシャーペンを持ったまま、少しだけ顔を上げる。
「なんか急に気分悪くなったらしくてさ。途中で中断」
「大丈夫なのかな」
「どうだろ。熱あったって話も聞いたけど」
テスト用紙が配られる。
それ以上、話す時間はなかった。
問題を読みながら、智子は眉をひそめる。
――なんか、だるい。
頭が重い。
集中しようとしても、いつもより時間がかかる。
(寝不足かな)
そう思ったところで、ふと隣を見る。
千春も、少し辛そうな顔をしていた。
休み時間。
「……そういえばさ」
智子が言う。
「私も今日、なんか調子悪いかも」
「え、実は私も」
千春は苦笑いを浮かべる。
「でもテストだからさ。休めないじゃん」
「だよね」
「終わったら寝れば治るでしょ」
「うん。頑張んなきゃ」
そんな会話をして、二人はまた席に戻った。
翌日、火曜日。
朝、スマホが震えた。
千春からのLINEだった。
――――――
熱出たから今日休むね
38度
――――――
――――――
了解
無理しないで
――――――
それだけ返して、智子はスマホをしまった。
テストは続く。
教室は静かで、昨日よりも欠席が少し多い気がした。
すべてのテストが終わり、放課後。
智子はようやくスマホの電源を入れた。
通知が、一件。
千春からだった。
――――――
ゾンビ陽性
――――――
「……え?」
声が、漏れた。
一瞬、意味が分からなかった。
見間違いかと思って、もう一度画面を見る。
――――――
ゾンビ陽性
保健所から連絡来た
――――――
智子の背中を、冷たいものが走る。
その日の夕方。
智子は病院の待合室にいた。
いつもより、人が多い。
学生服のままの子もいれば、幼い子どもを連れた家族もいる。
誰も騒いではいない。
ただ、静かに順番を待っている。
「こないだ……こんなに人、いたっけ」
受付を済ませ、椅子に座る。
検査は簡単だと、知っている。
結果も、すぐ出る。
それでも、胸の奥がざわついていた。
◇
同じ頃、保健所。
「複数の医療機関から、陽性報告が来てます」
モニターを見ながら、職員が言った。
「年齢層はバラバラです、家族も多い。ですが発症時期は、ほぼ一致してます」
別の職員が眉をひそめる。
「……まさか、クラスター?」
「どうしたらゾンビでクラスターが起きるっていうのよ」
一瞬の沈黙。
「感染経路、洗い出します」
「接触歴、施設利用歴、全部だ」
「急いで」
キーボードの音が、部屋に響き始める。
保健所は、調査に動き始めていた。
◇
「泉水智子さん、どうぞ。お入りください」
呼ばれて、智子は小さく返事をして診察室に入った。
「はい」
白いカーテンの向こうで、医師がモニターと検査キットを見比べている。その表情は、深刻でも安心でもなく、判断に迷っているように見えた。
「えーと……検査の結果なんですが」
一瞬、言葉を選ぶような間があった。
「微妙なんですよね」
「……微妙、ですか?」
医師は頷いて、机の上に検査キットを置いた。
「これ、見てください」
透明なケースの中に、一本のはっきりした線と、その横に――
うっすらと、影のような線が見える。
「なんとなく、線が出かけてるような気がするでしょ」
言われてみれば、確かにそう見えた。
見ようとすれば見えるし、見なければ気のせいにも思える。
「この線が、はっきり出れば陽性判定です。
でもこの状態だと、まだ“陽性”とは言えないんです」
智子は、息を吸った。
「……じゃあ、陰性、ですか?」
「いいえ。陰性とも言えません」
医師は、淡々と続ける。
「潜伏期の終わりか、増殖の初期段階だと思います。
菌の量が少なすぎて、判定ラインに届いていない状態ですね」
そう言って、カルテに何かを書き込む。
「予約を入れておきますから、明日もう一度来てもらえますか」
「明日……」
「ええ。もし菌が増えていれば、多分明日にははっきり陽性判定が出ます」
“多分”という言葉が、妙に重く聞こえた。
「今日は、普通に帰って大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。
ただ、体調が急に悪くなったら、すぐ連絡してください」
医師はそれだけ言って、キットを片付けた。
診察は、それで終わりだった。
病院を出ると、外はもう夕方だった。
街はいつも通りで、人は歩いていて、店は開いていて、世界は何も変わっていない。
智子は、自分の手を見下ろす。
何かが起きている気がする。
でも、まだ何も起きていない。
はっきりしない線のように、彼女は今、日常と異常のあいだに立っていた。
◇
翌日、水曜日。
目が覚めた瞬間、智子は少しだけ違和感を覚えた。
身体が重い、というほどではない。
ただ、いつもより布団から出るのに時間がかかった。
体温計を脇に挟む。
――37.1℃。
「微熱、か……」
昨日言われた「多分」という言葉が、頭をよぎる。
学校には連絡を入れ、再び病院へ向かった。
昨日と同じ待合室。
昨日より、さらに人が増えている気がした。
名前を呼ばれ、診察室に入る。
「今日ははっきりしてますね」
医師は、迷いなくそう言った。
「線、ちゃんと出てます。陽性です」
机の上に置かれた検査キットには、
昨日とは違い、誰が見ても分かる一本の線が浮かんでいた。
「……そうですか」
思ったより、声は落ち着いていた。
「では、このあと注射を一本打ちます。それと、十日分の飲み薬を出しますね」
医師は、淡々と説明を続ける。
「一日一回、薬は必ず飲みきってください。
薬がなくなったら、もう一度検査をして、陰性になれば治療完了です」
看護師が準備をしながら、続けて言う。
「この病気は、人から人へは感染しません。ですから、外出しても大丈夫ですよ」
「……外出、しても?」
「ええ。ただし、免疫力が落ちると、稀に重症化することがあります」
カルテに視線を落としたまま、付け足す。
「二、三日は激しい運動は避けて、無理せず過ごしてください。
しっかり食べて、ちゃんと寝る。それで大丈夫です。
熱が下がったら学校に行っても大丈夫ですよ。ただし、きちんと体と相談してくださいね」
注射も一瞬で終わった。
「ありがとうございました」
診察室を出るとき、智子は自然にそう言っていた。
病院を出て、スマホを確認する。
千春から、メッセージが来ていた。
――――――
どうだった?
――――――
――――――
陽性だった
でも軽いって
薬出た
――――――
――――――
そっか
お互いゆっくりしよ
――――――
智子は画面を閉じ、歩き出す。
ゾンビ症。
名前だけ聞くと、もっと恐ろしい病気だと思っていた。でも実際は、注射を一本打って、薬を飲んで、少し休むだけ。
インフルエンザや、新型コロナと、それほど変わらない。
街は今日も、変わらず動いている。
智子はその中を、“陽性”のまま、普通に歩いていた。
それが、この社会では、ごく当たり前のことだった。
◇
その日の夕方。
智子が薬袋を机の上に置き、スマホをぼんやり眺めていたとき、着信音が鳴った。
知らない番号。
一瞬ためらってから、通話ボタンを押す。
「はい、泉水です」
『泉水智子さん? 保健所です』
声は落ち着いていた。事務的で、それでいてどこか親しみがある。
『……あら。こないだ通報してくれた子ね』
智子は、思わず背筋を伸ばす。
「はい」
『こないだはありがとうね』
「いえ……」
『それでね。二週間前くらいからの行動を、できるだけ詳しく思い出してほしいの』
「二週間前……」
智子は天井を見上げた。
テスト。授業。昼休み。
特別なことは……。
「えっと……普通に学校に行って、帰ってきただけです」
『うんうん』
「……あっ。でも、先々週の土曜日は駅前のショッピングセンターに行ってました。友達と」
『ショッピングセンター』
「服を見て、ケーキ食べて、ゲーセンで遊びました。ガチャも……えっと、やりました」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
言葉は優しいままなのに、空気が少し変わる。
『やっぱりね』
智子の喉が、無意識に鳴った。
『うん、ありがとう。助かったわ。もしかしたら、また何か連絡することがあるかもしれないから、そのときはよろしくね』
「……はい。いえ、大変ですね」
『大丈夫よ。コロナの時に比べたら、まだ天国』
そう言って、相手は笑うような声を少しだけ混ぜた。
それが逆に、妙に現実味を増す。
通話は、それで終わった。
智子はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
ショッピングセンター。
ただ遊びに行っただけの、休日。
それが今になって、別の意味を持ち始めている。
◇
「所長。感染者に共通している行動が出ました」
保健所の会議室で、職員が資料を指し示す。
「金曜日から日曜日にかけて、駅前のショッピングセンターと周辺施設を利用しています。複数の医療機関からの報告とも一致します」
所長は眉間に皺を寄せた。
「分かった。緊急で立ち入り調査を行う」
ペンで机を軽く叩き、言葉を切る。
「原因を、はっきりさせるぞ」
「はい」
椅子が引かれる音、紙が束ねられる音、キーボードを叩く音。
部屋の空気が一気に忙しくなる。
外は夕方で、街はいつも通りで、ショッピングセンターの灯りもきっと、変わらず点いている。
けれど、その「いつも通り」の中に、もう戻れない線が引かれた気がしていた。
◇
翌日早朝からショッピングセンターは異様な空気に包まれていた。
いくつかある入口のすべてに臨時休業の張り紙。
そこへ、駐車場で防護服に着替えた集団が、ショッピングセンターの正面入口から中へ入っていく。
白い防護服とフェイスシールド。
いつもなら買い物客で賑わうはずの場所に、その姿はあまりにも浮いていた。
営業は停止されているが、照明は落とされていない。
広い通路に、人影はない。
「天井裏、行きます」
「地下ピットも確認を」
調査員たちは、普段は人の目に触れることのない場所へと分散していく。
天井点検口が開けられ、脚立を使って覗き込む者。
地下の設備用通路に降りていく者。
パイプシャフトの奥へ、ライトを照らして進む者。
そこは、人がいる前提で作られていない空間だった。
空調機械室。
大型の外調機が並び、低い唸り音だけが残っている。
埃の匂いと、乾いた空気。
調査員の一人が、外調機の裏側にライトを向けた。
「……待ってください」
声が、わずかに硬くなる。
「裏、見えますか」
数人が集まり、ライトが重なる、配管の影。
人が歩くスペースからは、ちょうど死角になる位置。
そこに、人の形をしたものがあった。
「遺体だな……」
皮膚は黒く固く変質し、所々が鮫肌というか、まるでおろし金のようにとがっているのがわかる。
衣服に破れた箇所が見えるのはそのせいなのだろうか。
腐敗臭はほとんどない。
「ミイラ化してます。最近のではないですね」
無線で連絡が飛ぶ。
「遺体発見。空調機械室、外調機裏です」
ほどなくして、警察と消防が到着した。
現場は、さらに静かになる。
「首の後ろ……」
警察の担当者が、慎重にライトを当てる。
「破裂痕がありますね」
皮膚が裂けた跡。
周囲には、固着した痕跡が残っている。
「キャリアで間違いないでしょう」
消防の隊員が、空調ダクトを見上げる。
「ここから、空調を通じて施設内に広がったと」
「……間違いないですね」
一瞬の沈黙。
「ひとまず、遺体を搬出しましょう」
指示が出る。
「搬出時、皮膚で怪我をしないよう注意してください。
その後、全体の消毒作業に入ります」
調査員がうなずく。
「胞子は紫外線に弱い。消毒が難しいものは、天日干しか、廃棄ですね」
「通常なら、日の当たる場所にあれば、丸一日で不活化するはずですが……」
誰かが、空調機械室を見回す。
厚い壁。
窓のない空間。
乾燥した空気。
「日の当たらない、乾燥した機械室特有の環境が、被害を拡大させた」
「その認識で、間違いないでしょう」
遺体は、静かに運び出されていく。
ショッピングセンターの外では、いつも通りの街の音が聞こえていた。
だがこの建物は、“安全な場所”だと思われていたがゆえに、誰にも見られず、誰にも気づかれないまま、
感染を広げていた。
それが、この事件の正体だった。
◇
テレビの画面には、スタジオのアナウンサーが映っていた。
『先日発生した、IPBM――通称、ゾンビ症のクラスターについてです』
落ち着いた声が続く。
『保健所の発表によりますと、今回のクラスターは、ショッピングセンター内の機械室に侵入したキャリアが死亡し、その後、空調設備を通じて胞子が施設内に拡大したことが原因とみられています』
画面は、ショッピングセンターの外観へ切り替わる。
出入り口には規制線が張られ、防護服を着た人影が小さく映っていた。
『今回のクラスターで確認された感染者は、合わせて百三十五名です』
数字が、テロップとして表示される。
『このうち、ほとんどの方はすでに回復に向かっておりますが、二名が重症となっており、現在も医療機関で治療を受けているということです』
スタジオに映像が戻る。
『また今回の事案を受けて、施設の施錠管理状況が適切であったかどうかなども含め、関係機関による調査が進められています』
一拍置いて、アナウンサーは続けた。
『なお、機械室で発見された遺体の身元については、現在も調査中とのことです』
ニュースは、次の話題へと移っていく。
天気予報。
交通情報。
いつもの流れ。
テレビの前でそれを見ていた人の多くは、すでに別のことを考えていた。
数字は処理され、原因は説明され、事件は「対応済み」として整理されていく。
そのクラスターの中に、自分がいたかもしれないことを、もう思い出さなくなりつつあるまま。
◇
「ともっち、久しぶり」
登校してきた千春が、少し大げさに言った。
「久しぶりって言っても、三日ぶりじゃん」
「それな。なんか一週間くらい会ってない気がする」
二人で並んで歩きながら、靴音を鳴らす。
「てかさ」
千春が思い出したように声を潜める。
「今日の放課後、再テストあるんだって」
「……まじで?」
智子は思わず立ち止まりそうになる。
「聞いてないんだけど」
「私も今さっき聞いた」
千春は肩をすくめた。
「やばいよね。私、なんの勉強もしてない」
「なんで」
「だってさ、ずっと推しの動画見てた」
開き直ったように言う。
智子は一瞬だけ黙ってから、視線を逸らした。
「……実は私も」
「でしょ!」
二人は顔を見合わせて、同時に笑った。
「ゾンビで休んで、再テストで詰むとか、運悪すぎ」
「ほんとそれ。病気よりこっちの方がダメージでかい」
廊下の向こうから、チャイムが鳴る。
「まあ、なんとかなるでしょ」
「ならなかったら、赤点仲間ってことで」
「それはそれで嫌なんだけど」
そんなことを言い合いながら、二人は教室へ戻っていく。
ニュースで騒がれていたクラスターも、テレビの中の話みたいに遠ざかって、少なくとも今は、放課後の再テストのほうが、よっぽど現実だった。
◇
国会。
委員会室の空気は、張りつめているというより、どこか重たかった。
書類をめくる音と、カメラのシャッター音が断続的に響く。
「総理、今回発生したIPBM、いわゆるゾンビ症のクラスターについて、どのようにお考えでしょうか」
質問席に立った議員が、マイクを通して問いかける。
総理大臣は、原稿に目を落とし、一拍置いてから顔を上げた。
「今回の事案については、非常に遺憾に思っております」
定型文のような口調だった。
「現場となったショッピングセンターにつきましては、施錠管理の徹底を――」
その言葉を遮るように、別の議員が声を上げた。
「総理、そういう問題じゃないんですよ」
室内が、わずかにざわつく。
「近年、人手不足が深刻化する中で、施設管理は無人化・自動化へと急速に移行しています」
議員は資料を掲げる。
「センサーや遠隔監視に頼るケースが増え、人が実際に目視で確認する機会は減っている。今回の空調機械室も、点検自体は自動ログ上では“問題なし”とされていたんです」
総理は、ゆっくりとうなずいた。
「その点については、報告書で把握しております。したがって、管理体制の見直しと徹底を図るべく、法改正を――」
「管理の徹底、とおっしゃいますが」
議員の声が、少し強まる。
「徹底できる人員がいないから、オートメーションが普及しているんですよ」
委員会室が静まる。
「今回は機械室の話でしたが、例えば今、社会問題化している解体されないまま放置された廃墟や空き家。肝試しで侵入した若者が、遺体を発見するニュースも珍しくありません」
議員は、総理を真っ直ぐに見据えた。
「今回のクラスターによって、『ゾンビは屋内には侵入できない』という平和神話は、完全に崩れたんです」
一瞬の沈黙。
「総理は、この事の重大さを、本当に理解しているのですか」
カメラが、総理の表情を捉える。
総理は言葉を選ぶように、わずかに視線を伏せた。
「……その点についても重く受け止めております」
だが、その言葉が、どこまで届いているのかは分からなかった。
委員会は続く。質疑も続く。法改正の議論も、進んでいく。
けれど⋯⋯
人が足りない社会で、人の目を前提にした安全を、どう維持するのか。
その問いだけが、宙に浮いたままだった。
そしてその間にも、街では今日も、誰かが屋内へ入り、誰かが見つからない場所に倒れているかもしれない。
それを知っている者は、この場には、いなかった。
◇
ある日の放課後。
夕方の河川敷は、風が少し冷たかった。
部活帰りの学生や、犬の散歩をしている人がまばらに行き交う。
空はまだ明るく、日常そのものだった。
「……あれ、ゾンビじゃない?」
千春が、川沿いの茂みを指さした。
「あっ、本当だ」
倒れている人影。
動かない。
皮膚の色が、遠目にも分かる。
「通報しなきゃだね」
智子が言うと、千春は一歩下がった。
「千春、通報しなよ」
「えっ、やだよ。ともちゃんお願い」
「いーやーだー」
智子は笑いながら首を振る。
「何事も経験だって。私、もう一回通報したことあるし」
「ずるい!」
少しだけ間があって、千春がため息をついた。
「……わかったよ」
スマホを取り出しながら、ちらっと智子を見る。
「どこに通報するか、覚えてる?」
という智子に、千春は
「#6666でしょ。覚えてるって……」
画面を見つめて、千春は固まった。
「……あれ?」
「どうしたの」
「電話って、どう使うんだっけ」
「は?」
「私、ライン電話ばっかりでさ……普通の電話、したことないかも」
智子は、一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「もう、しょうがないなー」
肩越しに画面を覗き込みながら、言う。
「えーっと……ここ押して……そう」
千春は深呼吸して、スマホを耳に当てた。
「……もしもし」
一拍。
「保健所ですか?」
少し間があって、はっきりと続ける。
「ゾンビです」
川の流れは変わらず、夕焼けは静かに広がっている。
ゾンビは、もう珍しくない。
通報も、特別なことじゃない。
それでも、少しだけ笑えて、少しだけ戸惑う。
そんな日常が、今日も続いていた。
『それはゾンビと共生する世界』
−END−




