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あの夏

「俺ってさ、昔人を殺した事ある?」

「は? 急に何言い出すのよ」


 電車に揺られながら心と身体は震えたままだった。自分が人を殺したかもしれないと思うと冷静でいられなかった。頭の中では色々な考えが飛び交いまるでまとまらなかった。


 スマホで検索すれば答えはすぐに見つかるかもしれない。だが怖くて出来なかった。

 どうするべきか。考えた末、俺は母さんに直接尋ねる事にした。


「人を殺したって、そんな事あるわけないじゃない」


 母さんは軽い冗談でも笑い飛ばすように俺の言葉をあしらった。一瞬安心しかけたがさすがにそれでは終われなかった。祖父の土地で会った人達の反応、なつみの父親の言葉。全てが気のせいで済ませられる類のものでは決してなかった。


「今日名取に行ってきたのはゼミの課題もあったけど、それとは別に個人的に知りたい事もあったからなんだ。だからそこで色んな人に会って話を聞いてきた。昔ここで子供が溺れるような事件や事故はなかったかって」

「何でそんな事……あ、そういえば昔溺れた事ないかって私にも聞いてきた事あったわね。あんたまさか、まだあの悪夢を見続けてるの?」

「そのまさかだよ。母さんは俺が溺れた経験はないって答えた。それを信用してないわけじゃない。でも悪夢は今も続いている。だから確かめようと思った。そしたら、お前は人殺しだって」

「誰がそんな事言ったの」


 途端母さんの声音が張り詰め、温度が下がった。


「なつみって女の子の父親。毎年夏休みに遊んでた子がいてその親父さん。他のお年寄りの人とかにも、似たような事を言われた」

「……そう」


 沈黙が流れた。勘弁してくれと思った。違うならさっきみたいに笑い飛ばしてくれればいい。なのに何故黙る。沈黙はすなわち答えじゃないかと絶望に沈んでいきそうになる。


「忘れられるって幸せよね」


 深く長く息を吐いた後、母さんは意味深に呟いた。


「あんた、本当に何も覚えてないのね」

「……何をだよ」

「あの夏に起きた事全部」


 言われても尚まだ何も思い出せない。記憶と言われてあるとすればあの悪夢だけだ。


「せっかく忘れてたのなら、忘れたままで良かったのに」


 母さんの声は悲し気で、どこか憐れみも含んだような声だった。


「なつみちゃんを殺したのはおじいちゃんよ」


 母はあの夏の全てを教えてくれた。




  



 夜、自宅に戻ると風真が既に帰ってきていた。今日は一人で祖父の家に泊まる予定のはずだった。


「あんた、どうしたのよ?」


 風真はだんまりと座ったまま何も答えない。顔色も悪い。


「大丈夫? 体調悪いの?」


 額に掌をあててみる。熱はなさそうだ。


「何かあったの?」

「分からない」


 ぼそぼそと弱弱しい声だった。


「今日は帰れって。後これを母さんにって」


 風真は一枚の茶封筒をこちらに差し出した。宛先も差出人も書かれておらず、中には一枚の便箋が入っていた。取り出し便箋を開く。


“あきへ”


 父の字だった。書かれていた内容は信じられないものだった。理解し納得するには時間が必要だった。だが目の前にいる息子をそのままにするわけにもいかない。


 今、この子は何を思っているのか。母親として私がするべき事は何か。

 瞬時に頭を働かせ、私は何事もないといった声で息子に話しかける。


「風真。ご飯食べた?」

「ううん」

「じゃあ、美味しいもの食べに行こ」


 私は我が子を両腕に抱きしめた。

 

「大丈夫だから。今日の事は全部忘れなさい」


 父が逮捕されたと連絡があったのは翌日の事だった。







「じいちゃんが、逮捕……?」

「そう。なつみちゃんの死体はおじいちゃんの押し入れから見つかった。死因は溺死だったけど、彼女の首にはおじいちゃんの指紋がしっかり残っていたって」


 なつみを殺したのは祖父だった。全く知らない事実だった。


「でもね。おじいちゃん何も覚えてなかったの。というより言ってる事が支離滅裂。私もその後何回も会いに行ったけど会話にならなかった。認知症だったみたいね。一年会わない間にひどく進行してたみたい。なつみちゃんを殺した事はもちろん、私の事すら認識がみるみる内に薄れていってた」

「そんな感じ全然なかったのに」

「日による時もあったのかもね。時折私の事をちゃんと認識していた事もあったから」


 あんなにもしっかりしていたはずの祖父が認知症だった事にもまるで気付かなかった。


「状況証拠から祖父が犯人である事はほぼ確定だった。でも取り調べもままならない状態だったからそのまま向こうの施設に入れられて。そこから食事もまともに取らなくなってみるみる衰弱して死んじゃったの」

「全然知らなかった」

「当然よ。あんたにこんな事話せるわけない。だから昔溺れた経験がないかって聞かれた時は驚いたわ」


 ーーじゃあ俺は、誰も殺していない。


 人殺し。心に突き刺さったままだった言葉がゆっくりと抜けていく。

 なつみを殺したのは俺じゃなかった。その答えに安堵が広がりかけたが、事実は喜びきれるものではなかった。

 名取の人達の言葉の意味を理解した。あれは全て祖父の罪に向けられたものだったのだ。


 ーーでも、じゃああの悪夢は。


 ただ事実を知った時、悪夢の答えが途端に分からなくなった。

 最初は自分が過去に溺れたトラウマがきっかけだと思っていた。

 次に自分がなつみを溺死させた記憶が形を変えて現れたものだと思った。

 だが事実は、自分は溺れておらず祖父がなつみを溺死させたというものだった。


 そしてゆっくりと思考を巡らせやがて答えに辿り着いた時、俺は戦慄した。

 

 俺は祖父がなつみを殺した瞬間を目の前で見ていた。


 祖父の殺人現場に立ち会うなんてこれ以上ないトラウマだろう。記憶から抹消されていても当然だ。こんなショッキングな出来事を幼い脳が処理しきれるわけがない。だからこそ悪夢という形で残ってしまった。

 五感で感じたものを脳に留める記憶という処理と、心身を守る為の忘却という処理が反発しあい、その結果悪夢という歪な形となって残り続けた。

 

“大丈夫だから。今日の事は、全部忘れなさい”


 夏だけに見る溺れる夢。

 最後に耳元で聞こえた声。それはおそらく母さんの願いの声だったのだろう。

 しかしそれすらも悪夢の中の一部となって溶け込んでしまった。


“せっかく忘れてたのなら、忘れたままで良かったのに”


 母さんの言う通りかもしれない。思い出さなければ今になってこんな辛い思いをせずに済んだ。でも、これで良かったと思う。


「母さん、ごめん」

「え?」

「一人でずっと抱え込ませて、ごめん」


 母の優しさに感謝した。祖父がなつみを殺した理由は分からない。ただいずれにしろ実の父親が殺人犯になってしまうなんて途轍もなく辛い事実だろう。


「母親なめんじゃないわよ」

「え?」

「可愛い息子の為だったら、大抵の事は乗り切れんのよ」


 母さんの笑顔は祖父譲りの快活なものに、声はいつも通り凛とした強いものに戻っていた。


「あんた、ご飯まだ食べてないでしょ」

「あ、そういえば食べてない」

「ちょっと遅いけど、なんか美味しいものでも食べに行くか。ほら行くよ」


 とは言ってもこの時間だと近くのファミレスになるだろう。だがそれで十分だ。

 記憶から抜け落ちたあの日のように、俺は母の背中についていった。


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