塗り潰す
青い春のワンシーン……に見える、かも?
筆を走らせる。
時にペインティングナイフで鋭く、大胆に色を重ねていく。
色を重ね、時には削り、また重ね。
まるで色を重ねる事で物理的な立体を作り出すかの様に、重ね厚みを足してく。
描かれるのはこの教室から見える景色。
校門や町並みも見えるがその先の、山々や空をキャンバスに写す。 もっとも、今見える光景は曇り空と水を含んだ山の色。 陽が射せば鮮やかな緑も映えるはずだが、今の天気では酷くくすんだ色にしか見えない。
だから今キャンバスに載る色彩は記憶と想像頼りだ。
「精が出ますね」
そう見えてしまったのだろう。
たまに顔を出す幽霊部員の様な後輩が後ろから声を掛けてくる。
「…………やっているところを見せないと執行部の連中が五月蠅いからな」
その言葉に、ほぼ幽霊部員な彼女は顔を顰めた。 彼女を揶揄するつもりはなかったのだが、そうも聞こえてしまうセリフだったのは反省だ。
「すいません、先輩……、でもわたし、絵は無理ですよ」
「わかってる。 元々籍を置いて貰うだけの話だしな。
まともな活動をしているのがオレだけの部活だ。 十分ありがたいよ」
「そう言えば最近見掛けませんね、執行部」
数多い名ばかりの部を潰し、その予算を大御所に当てようとする生徒会執行部は広く知られた存在だ。 「幽霊」が多数発生しているこの美術部も目を付けられている。
「潰せそうな弱小部はここだけじゃないからな」
話しながらも手は止めない。 絵の具と油をひたすら消費していく。
それほど安くもないそれがただ消費されていく様は、なるほど確かに芸術とは金食い虫であろうと思わせる光景だ。
しかも一枚を完成させるのに使う期間を考えるとパトロンでもいなければ生活は出来まい。
過去の偉大な絵描きたちが、大抵は生活苦であったと言うのが納得出来る状況である。 ま、自分がそんな絵描きであるとは言わないけど。
「それに高見は来てくれるだけマシだしな」
他の「幽霊」達は何か特別な理由がなければ顔も出さない薄情者ではある。 いや、籍を置いてくれただけでもありがたいのだが。
そんな「幽霊」たちがいなければ、こんな部活はとっくに廃部になっている。
「……高見、ですか?」
「高見だろう?」
高見 美衣奈。 ひとつ下の後輩だ。
「……昔は『みぃちゃん』って呼んでくれましたよね?」
そう言ってご近所さんは微笑みを見せた。
「小学校に上がる前の話だろ、それは。
それを言うならそっちだって先輩なんて呼び方はしなかったろう?」
小学生になれば、大抵は遊び相手が同性になり、異性とは疎遠になる。 いや、多少そういう意識が薄くても周囲の声がそうさせる。 学年の違うふたりであっても。
「わたしだってお年頃なんだよ、『しゅーにぃ』」
丁寧語ではなく、かと言って昔のものとも違うそれは、きっと今の、普段通りの口調。
「……こっちもお年頃だっての……みぃちゃん、さん」
「何でそこでへたれるの?」
「お年頃だ。 察せ」
そっぽを向く。
「そんなへたれなしゅーにぃに差し入れです」
手渡されるのは紙パックのジュース。 コンビニでも何処でも買える、ありきたりな野菜ジュース。
「さんきゅ。
……わざわざ買ってきたのか?」
まだ冷たいそれは朝や昼に買って、保存して置いたものとは思えない。
「この教室って、校門から見えるんだよね。 それで『ああ、まだ描いてるんだなあ』って思って」
少し早口な答えに、こちらも微笑みを隠せない。 そっと彼女へ手を伸ばす。
「そうかそうか」
「ぎゃーっ!? 油絵描いてた手で頭撫でんなっ!?」
拒否するセリフではあるものの彼女は逃げない。 その場で騒ぎ続ける。
「ほうほう、この感謝の気持ちを無にすると?」
「うひーっ! 何かギトギト油っぽいっ!?」
「……なんだろうな、ちょっと傷ついたナイーブな俺の男心」
そっと額にも触れる。
「顔は止めて! アタシ女優なのっ!」
「何が女優……あ、絵の具もついた」
触れたのはわざと。 だが「肉」と書くのは勘弁してやる、優しみの心遣い。
「何て事をっ!? 鬼! 悪魔! 柊也!」
「そう言われたからにはしっかり対処しないと……取り敢えず肌色で塗り潰すか」
「余計なコトすんなっ! 塗ったって下の色が残るんでしょがっ!?
……って、初めの色はなんだったの?」
「すまん。 ビリジアンとシアンに、マゼンダも少し混ざったヤツ……」
「それ、めっちゃ肌色の反対色!?」
濃いヘドロみたいな色。
使おうとして作った色ではなく、パレット上でたまたま出来てた色を見せる。
彼女は色が広がらない様にそっと手を額へ。
恐る恐る手の平を見るが、そこには何の痕跡もない。
「あれ? もう乾いた?」
「元々オレの手に絵の具はついてないよ」
彼女に触れた手を見せる。 利き手は、普通に描くだけならそれ程絵の具が付く確率は高くない。 パレットを持つ逆手ならかなり汚れるだろうが。
「もう。 ビックリさせないでよ!」
そうは言っても揮発性の高い油はいくらかついてはいるんだが、それは言わぬが花か。
「悪い悪い。
ちょっと待っててくれ。 もう終わらせるから一緒に帰ろう」
家はお隣とは言わないもののすぐ側。
送っていかないなど薄情な事は言わない。
「いいの? まだ描き終えてないよね?」
「ああ、下塗りで失敗してさ。 何とか出来るかと思ってたけど、どうもな……」
さっさと筆を洗い、パレットに残る絵の具を落としていく。
「そっか。 油絵って下の色が結構残るもんね」
納得の表情で彼女は言う。
中学の授業でやっていたせいか、幽霊部員でもそれくらいは知っている。 さっき自分でも言ってたし、当然彼女も既知なのだ。
「それが面白いんだけどな」
キャンバスに、布が掛けられる。
未完成故に晒したくない時に使う除幕布などと呼ばれるそれを、直接絵に触れない様に掛ける。
「かっこいい! プロみたい」
「安っぽいプロだな~」
布の下で、浮き出てくる、滲み出てきている下地。
彼女は知らないそれ。
オレだけが知っているそれ。
血飛沫の赤。
鮮血の紅。
「帰るか」
「うん」
浮き出る血の色は恨みの色か。
滲む腐敗は妬みの色か。
屍体は未だに見つからず、廃棄された焼却炉の中に在る。
廃棄された焼却炉の隅っこに埋まり、無数の炭に囲まれている。
部の存続と引き替えに美衣奈との交際を仄めかしたクソ野郎。
妬むなら妬め。 だが恨まれる覚えはない。
明日はキャンバスを剥がして焼いてしまおう。 書きかけだったからと、絵の中に埋め込むなんて事を考えたオレがバカだった。
全部全部焼き尽くそう。
火種と、塩と適当な経文があればいいか。
呪うなら呪え。
だが恨まれる覚えはない。
全部自業自得だろう?
夕焼けの赤
鮮血の赤
妬みの赤
滲み出る赤赤赤