第三話
「や、八五郎丸先輩……」
「苗字で呼ぶなんてよそよそしいじゃない。みずちー先輩、でいいのよ?」
階段を上りきった蛟はにこやかな笑顔を携えながら宮原の下へと歩み寄った。
だがその笑顔からはまったく敵意など感じられない。だがその中に隠された悪意はにじみ出るどころか溢れ出るほどであった。
惚れ惚れする程綺麗な容姿と立ち姿。だがそれすら台無しにしてしまう程の悪意。
蛟が足を進める毎に、宮原はどんどん青ざめた顔になっていく。
「宮原さん、だったわね。知ってるわ、古川先生の代役を務める事になったって聞いてね。でも気分が悪そう。先生の代役はやっぱり重圧だったのかしら?」
宮原は何も答えない。というより答えられないのだ。
まさに毒が塗られた短剣を首筋に突きつけられているような感覚。それでいて相手はそれを悪い事だとは思っていない。蛟の気まぐれでその短剣が喉元を抉るかもしれない。
宮原は視線を蛟から逸らせず、ただただ震えている事しか出来なかった。
「宮原さん本当に大丈夫?顔が真っ青よ。熱でもあるんじゃないかしら?」
そう言って蛟は白く美しい手で宮原の額に触れた。
途端、宮原は体の震えを止めて目を瞑りうな垂れた。
「あら、大変。気を失っちゃったみたい。えぇと、あなたは宮原さんの彼氏?」
蛟は白井の方を向き直った。
蛟は無邪気な笑みを浮かべ、その瞳に映る期待――いや、嗜虐的な興味に白井は僅かに眉を寄せた。
「……ちがうよ、俺は恋人じゃない」
即座に否定する白井の声は静かだったが、内に何かを押し殺すような硬さがあった。蛟の目がほんの一瞬、つまらなさそうに揺れたのを、白井は見逃さなかった。
「そう、残念。じゃあ……処分、どうしようかしら」
「処分、って……」
まるで落ち葉でも拾い上げるような無関心な調子で言いながら、蛟は宮原の髪を一房、指に巻き取った。その仕草に宿る優雅さと、ぞわりと背筋を撫でてくるような悪寒――両方が、白井の心を苛つかせる。
「いらないなら、私が連れて行ってあげようか? どこか、静かで……涼しい場所に」
「……やめろ。保健室に運ぶ。俺が」
白井の語気は強くも鋭くもなかった。ただ、凍てつくような拒絶が含まれていた。その声に、蛟は何かを愉しむように目を細めた。
「ふぅん……つまらない。優しいのね、白井くん」
蛟の指が宮原の髪からすっと離れる。その瞬間、冷気が抜けたような感覚が白井の胸をかすめた。
白井は黙って宮原の身体を抱き上げる。軽い。あまりにも軽すぎて、彼女が今にも壊れそうな気がした。
「あんなにあっさり倒れるなんて……過度のストレスかしらね。」
白井は蛟の冷やかしに、無視するように顔を背けた。
そうして白井は、誰の視線も気にせず保健室へと歩き出した。蛟はその背を、まるで狩人が逃げる小動物の動きを眺めるように見送っていた。
白井は保健室につくと、宮原をベッドの上に寝かしつけ、自分は保健室の隅においてあった椅子に腰かけた。
しばらくの間、保健室の中は静寂に包まれていた。
蛟の言葉が頭をよぎる。彼女の冷徹さ、そしてその裏に潜む不安定なもの――それらを感じ取りながら、どうしてもあの笑顔の裏に隠されたものを無視できなかった。
宮原はまだ目を開けない。彼女の無防備な姿に心が痛む一方で、白井は蛟の事を思い出していた。
「あの女から感じたあの嫌悪感……」
その時、宮原が微かに目を開けた。力強さが感じられない、少し頼りない視線だった。
「白井くん……」
宮原は、かすれた声で白井を呼んだ。その声に、また心が揺れる。
白井はゆっくりと椅子から立ち上がり、宮原の元へと歩み寄る。優しく声をかけた。
「大丈夫か?」
宮原は小さく頷くが、まだ顔には疲れが見え隠れしている。その顔が痛々しくて。
「ありがとう、先輩……でも、蛟先輩は……」
宮原の言葉に、白井は困惑した表情を浮かべるだけだった。
あの冷たい雰囲気に包まれた蛟が、まるで感情のないロボットのように言葉を発するのを見て、言葉にならない違和感が胸に広がる。
「何だあれ…?」
白井は思わず口に出してしまった。その一言に、宮原はふと顔をしかめる。
彼が気づかないふりをしているだけだという事は、宮原も分かっていた。
しかし、それでも白井はどうしても自分の心の中の不安が抑えきれなかった。
蛟の笑顔、冷たい手、そしてその言葉の裏に潜む冷徹な意図。
それら全てがどこか不自然で、心の奥底に不協和音を響かせていた。
その不協和音を感じたとき、宮原は心の中でひび割れを感じていた。
まるで自分の中にある“器”が何かの拍子に割れてしまいそうな感覚がしていた。
冷たく、無機質なものに触れた時、そのひびは深くなるような気がした。
「敵意がない悪意――」
宮原は呟いた。
その言葉は、蛟が無意識に撒き散らす空気そのものにピッタリだった。
悪意に満ちているわけではない。ただ、その無機質さが宮原にとっては最も恐ろしいものだった。
すべてが平和で、善悪が曖昧で、ただ見守られているだけ。
けれどその無感情さに心がかき乱され、彼女はどうしても言葉が出てこなかった。
「……あんた、本当に大丈夫か?」
白井が再び問いかけてくる。顔色が青ざめた宮原を見て、少し心配そうな声をかける。しかし、宮原の心はそれどころではなかった。どんどん深まっていく不安が、言葉にしようとする前にどんどん胸に迫ってきた。
「……あの人の言葉、何かおかしくなかった?」
宮原はやっとの思いで呟いた。
白井は首をかしげながら答える。
「うーん、俺はただ変な奴だなって思っただけだけど…」
「……そうだよね。」
宮原はその言葉に、わずかに冷笑を浮かべた。
彼には分からないだろう。蛟の冷徹さが、彼女にとってはどれだけ重く、そして不安を引き起こすものか。それは何かを背負っている人間なら、きっと分かるだろう。だからこそ、余計にその無感情な言葉が痛かった。
「でも、あの人の目には、何か不安定なものが映ったんだと思う。」
白井が少し顔を曇らせながら宮原に目を向けた。
「お前、また何か考え込んでるな。」
宮原は再び目を閉じた。
自分が言葉にできないものを抱えていることを感じながらも、それを誰にも言えないもどかしさに胸を締め付けられる。
「……何かが壊れそうな気がする。」
小さく呟いたその言葉には、確かに先ほど感じた不安定さが含まれていた。
蛟のような存在が現れることで、どこかにひびが入って、ゆっくりとそのひびが広がっていくような不安。
いずれは、そのひびが完全に割れてしまうのではないかという恐れが、宮原の中で膨れ上がっていた。
しかし、その不安を胸の奥に押し込めることしかできなかった。白井には分からないだろうし、蛟にも何も言えない。
ただその存在が不安に変わっていくことだけを、宮原はひたすらに感じ取ることしかできなかった。
白井はしばらく黙って宮原を見つめていた。
「壊れる? それって、どういうことだ?」
白井がようやく口を開く。その声には、ほんの少しの不安と好奇心が混じっていた。
宮原は沈黙の中で、再び目を閉じた。その瞼の下で揺れ動く思いが、どれほど深いかを白井は理解できない。
「言葉にするのは難しいんだ。」
宮原は、短く言い切ると、再び言葉を続けた。
「でも、あの蛟先輩には何かある。無意識のうちに私たちを…壊す力を持っているような気がする。」
白井は少し黙り込んだまま、宮原を見つめ続けた。
その目は、宮原の言葉に対して何も答えを出せないような、少し困惑したような表情を浮かべている。
「壊す力?そんなの、ただの感じ過ぎじゃないのか?」
彼の言葉は、宮原が抱えている不安に対して、無意識に軽く反論するようなもので、どこか心の奥で無理にでも納得しようとしている自分がいるように感じられる。
「感じ過ぎ? そうかもしれないけど、私にはどうしてもあの人の目が、無機質すぎて怖く感じる。」
宮原は言葉を続けたが、今度は白井の目をじっと見据えずに視線を逸らした。
そこには、確かに彼に頼ろうとする様子は見えなかった。
白井は眉をひそめたまま、それでも口を開いた。
「でも、あの蛟って奴も結局は他の人と変わらないだろ。だとしても、俺たちがそこまで気にしないといけないのか?」
宮原の目が再び開かれ、そしてその目は、白井の言葉を受け入れる気配を感じることなく、ただ無言で横を向いた。
その無言の態度に、白井は何も言えなくなった。彼の言葉は、どこか軽すぎたのかもしれない。
「私は気にしないわけにはいかない。」
宮原は、ついに声を発した。静かで冷たい声が、保健室の空気に染み込んでいく。
「あの人の中に潜んでいる何かが、どこかで私たちを…不安定にさせる。」
白井はわずかに息を呑みながら、彼女を見つめた。しかし、その視線は温かさも優しさもなかった。少し突き放すように感じるほどに、冷たく見えた。
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
白井が呟くように言うと、今度はどこかあきらめの気配を帯びた声が浮かんだ。彼には、何かを変える力があるとは感じられなかった。
「私に分かるわけない。」
宮原は目を閉じ、深くため息をつく。
「でも、あの蛟先輩を見ていると、何かが…壊れていくような気がして怖いの。」
白井は再び黙っている。
彼にとっては、その感覚が理解しきれなかった。
それは、彼の中で何かを壊すことが怖いのではなく、ただ単に状況をどうにかしたいという衝動が先行していたからだ。
「結局、俺たちがどうにかできるわけじゃない。」
白井がもう一度口を開く。
「でも、お前が不安で苦しいんなら、それだけは分かるよ。」
その言葉に、宮原は軽く肩をすくめると、再び視線を外し、何も言わなかった。
白井の言葉に安堵の色を感じているわけでもなく、ただただその場にいることに疲れているような気がした。
「じゃあ、俺は行くよ。」
白井は、そっと椅子から立ち上がった。そして、まるで宮原の反応を待つことなく、足音を響かせながら保健室のドアに向かって歩き出す。
白井が保健室のドアに向かって歩き出すその瞬間、宮原が急に声を上げた。
「白井君、待って。」
白井は足を止め、少し驚いたように振り向く。
その視線の先で、宮原は少し恥ずかしそうに、でも確かに真剣な表情を浮かべていた。
「どうした?」
白井は、冷めた視線のままで、少し警戒するように問いかける。
宮原は一瞬ためらったが、すぐにふっと肩をすくめて、少しおどけたように言った。
「実は、私、白井君と付き合いたいと思ってるんだ。」
宮原の言葉は、どこか軽やかに響いた。
「だって、私がただ白井君を近くで観察したいから。」
白井はその言葉に少し戸惑うが、次の瞬間、宮原がさらに言葉を続けた。
「白井君は私みたいな美少女と付き合えてうれしいでしょ?」
宮原は目を細め、わざとらしく笑いながら、言葉を発した。
その口元に浮かぶ少しからかうような笑顔が、白井にはまるで計算されているように感じられた。
白井は一瞬、呆然とした。
どうして宮原が自分にそんなことを言うのか。
何か好きになられるようなことがあったわけでもない。
だが白井にはそれすらわからなかった。
今まで悪意しか向けられてこなかった。
だから何が好意なのかも彼は知らなかった。
「え、えっと…」
白井は言葉に詰まる。少し焦っている自分を感じた。
思わず彼は、宮原の言葉が冗談だと思おうとしたが、その笑顔にどこか引き込まれてしまう自分がいる。
「本気で言ってるのか?」
宮原は一瞬、しんと沈黙を作り、再び少し笑顔を見せる。その顔は、意図的に挑戦的なものに見えた。
「本気よ。」
宮原は軽く肩をすくめる。
「だって、私が付き合いたいんだから、付き合ってくれたって別にいいじゃない。」
白井はその言葉に、再び心の中で混乱を覚えた。宮原の目は真剣に見えたし、その言葉には遊びがあるようで、どこか本当の意味を含んでいるようにも感じた。
そして、少しだけ白井は息を呑み、口を開く。
「じゃあ…、まあ、仕方ないな。」
白井は結局、少し照れながら答えた。
「お前がそんなに言うなら、付き合うことにするよ。」
その言葉を言い終えると、白井は少しだけ顔を赤くして、少しだけ目をそらす。宮原の目は微かに勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「よかった。」
宮原はそのまま軽く笑って、少し肩をすくめた。
「じゃあ、これからよろしくね、白井君。」
白井は少し反応に困りながらも、ただうなずくことしかできなかった。彼の中で、この「付き合う」という言葉がどういう意味を持つのか、まだ完全には理解できていないようだった。それでも、どこか嬉しそうに顔を赤らめる自分がいることに気づき、なんとも言えない気持ちが湧き上がってきた。
宮原はその様子を見て、ちょっとだけ心の中で満足そうに微笑んだ。