第70話 命を賭けた交渉の始まり
空はどんよりと曇っていた。まるで、これから起こる出来事を予感させるかのように重たく暗い。俺は城の正門前に立ち、これまで歩んできた道のりを振り返っていた。俺は、ただ一人で旅立つ。武器を持たず、戦争の行く末を決める交渉のために。
城の門前には多くの兵士や民衆が集まり、俺の姿をじっと見守っていた。だが、彼らの顔には明らかな不安と疑念が浮かんでいる。彼らは、俺が生きて帰ることを信じていない。
国王も、マルセルも、俺が戻ってこないことを願っている。そうだ、これは単なる停戦交渉ではなく、俺を消し去るための罠だ。しかし、それでも俺は行かねばならない。誰もが望む平和を掴むため、そしてこの腐った状況を打破するために。
「武器を持つな」との命令を守り、手ぶらで出発する俺に、マルセルが最後に手渡してきたのは、妙な魔導具だった。銀色の小さな筒型の装置で、どうやら言葉を録音する仕組みになっているらしい。録音されているのは、魔族の言語で「停戦交渉がしたい」「人間の言葉が分かる魔族を呼べ」といった言葉だ。マルセルは面倒そうに説明しながら、この魔導具が魔族に対して誠意を示すためのものだと言った。
「言葉を通じ合わせないと交渉もできないだろう?」
と、冷めた笑顔で俺を見ながら言った。彼の部下に魔族の言葉を話せるエルフがいるようで、そいつが録音してくれたらしい。マルセルの言葉には皮肉が混じっていた。どうせ俺は交渉など成功させられないとでも思っているのだろう。だが、俺はそれを無視し、静かに装置を懐にしまった。
ヒルトハイム軍の戦場キャンプを通り抜け、やがて魔王軍の領地へと足を踏み入れた。周りには見慣れない風景が広がっていた。死んだ木々が立ち並び、空気は重く、冷たい霧が地面を這っている。まるで、誰もいないかのように感じられる。しかし、肌で感じる。どこかから監視されていると。
俺は立ち止まり、懐から魔導具を取り出してスイッチを入れた。すると、録音された魔族の言葉が機械的に響き渡る。荒々しくも、どこか不気味なその音が、周囲の静寂を破った。
すると、どこからともなくゴブリンの群れが現れた。小さな身体に鋭い牙と爪を持ち、全身に薄汚れた布を巻き付けた奴らが、次々と俺を囲むように出てきた。興奮しているのか、鼻息を荒くして、今にも襲いかかってきそうな気配だ。
「待て、俺に戦う意思はない!」
俺はすぐに両手を上げ、戦う意思がないことを示す。だが、ゴブリンたちの目は血走り、何かを待っているかのように焦っている。
そして、奥から一匹の大きなゴブリンが現れた。奴は他のゴブリンとは一線を画す、堂々とした体格と、立派な布を腰に巻いていた。鋭い眼光がこちらを射抜いてくる。指揮官だろうか? そいつが低く何かを叫ぶと、近くにいたゴブリンたちが素早く俺に近寄り、乱暴に縄で両手を縛り上げた。
ゴブリンたちは俺の腕を強く引っ張り、まるで獲物を捕まえたかのように扱う。その粗暴さに苦笑が漏れる。
俺は無抵抗のまま、大勢のゴブリンに囲まれながら、魔王軍のキャンプ地へと連れて行かれることになった。背中を押される度に、何度もつまずきそうになるが、ここで抵抗しても意味がない。今は耐える時だ。
だが、果たしてこの交渉がどこまで通じるのか。マルセルや国王、彼らの期待に応えるつもりはないが、俺自身の命を賭けた戦いが、本格的に始まった。
次の一手を誤れば、俺の命はここで終わるかもしれない。そして、それは俺の命だけで済む話ではない。国民の命運が、俺にかかっているのだ。




