第68話 マルセルの笑顔
城へ戻った俺は、すぐにマルセルの部屋へ向かった。廊下を歩くたび、城の冷たい石畳の感触が足元に伝わってくる。窓から差し込む夕暮れの光が、長い影を作り出していた。
マルセルの部屋の前にたどり着き、俺はノックした。中から優雅な声が響く。
「入れ」
ドアを開けて足を踏み入れた瞬間、俺は少し驚いた。実は、マルセルの部屋に入るのは、この時が初めて。この部屋は他の部屋と全く違った。調度品の一つ一つが、上質な木材と繊細な装飾で作られている。豪華でありながらも品があり、イヤらしさを感じさせない。そのセンスの良さが、逆に彼の権力を見せつけるかのようだった。どれもが「金持ちの趣味」と言うよりも「実力者の嗜み」を思わせる。
マルセルは窓辺の席に腰掛け、静かに果実酒を傾けていた。窓の外を見ながら、俺に一瞥もくれないまま、気だるそうな声を放つ。
「どうしたんだ、レオン? こんなところまで来るなんて珍しいじゃないか」
その言い方には、少しの好奇心と大量の無関心が混じっていた。俺は一息ついて、この部屋へきた目的を告げた。
「マルセル、今のまま戦線を維持するのは無理だ。国民が疲れ果てている。無理に続けているこの戦争のせいで、国は破綻寸前だ。戦線を縮小してくれないか?」
マルセルはそのまま果実酒を飲みながら、顔を歪めた。だるそうに眉をしかめ、俺に視線を送る。
「戦線の縮小、ねぇ?」
俺はその目を見つめ、続けた。
「国民はもう限界だ。戦争に兵を取られ、男手がなくなった農村は作物も満足に育てられない。食糧不足に加え、重税が国民をさらに追い詰めている。このままでは国がもたない。生活が崩壊寸前なんだ」
しばらくの沈黙が続いた。彼はグラスを机に置き、顎に手を当てて少し考え込むようなポーズを取った。そして口元にかすかな笑みが浮かぶ。その笑顔は、どう見ても狡猾な企みを隠していた。
「なるほどな、レオン。お前の言うことも一理ある」
その瞬間、俺の胸に不安がよぎった。マルセルが俺に賛同するなんてことは、めったにない。それなのに、なぜ彼はこんなに素直なんだ?
「ならば…戦線縮小ではなく、停戦の方がいいだろう。そのように私から王へ提案してみよう」
彼は突然、満面の笑みで言い放った。
「停戦?」
俺は眉をひそめた。戦線縮小は現実的な目標だったが、停戦は話が違う。
「そうだ。国民の生活を取り戻すためには、魔王軍との戦争を一時中断する方が良い。それなら、国民の疲弊も食い止められる。戦場に向かう必要もなくなるしな」
マルセルの言うことは至極まともだ。だが、彼が急にこんな提案をするなんておかしい。何か裏があるはずだ。
「停戦か……そんなことが本当にできるのか?」
俺はあえて彼の罠に足を踏み入れるつもりで問い返した。
「もちろんだとも。私から王に提案してやる。だが、一つ条件がある」
マルセルは椅子から立ち上がり、俺に向き直った。その顔には冷たい笑みが浮かんでいた。
「お前が、一人で魔王軍に停戦交渉に行くことだ」
その瞬間、俺は彼の意図を理解した。これは明らかに俺を始末するための罠だ。魔王軍の領土にたった一人で乗り込むなんて自殺行為もいいところだ。それでも彼は、まるで面白い提案でもするかのように、楽しげに俺を見つめていた。
「どうしたんだ? 急に固まったりして。お前が言い出したことだろう? だったらその望みを叶えてやるさ。もちろん、お前が無事に帰ってこれたらの話だがな」
俺の心に警鐘が鳴り響く。これは罠だ。しかし、国民の生活のことを考えれば、魔王軍との停戦交渉に臨むしかない。
俺は気づいていた。この頃マルセルは、俺を疎ましく思っていた。
国王補佐官として、国民に政策を伝えるだけが俺の役割。だが各地を回り、国民に直接顔を見せて説明する俺の行動は、国民に支持され始めていた。その姿勢が、多くの国民の信頼を勝ち得ていたのだ。
マルセルはそれを快く思っていなかった。俺の人気が上がれば上がるほど、彼の影響力が薄まるかもしれない。そして俺が本当の権力を握る存在になりかねない。だから、この頃から、彼は俺を早いうちに始末したいと考えているのだろう。
停戦交渉の提案は、その絶好の機会というわけだった。マルセルは、戦争を本当に止めたいわけじゃない。彼は戦争の利益に甘んじている連中の一人だ。むしろ、俺を戦場のど真ん中に送り出して、自らの手を汚さずに厄介な問題を解決しようとしているのだ。
「分かった。俺が交渉に行く。」
俺は冷静を装いながら答えた。そう答えるしかなかった。
部屋を出るときに見えた彼の冷たい微笑が、いつまでも俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。




