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第六章 青天の霹靂

 その後、秀は競日から話しを聞こうと試みたが、競日は既に帰宅済み。秀からかけた電話にも応答がなく、今日中に話しを聞くのは難しいだろうと諦めることになった。あとは他にも何か手がかりがないかと、学校中を片っ端から見て回った。結局あの後、特に何もめぼしいものは見つからなかった。

 そうこうしていると、時刻はあっという間に十八時になっていた。事情聴取はとっくに全生徒分終了し、この学校の生徒や先生たちは、既に俺と秀を除いた全員が下校していた。時間が遅くなって来たので、警察も一旦捜査を切り上げることにしたらしい。各々捜査の後片付けをしている。

「さて、それじゃあ僕達もそろそろ帰ろうか。捜査に付き合わせて悪かったね。」

「いや、俺もいい経験になったよ。」

 色々と彼の捜査に付き合った。いつボロが出るんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、事なきを終えた。

 今日の捜査の途中に彼が引っかかる点は、俺の犯行の証拠となる事とは全然違う所だった。しかし、いつだって目の付け所が細かくて、相手からの情報の聞き出し方も上手で。このまま数日捜査を続ければ、俺の所へ辿り着いてしまうんじゃないかという不安があった。

『西園寺 秀を、殺せば良いのです。』

 競日の言葉が頭をよぎる。

 突然の事では無い。彼と一緒に捜査をしながら、ずっと頭の片隅にこの言葉があったのだ。俺はズボンのポケットの上から、例の携帯ナイフの形を指先で確かめる。

「途中まで一緒に帰ろうか」

 秀はそう言って、いつもの柔和な笑みをこちらに向けた。

 校門を出て、川沿いの堤防を二人で並んでゆっくり歩く。

 辺りは少し薄暗くなってきた頃。等間隔で並べられたオレンジの街灯がぼんやりと辺りを照らしている。この辺りは向上やショッピングモール、コンビニや駐車場などが並んでおり、住宅はない。だからか、この時間になるとこの堤防は滅多に人が通ることは無い。 

「昨日の午後。僕たち、空き教室で喧嘩をしたよね。」

「…? ああ、そうだな。」

 突然昨日の話しを蒸し返される。彼の話しの意図が読めないまま、俺はそう相槌を返した。

「あの後、君は教室へ戻らなかった。…君は昨日、一体どこに行っていたんだい?」

 どくん、と心臓が鳴った。

 秀の捜査を手伝い、俺は犯人でありながら、まるで探偵の助手にでもなったような気分でいた。彼は今のところ俺を信頼してくれているのだと思っていた。…けれど、違う。彼にとって俺もみんなと同じだったのだ。

 俺は今、秀から"事情聴取"をされているのだと悟った。

 秀は足を止め、体ごと振り向いてこっちを見て、俺の回答を待っている。

「いや…、その、えっと…。なんとなく教室に戻る気にはなれなくて。そのまま家に帰って、ずっとふて寝していたよ。」

「それから朝まで、ずっと?」

「ああ、ずっと。」

 どくん、どくん。痛いと感じるほどに、心臓の鼓動が強まっていく。秀がこちらを見ているが、俺は彼の方を見る事が出来ない。彼の瞳が俺の心の奥底まで見透かしてしまうような、そんな錯覚で額に汗をかく。

「そっか。」

 秀は一言そう言うと、止めていた足を動かし、再び歩き始めた。

 ………セーフ、か? 俺が家にいたことは証明できないけど、家にいないことを証明出来るものもない。彼はこれ以上俺を疑うことは出来ないはずだ。

 俺は安堵し、小走りで彼の隣に追いつくと、再び彼の横に並んでゆっくりと歩いた。

「にしてもセルフィは今、何してるんだろうね。何度も電話をかけているんだけど、一向に繋がらなくてさ。」

 秀はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認した。折り返しの電話が来ていないかの確認をしたのだろう。きっと今、秀の中で1番疑わしく、話しを聞きたいのは競日だろう。

 競日は、俺がしたことを知っている。しかし彼女は、俺を助けようとしてくれる。きっと秀の事情聴取も上手く乗り切ってくれるだろう。

「もしかしたら僕が嫌われてしまっているのかな。」

「それはないんじゃないか?」

「どうかな。セルフィと話していると、なんとなくそんな気がするんだ。僕は人の敵意には敏感でね。」

 秀はそう言って困り顔で笑った。

 セルフィが秀を嫌っている? そんな素振りは全く見えなかったけどな。むしろ彼女にとって、秀は好きなゲームの主人公なはず。そんな人物を嫌いになる事なんてないだろう。

「遥斗がかけてみてくれないか? 大好きな人からの連絡なら出てくれるかもしれないだろう?」

 秀はそう言って、にやりと口端を上げてこちらに視線を寄越した。

「…からかうなよ。」

「満更でもないくせに。」

「うるさいな。」

 照れて彼から視線を逸らす俺の姿を見て、彼はけらけらと声を出して年相応の笑顔で笑った。

「まぁでも、何度も僕からかけると怖がられてしまいそうだし、嫌じゃなければ遥斗からかけてみてほしいな。」

 秀はそう言ってこちらを見た。

 …まぁ、いいか。俺から電話をかけるくらい。俺は一言「仕方ないな」と呟いて、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。4桁のパスワードを入力し、ロックを解除する。そしてそのまま流れるような指さばきで、メッセージアプリケーションのアイコンをタップした。『競日マナ』の名前をタップし、電話をかけようとする。

 その時だった。俺が『発信』ボタンを押すその直前に、がっしりと秀に右腕を捕まれた。驚いて彼の方を振り向くと、彼は俺のスマートフォンの画面を覗き込んでいた。

「昨日の二十時四十分、一体セルフィとなんの話しをしていたんだ?」

 秀は鋭い瞳でこちらを見ている。言われて、自身のスマートフォンの画面を確認する。競日とのトーク履歴が映る画面。二十時四十分から三分間の通話履歴が、画面にはばっちりと表示されていた。

 正直に話すことは出来ない。なんと誤魔化すのが正解だろうか?

 たった三分の通話履歴。普段から定例的に通話をしている訳ではない。世間話をするには時間が短すぎる。頭の中でぐるぐると逡巡していると、追い打ちをかけるように彼は口を開いた。

「実は僕は今朝、セルフィと話しているんだ。美化委員の仕事で朝早くに来ていた所にね。その時セルフィから聞いたよ。遥斗との通話で話した内容を。」

 驚いて俺は目を見開いた。

「でもね、八女くんと話した時にも言ったけど、事情聴取は本人の口から言葉を聞かなければ意味が無い。…さて、遥斗。聞かせてくれるかい? 君は昨日の夜、セルフィと三分間何を話していたんだい?」

 競日がすでに秀と話しをしていた。そして、競日は俺との通話内容を秀に話している。もちろん、正直な内容を話すわけが無い。ならば彼女は、適当な嘘をついて通話内容を偽装したに違いない。競日の供述と食い違う内容を話す訳にはかない。なぁなぁにして逃げてしまいたい所だが、上手い逃げ道が見つからない。競日が既に彼に通話内容を話してしまっているから、"恥ずかしいから秘密にしたい"みたいな言い訳は通用しない。

 どうしよう。焦る気持ちに、手のひらにびっしょりと汗をかく。それを拭おうと、俺はズボンのポケットに手のひらを擦り付けた。

 その時。硬い何かが俺の手にぶつかる。ポケットに入れている携帯ナイフだ。

 辺りは薄暗く、人はいない。…今ここで、彼を殺してしまえば。そんな考えが頭をよぎる。鼓動が早まり、知らず知らずのうちに息が切れていた。はぁ、はぁと勝手に荒い呼吸の音が漏れる。

 そんな俺の変化に気がついた秀は、俯く俺の顔をぐっと覗き込んだ。鋭い彼の瞳が、俺の記憶の奥深くまで覗き込んできているような気がした。

 俺は、ポケットから携帯ナイフを取り出した。一方後ずさって秀と距離を取り、その棒を両手でぐっと強く握り、先端を彼の方へと向ける。

「それは…、八女くんの写真に写っていたセルフィが持っていた謎の棒…?」

 秀はその棒を見て、冷静な口調でそう返した。

 俺は、片手で棒を強く握り、もう片方の手でぐっと棒を引き下げた。その棒から、ぎらりと鈍い光を反射する銀色の刃先が露になった。それを見た秀は驚いたように目を見開き、一歩後ずさって俺から距離を取った。

「…遥斗。それは、一体どういうつもりだい?」

 彼は一歩後ろに下がったものの、こちらが一歩踏み込めばすぐ届いてしまう距離にいる。

 俺と秀では身体能力に大きな差がある。頭脳明晰な秀だが、身体能力は同学年の男子と比較してもやや控えめだ。対して俺は、普段から体を鍛えていてかつ格闘技の心得もある。

 この距離感で、しかも俺はナイフを持っている。彼は丸腰だ。どう転んだって確実に殺せるだろう。

 あとは俺がやるかどうか、それ次第だ。

「こんな学校近くの堤防じゃ、僕が少し声を上げたら警察が来てしまうよ?」

 そういう彼の声は、珍しく震えていた。いつも比較的ポーカーフェイスの彼でも、この状況ではさすがに余裕がなくなるらしい。

「警察なんてどうでもいい。…お前さえいなくなれば、全て終わるんだから。」

 秀にそう答えながら、俺はその言葉を自分自身に言い聞かせた。

「どういう意味だ? 僕が何か君の気に障るような事をした? もしかして、昨日の喧嘩の事をまだ気にしているのか?」

「そんなんじゃない。」

 秀は悲しそうな顔で俺の様子を伺いながら、一歩こちらに距離を詰めてきた。俺はその分、一歩後ろに下がりながら答える。

 いっその事、秀が酷いやつだったらどんなに気が楽だったか。ナイフを持つ手が揺れ、がちがちと金属のぶつかる音が静かな河川敷に鳴り響いた。

「…僕のことを殺すつもりかい?」

「……ああ、そうだ。」

 俺は秀の方を見ず、俯いた状態でそう答えた。

「なら、どうしてそんなに辛そうな顔をしているんだ?」

 秀は優しい声でそう言った。俺は恥ずかしくなって彼に背を向けた。

「…お前、なんでそんなに冷静なんだよ。こっちはお前にナイフを向けてるんだぞ。死ぬかもしれないっていうのに。逃げなくていいのかよ。」

「そうだね。この距離で、君が本気で僕を襲って来たのなら、僕は君には敵わないだろう。確実に殺されるだろうね。」

 彼は冷静にそう言った。そこまで分かっているというのに、彼の声色からは先程と比べて緊張が抜けているように感じた。

「でも、君には本気で僕を襲う気がない。こんなにも様子がおかしい友人が目の前にいるというのに、君を放って逃げるわけがないじゃないか。」

 優しい声色でそう言う彼に、自然と目頭が熱くなった。

 カランと金属がアスファルトにブツカル音がして、気がついた時には俺の手からナイフが零れ落ちていた。熱い液体が頬を伝う。殺人犯の分際で何を泣くことがあると言われたら何も返せない。それでも涙が溢れて止まらなかった。やがて俺は足の力が抜け、その場にがっくりとへたりこんだ。秀はそんな俺の隣にしゃがみ込むと、とんとんと優しく背中をたたいた。

「…何が君をそんなに追い詰めているんだ? 全部、僕に聞かせてくれないか?」

 彼に先程までの鋭い眼光はもうなかった。どこか悲しそうな優しい瞳がこちらを覗き込んでいる。

「約束しよう。どんな話しを聞いても、僕は君の友達であると。」

 彼はそう言って、だらしなく脱力した俺の手を取り、彼の小指を俺の小指へと引っ掛けた。その瞬間、また一気に涙が溢れてきて、何も見えないほどに視界がぐにゃりとゆがんだ。

 …こんな言葉をかけてくれる友人を殺してまで、一体俺は何を手に入れようとしていたのだろう。

 東海林 昭仁は、殺人犯であることが周りにバレたことがいけなかったのではない。俺から大切な人たちを奪っていったのが許せなかったのだ。それなのに今、俺は目的と手段を履き違え、自ら自分の大切な人を失おうとしていた。大馬鹿者だ。

 東海林 昭仁に大切な人たちを奪われてから、俺の元には大切な人なんていなかった。もう他に守るべきものなんてない。秀を殺して生きながらえたって、俺の元には何も残らないのだ。

競日はこの世の行く先を知っている。彼女から見たら、俺は馬鹿な選択をしてしまうのかもしれない。でも、馬鹿な選択だと言われたっていい。俺は、自らの手で自らの行く道を決めるのだ。

「…俺が、須藤を殺した。事の顛末を全て話す。…聞いてくれないか?」

「…ああ、もちろん。」

 もちろんと言いながらも、秀の顔はどこか苦しそうだった。

 俺は全てを話した。二十時四十分、競日から学校に呼び出されたこと。彼女の指示通りに校門を飛び越えて学校に侵入したこと。時計塔の最上階に須藤はいて、声をかけても返事がなかったこと。肩を叩こうとしたら、開いていた窓から彼が落ちてしまったこと。

 秀は途中で口を挟むことなく、最後まで俺の懺悔を黙って聞いていた。

 それから、彼の表情が一変した。悲しそうな顔から、自信に溢れた笑顔へと変わったのだ。

「話してくれてありがとう、遥斗。これで全てが繋がったよ。」

 犯人が顛末を全て話したのだから、全てが繋がるのは当たり前だろう。そんな事を思っていると、彼はとんでもない事を口にしたのだ。

「これでよく分かった。遥斗、君は須藤くんを殺した犯人ではないってね。」

 秀は自信満々な笑みでこちらを見る。

「な…、何を言ってるんだ…? 俺の話しをちゃんと聞いていたのか?」

「ああ、聞いていたさ。君の指先が須藤くんの身体に触れる寸前に、須藤くんの身体は前方に倒れて転落した。それなのに自分が殺したと言えてしまう君こそ、理解が足りていないんじゃないか?」

 そう指摘されると確かに。俺は最初、自分が殺したとは思っていなかったはずなのに、いつからか自分がやったことを隠さなくてはいけないのだと思い込んでしまった。そこから、自分は須藤を殺したのだと思い込んでしまっていた。

「でもまだ完璧じゃない。僕の推理には穴が二つある。そのうちの一つは『動機』だ。」

 動機。犯人は何故須藤を殺したのか。その行動の動力源となる理由のことだ。

「遥斗は確か、セルフィが転校してくる前から彼女と面識があったらしいじゃないか。聞かせてくれないか。君と競日マナの関係性を。」

 俺と競日の関係性。それは突然の非日常的な出会い。

 突然ベランダに彼女が降ってきた。しかも彼女は異世界から転生してきたと言う。彼女曰く、この世界はゲームの世界で、俺は推しらしい。…そんなことを言って、一体誰が信じてくれると言うのだろう。さすがの秀でも作り話だと笑うだろう。

「…絶対、信じてくれないから嫌だ。」

「信じるよ。僕が君の話を真剣に聞かなかったことなんてあったかい?」

「そういう次元の話しじゃないんだって。じゃあ、競日マナは異世界から転生してきた、って言ったら信じてくれるのか?」

 俺がそう言うと、秀はぽかんと呆気にとられたように口を開いた。

「異世界転生? それはさすがに漫画の読みすぎだ…と言いたいところだけど、話しを最後まで聞いてみないとなんとも言えないな。途中で笑ったりしないから、全部話してくれないか?」

 秀はにっこりと自然な笑みを浮かべながらそういった。

 てっきり『さすがにそれは有り得ない』と返ってくるかと思っていた。笑われることを覚悟していたのに、そう真剣に返されると逆に困ってしまう。もうここまで来たら、どうにでもなれ。俺は、彼に競日マナとの出会いを全て話すことにした。

 ある日突然、家のベランダに彼女が空から降ってきたこと。彼女にとって俺はゲームの中の登場人物で、彼女は異世界から転生してやってきたらしいということ。実際彼女は、俺の秘密のあれこれをなんでも知り尽くしていたこと。彼女が俺を推しだと慕っていたこと。そして、このゲームの主人公は秀であり、連続殺人事件を捜査する推理ゲームであること。俺が事件の犯人であること。

 全て聞き終えた秀は、顎に手を添えて難しい顔で何かを考えている様子だった。

「…すごいな。とても信じ難い話しだ。」

 そりゃあそんな反応になる。それが普通だろう。現実味のないファンタジックなこの話を、すぐに信じろと言う方が無理な話だ。

「本当に信じ難いよ。まさか遥斗が、セルフィに押し倒されて何もせずにいられるほど理性的な人だったなんて。」

「そこかよ。もっと他に信じられないところいっぱいあるだろ。」

「そうだね。異世界転生だとか、そんなのはやっぱり現実的ではないと思う。」

 秀は真剣な顔でそういった。

 …やっぱり、こればっかりは信じてもらえないか。俺は少しだけ肩を落とした。

「本当に彼女が異世界から転生してきたのかはわからない。ただ、セルフィは君にそう言っていたんだろう。君がその目で見て、耳で聞いたことに嘘はない。そこは信じようと思う。」

「…競日が空から降ってきたことも、信じてくれるのか?」

「信じるよ。本当に空から降ってきたのかはわからない。けど君は、空から降ってきたセルフィを見ている。」

 俺が見ていることが真実だとは限らない。けれど、俺がそれを見たと言うこと自体は嘘じゃない。ということだろう。こんなにリアリティが無い話なのに、ここまで信じて貰えるとは思ってもいなかった。

「それに、異世界転生というのも全く信じられない話しではない。実は、僕がセルフィと2人で話した時、誰にも話した覚えのない僕の兄弟に関する話しを彼女は知っていたんだ。彼女のいた世界では僕達はゲームの中の登場人物で、僕の過去も全てゲームとして見て知っている。そう考えると納得もいく。」

 秀はそう言って、一呼吸置いてからまた口を開く。

「…この世界が本当にゲームの世界だというのなら、僕という探偵王子が『無理やり生み出された』ことにも納得がいく。」

 そういう秀は、どこか遠くを見ているようだった。

「無理やり生み出された…?」

 俺がそう訪ねると、秀はゆっくりと目を瞑った。

「少し、昔話でもしようか。」

 秀がそう言うと、さっと涼しい風が堤防を吹き抜けた。彼は一拍置いて、ゆっくりと口を開く。


◆◇◆


 あれは、僕が中学生の時の事だった。

 僕はちょっとした社交会に呼ばれて、西園寺家の長男として参加したんだ。色々な大人達と形式張った社交辞令を交わさなくてはいけない。退屈なパーティーだったよ。

 そのパーティーで、1人の男性と出会った。名を高坂という。高坂さんは、40歳くらいの中年の男性で、推定100kgは軽々越えていそうな丸みを帯びた体型をしていた。

 彼とどんな話しをしていたかはあまり覚えていない。それくらい僕にとっては退屈だったんだ。

 話しの途中で、高坂さんはトイレに行きたいと言った。トイレはすぐ近くだったから、僕が案内することにしたんだ。高坂さんを連れ、トイレの前まで来た。僕は特に行きたくなかったから、ここで待っていますと言ってすぐ近くの通路の壁にもたれたんだ。

 高坂さんはトイレの入口付近まで近づくとそこで立ち止まった。じっと看板をよく眺め、しばらくしてから男子トイレの方へと入っていった。

 そこのトイレはちょっと特殊でね。女子トイレのアイコンは赤、男子トイレのアイコンは緑で塗られていたんだ。普通男子トイレは青で塗られている事が多いから、珍しいなと思ったのをよく覚えていた。

 高坂さんはこの色に困惑して、どちらに入るべきか入口で迷って立ち止まったんだと思った。でも、それにしても彼が立ち止まっていた時間は長かったんだ。確かに緑って珍しいけど、女子トイレはいつも通りの赤色だった。消去法で緑の方に行くのにそんなに時間を要するだろうか? と疑問に思ったよ。

 その後は、会場に戻ってメインの立食パーティーが開催された。その日はクリスマスが近い日でね。赤と緑の二種類のジュースが出されていた。せっかくのイベント事だし、と殆どの参加者はこの二色のジュースのうちどちらかを選んでいたよ。

 赤色のカクテルは、ルビーグレープフルーツのジュース。緑色のカクテルは、メロンのジンジャーエール。

 僕はメロンが好きだから、緑色のカクテルを選んだ。高坂さんも緑を選んでいた。というか、参加者のほとんどは緑のグラスを持っていて、赤のジュースはあまり人気がないようだった。

 それから僕は高坂さんと別れ、別の大人たちと代わる代わる挨拶をしていた。とても疲れたよ。


 そしてその後、事件は起きた。

 会場の中央。突然高坂さんが倒れたのだ。会場内がざわつき、混乱していたよ。周りのスタッフが駆けつけた時にはもう遅く、彼は亡くなっていたよ。

 パーティーは中止。周りの大人たちは、何故高坂さんは死んだのかという話しをしていた。突然苦しみ出すなんて、料理か飲み物に毒でも入っていたんじゃないかってね。

 原因はすぐに分かった。高坂さんは高血圧で、降圧剤を服用していた。他の方が高坂さんに酒を進めた時に、薬を服用しているから酒とグレープフルーツのジュースは飲めないと断っていたらしい。降圧剤は酒と合わせてはいけないのはもちろんだが、グレープフルーツとの飲み合わせにも注意が必要な薬だ。だから高坂さんは、緑のジュースを手に持っていた。

 しかし、高坂さんが倒れた時、手には赤色のジュースを持っていた。飲み合わせには注意を払っていたはずなのに、彼はグレープフルーツジュースを飲んでしまい、急激に血圧が低下し脳卒中を引き起こしてしまった。

 注意を払っていたはずなのに、なぜ高坂さんはグレープフルーツジュースを飲んでしまったのか。僕は、赤と緑のジュースが並んでいる所をぼーっと眺めながら、大人たちの会話を聞いていたよ。

 そしてふと思い出した。この会場のトイレの色分けも赤と緑だったなと。そして彼は、トイレの前で長いことプレートを確認していた。

 もしかしたら高坂さんは、赤と緑を区別する事ができない色覚異常だったんじゃないか。男子トイレが緑色だった事に困惑していたのではなく、色で判別ができないからじっくりとアイコンの形を見ていたんじゃないか。そう考えた。

 僕は周りの大人たちにその事を伝えた。僕の言葉を聞くと、バーテンダーの男性が追加で証言した。

 赤と緑のカクテルは、テーブルの上に並べていくつも置いてあった。参加者たちはみな、各々好きなカクテルを自由に手に取っていった。しかし高坂さんはカクテルを手に取る前に、『メロンのカクテルはどちらですか』と聞いてきたらしい。赤と緑でルビーグレープフルーツとメロンなら、普通メロンが緑だと分かるだろう。それなのにわざわざ確認するなんておかしな人だなと思ったらしい。きっと高坂さんは、メロンのドリンクが何色か分からなかったのではなく、どちらのドリンクが緑なのかがわからなかったのだ。

 最終的にこの事件は他殺である事が判明した。高坂さんが緑色盲であることを知っていたその人は、高坂さんがテーブルにドリンクを置いたタイミングで赤と緑のドリンクをすり替えた。高坂さんはドリンクがすり替えられたことに気が付かず、グレープフルーツジュースを飲んでしまったのだ。

 警察が到着すると、大人たちは警察に事情を説明した。そして何故か、高坂さんが緑色盲だと気がついたのは僕だったという話しになった。警察官は僕の頭を撫で、賢いと褒めてくれた。大人たちに名探偵だと持て囃された。話しが盛り上がり、なんだなんだと人が集まってきた。どうやら西園寺の長男が、今回の殺人事件を解決したらしいぞ。そんな話しがだんだん大きくなり、やがて尾ひれはひれがついていく。

 僕はただ高坂さんの色盲を指摘しただけなのに、いつの間にか犯人を特定したのも、薬の飲み合わせに気がついたのも、全て僕の功績になっていた。僕はそんな事言っていないと言っても、「謙遜するな」と言われるだけだった。

 この噂は、僕の父の元にも届いた。普段滅多に人を褒めない父が僕を褒めた。どうやら、僕の噂は父の友人の警察官僚の所まで届いたらしい。珍しく上機嫌で褒めてくれる父に、僕は真実を話すことは出来なかった。

 それから更に少し経ってからの事だ。僕はもう一度事件に遭遇した。たまたま父とデパートに買い物に行った時、既にそこで事件は起きていた。大勢の警察官が事件現場に集まって、何やら捜査をしていた。

 そこで父は、とんでもない事を言い出した。

 『息子は、少し前にあった殺人事件を解決してみせた、中学生にして頭脳明晰な天才探偵です』ってね。

 西園寺 秀という名前は思っていたよりも警察内で広まっていたらしく、名前を話すとすぐに『ああ、あのグレープフルーツの!』と言われたよ。

 『今回もうちの息子が華麗に事件を解決してみせる』と、とんでもない無茶ぶりをしてきたんだ。本当にイカれてるよ。警察たちはきらきらとした目でこちらを見て、なんと僕が捜査に協力することを歓迎してくれたんだ。

 僕は焦った。ここで上手くやれなかったら、あの時本当は事件の解決なんてしていなかったということが父にバレてしまうかもしれない。心臓をバクバクと震わせながら、大人たちと一緒に捜査に協力した。

 そして僕は、犯行当時現場にいた参考人達からの事情聴取に立ち会うことになった。参考人達も、僕が天才探偵と呼ばれている事を聞いていた。随分怯えられていたよ。

 僕はね、推理力に長けていると思ったことは無いけれど、話術には少し心得があったんだ。大人との社交場によく駆り出される身としてはなくてはならないスキルだった。相手から有益な情報を聞き出すために、小さな情報を言い当てて全てを知っているフリをしてみせたり、どちらともとれるような曖昧な言い方で濁したり。そういう小賢しい事には自信があった。コールド・リーディングと呼ばれる手段だね。そんな話法を取り入れながら、僕は参考人達と話しをした。『天才探偵』という肩書きはそれだけで人を萎縮させる効果があった。そのおかげか、軽いトークのみで相手は『僕が全てを知った上で話している』も錯覚してしまっていた。

 やがて、僕は適当なひとつのワードを口にした時、『それを言うということは、全てお見通しということですね。…そうです、私がやりました。』と相手は言いました。僕は、その人が犯人だなんて微塵も思っていなかったけど、相手は勝手に勘違いして全てを吐いてしまったんだ。

 それから、僕は何度か警察の方から呼ばれ、捜査を手伝うことになる。

 回を重ねる事に、僕の肩書きは大きくなっていく。その大きくなった肩書きに、犯人は勝手に犯人は勝手に僕を神格化し、怯え、全てを話してしまう。

 僕自身は何も凄くない。西園寺 秀という天才探偵王子は、周りの大人たちが神格化し、おひれはひれを付けて作り上げられた偶像なんだ。

 僕が本当は天才なんかじゃないってことがいつバレてしまうのか。毎晩夢に見るほどに怯えながら、僕はこの活動を続けている。大人たちの夢を壊さないために。


◆◇◆


「…どう? 幻滅した?」

 一通り話し終えた後、秀はそう言って仮面のような笑みを携えてこちらの様子を伺った。

「この話で俺が幻滅する要素がどこにあったんだ? 俺は、お前が探偵だから一緒にいたわけじゃない。…それに、俺は探偵王子が偶像だとは思わない。」

「…どういう意味だい?」

「確かに最初は、大人たちが勝手に盛り上げて作り上げた偶像だったのかもしれない。だけど今日、お前がいなければ、須藤 光は事故死になるはずだった。安易に結論付けず、小さな違和感も見逃さない。今日のお前の捜査は、間違いなく偶像なんかじゃなかったよ。」

 俺がそう言うと、秀は笑顔の仮面を外し、少し泣きそうになって目元を歪めてからにっこりと幸せそうに笑った。


「なんのお話しをされているんですか?」

 その時だった。背後から声が聞こえ、俺達は勢いよく後ろを振り返った。そこには、にっこりと笑顔で佇む競日マナの姿があった。

「競日…っ、なんで、ここに…?」

「夜のお散歩です。歩いていたらお二人の声が聞こえたので、思わず声をかけてしまいました。」

 競日はにっこりと目を細めたままそう言う。笑ってはいるものの、彼女が何を考えているのかは全く読めない。

「やぁセルフィ。何度も電話をしたんだけど、気づかなかったかい?」

「あら、それはすみません。マナーモードになっていて気が付きませんでした。」

「まぁいいや。君とこうして会うことが出来たからね。」

 競日と秀は、お互いにっこりと笑いながら顔を合わせる。お互い笑顔でいるはずなのに、どこか一触即発の雰囲気を感じる。緊張のせいか、空気がどんどんと冷えていくような感じがした。

 二人はしばらく笑顔で見つめあったまま沈黙が流れる。重たい空気の中、秀はゆっくりと口を開いた。

「セルフィ。君だね、須藤 光を殺したのは。」

 秀の言葉に、競日は表情を崩さない。いつも通りの笑みを浮かべたままだ。事情聴取が始まるのかと思っていた俺は、突然の彼の言葉に驚いた。

 競日が犯人だって? それはない。だって須藤が最上階から落ちた時、彼女は時計塔の下にいたのだ。一体どうやって彼女が須藤を殺したと言うのだろう。そんな事を思っていると、競日は秀から俺へと視線を移した。

「…遥斗さんが西園寺さんに話したのですか? 昨日の夜に、私が学校にいた事を。」

 そう言う彼女の視線は冷たく、ちくちくと針で刺されているかのよう。

「分かりました、分かりましたよ。遥斗さんは『そういう選択をする』んですね。」

 彼女は俺に向かってそう言った。俺は、秀を殺さず、秀に全てを告白することを選んだ。きっとその事を指摘しているんだろう。そう思っていたが、彼女はとんでもない事を言い出した。

「自ら罪を償うのではなく、私に罪を擦り付けるおつもりなのですね。」

 彼女はそう言って、鋭い視線でこちらを見た。

「遥斗さんがそういうおつもりなら、私も遥斗さんを裏切ることにいたします。」

 彼女はそう言って、自らの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。そのスマートフォンには、ひとつの映像が映し出されている。…そう。俺が須藤を突き落とした時の映像だ。

「これは、事件当時の最上階の映像です。時計塔での喫煙の犯人を探すために設置していたものだったのですが、偶然こんな映像が撮れてしまいました。」

 秀は競日の方へと歩み寄り、スマートフォンから流れる映像をまじまじと見つめた。

「この映像では、間違いなく遥斗さんが須藤さんを突き落としています。見てわかる通り、この時私は最上階にはいません。なのにどうやって、私が須藤さんを殺せたと言うのでしょうか?」

 競日は勝ち誇ったかのような笑顔でそう言った。しかし、対する秀も得意げな表情だ。

「明白だ。君は時計塔の下から、須藤くんを落としたのさ。」

「時計塔の下から? 超能力でも使ったと言うのですか?」

「いいや。そんなものがなくたって可能さ。順を追って説明しよう。」

 秀は腕を組み、ゆっくりと左右に歩きながら言葉を続ける。

「まず、昨日の昼休み。君は須藤くんにクッキーを渡した。そのクッキーの袋の中に手紙を仕込んだ。須藤くんの袋だけ大きかったのは、手紙の入っている袋を間違えて別の人に渡してしまわないように見分けるためかな? その手紙を使って、君は20時に時計塔の最上階へ須藤くんを呼び出した。そして20時。君は最上階へやってきた須藤くんを眠らせ、彼の脇と胸に透明な細いワイヤーを巻き付けて固定した。須藤くんに巻き付けたのと反対側のワイヤーに、何か適当な重りを巻き付けた。その重りを投げ、ワイヤーを梁へと引っ掛けた。時計塔の梁には細い何かが擦れたような傷跡が残っていたよ。そして、その重りを今度は天井付近の小窓へと投げつけた。小窓の外にワイヤーを垂らすのが目的だったんだろうけど、何度か失敗してしまったみたいだね。そのせいで、小窓の周辺には小石がぶつかったような窪みがいくつか出来てしまっていた。なんとか小窓の外にワイヤーを垂らすことに成功した君は、そのワイヤーの先を外に置いてあった肥料袋に結びつけた。スマートフォンから最上階の様子を確認しながら、須藤くんの身体が直立し、ちょうど地面に足が着くくらいになるまでワイヤーの長さを調整した。あとは最上階に戻って窓を開き、窓枠の指紋を拭いたら準備は完了だ。20:40頃、君は遥斗を学校に呼び出し、時計塔の最上階へと登らせた。そしてスマートフォンで映像を確認しながら、遥斗が須藤くんに手を伸ばしたタイミングを見計らって君は須藤くんと肥料袋を繋ぐワイヤーを携帯ナイフで切った。支えを失った須藤くんの身体は、そのまま時計塔の下へと落下したってわけだ。…これが、遥斗に罪を着せるためにセルフィが計画した一連のトリックだ。」

 秀が話している間、競日は終始笑顔だった。何を考えているのか分からないその顔のまま、彼女はぱち、ぱちと拍手をした。

「さすが西園寺さん。探偵王子の名は伊達じゃありませんね。…でも、頭脳明晰な西園寺さんの事です。貴方も自分でわかっているのでしょう? 貴方の推理には、ひとつ大きな穴があると。」

 先程秀は、推理にはふたつ穴がある。ひとつは動機だと言っていた。彼女はそのもうひとつの方を指摘しているのだろうか。競日はにっこりと笑い、言葉を続けた。

「須藤さんを眠らせた、と簡単に言いますが、どうやって眠らせたというのですか?」

 競日がそう言うと、秀は眉毛をひくつかせた。

「…やれやれ。穴に気付かれずにゴリ押せるかと思ったんだけどね。」

 秀は笑っているものの、目は上手く笑えていない。少し焦りが見えるようだ。

「どうやって須藤さんを眠らせたか。貴方は絶対にその答えにたどり着くことは出来ません。頭の堅い貴方には、絶対に。」

「へぇ、そんなに凄い薬品を使ったのかい?」

「薬品なんかじゃありません。…みたいな事を言わせたいんですよね? 本当、小賢しい方ですね。」

 秀の手の内は競日にはバレている。おそらく、先程俺が聞いた彼の過去も競日は知っているのだろう。だとすれば、話術で情報を聞き出そうとするのはむずかしい。秀の顔に更に焦りが滲むのが分かった。

「ですが…。ここまでたどり着いた西園寺さんに敬意を評して、どうやって眠らせたのか、特別に教えて差し上げることにします。」

 競日はそう言って、にやりと大きく両の口端を吊り上げた。そして、彼女は目を瞑り、胸に手を当てて大きく息を吸った。

「~♪ ~~♫」

 彼女は呑気に歌を歌い始めた。前に聞いた事のある賛美歌だ。こんな時でも、透き通るような綺麗な歌声には惚れ惚れしてしまう。綺麗な高音が魅力的で…、心が安らいで……、なんだか、眠ってしまいそうな…。

 そこまで考えて、俺ははっとした。須藤をどうやって眠らせたのか? その質問に対するアンサーは『今、実践されている』のだと。

「耳を塞げ!」

 俺はそう叫び、自分の両耳をぐっと強く抑えた。襲い来る眠気に負けないよう、頬の内側をギリっと噛んだ。しかし、どうやら気がつくのが遅かったらしい。隣にいた秀は、ぱたりと床に倒れ込んでしまった。俺は両耳を塞いだまま、倒れた秀の近くへとしゃがみこみ、競日の方を見た。

 彼女が賛美歌を歌ってくれた昼休み。彼女が賛美歌を歌った瞬間、強烈な眠気に襲われた。そのまま俺と秀はしばらくの間眠ってしまっていた。あれはただ心地よかっただけじゃない。『そういう力を持った歌』だったのだろう。

 競日の口はぱくぱくと動いている。まだ歌が続いているのだろう。

 しばらくして、彼女は目を開く。そして俺と秀の状況を確認すると、にっこりと笑って口を閉じた。俺はゆっくりと耳を抑える手を離していく。

「…どうやら、西園寺さんは眠ってしまったようですね。ちょうど良かったです。私、遥斗さんと二人でお話しがしたかったんです。」

 彼女は、床に落としたままになっていた携帯ナイフを拾うと、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。俺は彼女から目線を離さないまま、眠ってしまった秀を庇うように体勢を動かした。

 彼女は俺の目の前まで近づくと、携帯ナイフの持ち手の部分をこちらに向けて、ナイフを差し出した。

「遥斗さん。このナイフで、私を殺してください。」

 突然の突拍子もない申し出に、俺は目を見開いた。驚く俺の手に、彼女は強引にナイフを握らせてきた。

「私は貴方を裏切り、貴方を犯人として西園寺さんに売ろうとしました。私のことが憎いでしょう?」

「な…、何を言ってるんだ?」

 彼女は俺にナイフを握らせ、そのナイフの切っ先へと自らの身体を近づけた。俺は慌てて、床に手をついて情けなく後ずさりをして彼女から距離を取った。それでも懲りずにこちらへ歩いてくる競日が怖くて、俺は更に後ろに下がる。

「待ってくれ。どういう事だ? 競日を殺せって…、意味がわからない。一体何が目的なんだよ!」

 俺はややパニック気味になりながら、声を荒らげてそう叫んだ。事件のトリックは秀が全て明らかにしてくれた。けれど結局、彼女の動機は全く分からない。

 何故俺が須藤を殺したように見せかけようとしたのか。何故秀を殺させようとしたのか。そして今度は自分を殺せと言う。その全ての行動が理解できない。

「東海林 遥斗の目が覚めるなら、犠牲になるのは誰だって構わないのですよ。たとえそれが私自身でも、ね。」

「俺の目が覚める…? 何の話しだよ…っ!」

「貴方は歴史に名を残す天才殺人鬼、東海林 遥斗なのです。いつまでもこんな所で燻ったままにしておくのは勿体無い存在…。誰しも最初の一手は戸惑うでしょう。ですから、私が手を引いて差し上げているんです。」

「はぁ…? 本当に何を言ってるのか分からない。」

「殺人鬼としての東海林 遥斗は、自由で、強くて…。何故もっと早くこうしていなかったのかと後悔されていました。私が手を引くのは、貴方のためなのですよ。」

「知ったような口を聞くなよ!! …競日は、ゲームの中で色々な東海林 遥斗を見てきたのかもしれない。でもそれは東海林 遥斗であって俺じゃない! この世界は競日の知ってるゲームの世界なんかじゃない! 俺の進む道は俺が決める! 俺は『ただの遥斗』だ!」

 勢いに任せ、感情のままにそう叫ぶ。息が切れ、静かになった堤防に俺の荒い呼吸の音が響き渡った。

 そんな俺の様子を見ても、彼女はまだいつもの笑顔を崩さない。そしてそのまま、スカートのポケットから携帯ナイフを取り出した。今俺の手に握られているものと同じものだ。彼女はナイフの切っ先を取り出すと、床に寝転んだ秀の首筋へとそのナイフを近づけた。

「今から私は、西園寺 秀を殺します。私を止めるには、貴方が私を殺すしかありません。…さて、どうします? これでも私を殺しませんか?」

 そういう彼女の瞳は、月の光を反射して妖しく爛々と琥珀色に輝いている。

 俺は地面を強く蹴り、一直線に競日の元へと飛びかかった。俺の行動に驚いたのか、彼女は大きく目を見開く。彼女の両腕をがっしりと強く掴み、そのまま硬いアスファルトの上へと押し倒した。

「もちろん殺さない。秀の事も殺させない。」

 俺は彼女を見下ろしながらそう言った。こんな状況だというのに、彼女はにっこりと笑みを浮かべたままだ。

 彼女が力で俺に敵うはずがない。こんな有利な体勢に持ってきたのだから尚更だ。これで競日はもう秀に手出しする事は出来ない。

「~♪」

 勝ちを確信したのも束の間。彼女は俺に拘束されたまま歌い始めた。くらりと訪れる目眩に慌て、俺は彼女を掴む手を離し、自らの耳を両手で塞ぐ。その一瞬の隙を突き、彼女は手に持つナイフを俺の首元へと近づけた。彼女の口が閉じ、歌が止まったことを確認してから、俺は耳を塞ぐ手を少し緩めた。

「少しでも動いたら怪我をしますよ」

 彼女はにっこりと笑ってそう言う。今度は彼女も油断をしていない。さっきのように意表を突いて彼女を無理やり押さえつけようとしても、それより先にこの刃先が俺の喉を掻き切るだろう。俺は耳にやんわりと手を当てたまま動けなくなった。

「…競日も、母親が殺人鬼だったんだろ? 殺人鬼の子供は殺人鬼予備軍だって、周りから偏見の目で見られて苦しでたんじゃないのか?」

 俺は、1番疑問だった部分を彼女に問いかけた。親が殺人鬼という、一生かけても巡り会えないような共通点があった競日。殺人鬼の娘だと周りからラベリングされることに苦しんでいたと言っていた。自分と同じ境遇だった。自分は殺人鬼なんかでは無いというのに、親のせいで恐ろしいものを見るような目で見られてしまう。俺をこんな状況にした父親が許せなかった。絶対にあいつと同じにはならないと誓った。彼女も同じなはずなのに。

 彼女は、俺の言葉の意味がよく分からないと言った様子で、キョトンとした顔で口を開いた。

「ええ。『お前も母親と同じように火刑に処されて死ぬのだ』と言われ続けて、うんざりしていましたよ。しかし、今となってはどうだっていいことです。ふふっ、だって、殺してしまえばもう、二度とそんな口は利けなくなりますもの。そうすれば楽になれるのです。」

 彼女は、1寸の曇りもない瞳でこちらを見つめ、そう言った。

 …ああ、そうか。俺は勝手に、彼女のことを理解したつもりになっていた。勝手に俺と同じ方向を見ていると思っていた。それは全て勘違いだったのだ。最初からずっと、噛み合っているようですれ違っていたのか。

「東海林 遥斗は私の理想です。私は、貴方がずっと自由でいられるように手を貸していたいだけなのです。貴方が私に教えてくれたように、今度は私が貴方を導いてみせます。」

 彼女は狂気を帯びた瞳でそう言った。彼女の視線は俺に向けられているはずなのに、どこか別の場所を見ているように焦点が合っていなかった。

「貴方は私を殺して、雄大な1歩を踏み出すのです!」

 彼女は狂ってる。彼女を殺さなければ、本当にこのまま俺が殺されてしまう確信があった。

 …俺が、やらなくては。

 そう覚悟を決めかけた、その時だった。

 ビシャンと大きな音が鳴り響き、ピカっと強い稲光が走った。それは文字通りの青天の霹靂だった。その一瞬、競日の視線が揺らぐ。俺の首元に向けられたナイフの刃先が揺れ、首の中心からずれた。

 今しかないと思った。俺は彼女の手に握られているナイフを思いっきり腕で弾き飛ばした。ナイフはカラカラと音を立てアスファルトの上を滑っていく。その出来事に、競日は眉を顰めた。すかさず俺は、自身の首にぶら下がっているネクタイの結び目を抑えながら勢いよく引っ張った。しゅるりと衣擦れの音を鳴らし、結び目を残したままネクタイが取れる。解いたネクタイを半分に折って両端を持ち、彼女の口に強くネクタイを押し付けた。即席の猿轡だ。

 彼女は何か言いたげに口を動かしているが、呻き声が漏れるのみだった。

「よくやったッス! 後は任せるッス!」

 そう声が聞こえたかと思うと、すぐに俺たちの周りを複数人の警察官が取り囲んだ。彼らは競日の四肢をそれぞれ抑えて拘束した。俺が持っていたネクタイも代わりに抑えてくれたので、俺は彼女の上から退いた。

 競日は、最初はばたばたと暴れて何かを呻いていたが、俺が退くと途端に静かになった。そして、どこか寂しげな瞳でこちらを見た。彼女の瞳をずっと見ているとなんだか気が狂いそうで、俺は彼女から視線を逸らした。

「東海林 遥斗少年! よく頑張ったッス! ナイフを当てられたままだと危なくて突入出来なかったッスからね。君がナイフを弾いたから逮捕できたッス! さすが西園寺少年の右腕ッス!」

 後ろからそんな声がしたかと思うと、肩にずっしりと重さがのしかかった。剛鐘刑事ががっつりと体重を乗せて肩を組んで来たのだ。

「剛鐘刑事…、どうして来てくれたんですか?」

「少し前に西園寺少年から電話があったッス! 電話越しに君たちの会話は全て聞いていたッス! 須藤 光を殺した犯人が競日マナって所までぜーんぶッス!」

 いつの間に電話を繋いでいたんだろう。もしかしたら、俺がナイフを取り出した時には既に電話を繋いでいたのかもしれない。

「わーっ! 血が出てるッス!」

 剛鐘刑事は、俺の耳元でこちらを指さしながらそう叫んだ。キンキンする耳に俺は目を細めながら、首元を指でなぞった。赤い血が少量指に付着した。どうやら知らない間に怪我をしてしまっていたようだ。

「西園寺少年も東海林少年も、念の為病院に送り届けるッス! 事情聴取はその後ッス!」

 彼女はそう言うと、俺の肩を組んだまま近くに止めてあったパトカーへと歩き出した。秀は別の警察官に抱き抱えられ、同じパトカーへと運ばれていく。

 剛鐘刑事に引っ張られて進みながら、俺はちらりと後ろを見た。競日は多くの警察官に四方を囲まれながら、背筋をぴんと伸ばして立っている。そのまま警察官に連れられ、別のパトカーへと搭乗した。

 …これで、よかったんだ。彼女は取り返しのつかないことをした。それを罰するのは、俺じゃない。

 俺と競日の間を切り裂くように、冷たく強い風がびゅんと横切った。


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