第五章 動乱
目が覚めたのは、それから数時間が経った後だった。部屋の中は薄暗く、窓から差す月明かりだけがぼんやりと照らしている。
少し意識がはっきりしてくると、枕元に置いてあったスマートフォンが明滅し、着信を知らせているのに気がついた。俺は寝ぼけ眼をこすりながら、ぼやける視界の中からスマホの画面にピントを合わせていく。
着信の相手は競日マナだった。その名前を見た瞬間、俺の頭ははっと冴え渡る。今日の昼にあった一連の出来事を思い出した。彼女から電話があったのは初めてだ。俺は寝起きで力が入りにくい指先をなんとか動かして、画面の応答ボタンをタップした。
『遥斗さん…っ! 遥斗さん、助けて…っ!』
端末越しに聞こえてきた競日の震え声に、身体の筋肉が一気に強ばった。
「競日!? どうした!?」
『今から、学校の時計塔に来ていただけませんか?』
そう言われ、俺はスマホで時間を確認する。時刻は二十時四十分。最終下校時刻は十九時半。生徒はとっくに下校していて、用がない限り学校に立ち入ることは出来ない時間だ。
『インターフォンは鳴らさず、門を飛び越えてこっそり来てください。』
「なんでこんな時間に…?」
『詳しい話しは後で話します。もうあまり時間が無いのです。』
「…分かった、すぐ行く。」
切羽詰まった様子の声をしていた。もしかしたら何か重大なトラブルがあったのかもしれない。幸い、帰宅してそのままベッドへと転がった俺は、制服を身に纏ったままだった。ベッド脇に放ったバックを手に取って、そのまますぐに家を飛び出した。
家から学校までは近い。急ぎ足で向かって、約五分。校門の前までたどり着いた。
こんな時間だ。勿論校門は施錠されている。本来なら、校門に付いているインターフォンを鳴らし、宿直の先生に開けて貰って入るべきだ。しかし俺は競日の指示通り、インターフォンを鳴らさず、門を飛び越えて校内へと侵入した。校門の高さはそれほど高くない。難無く越えることが出来た。警報か何かが鳴ってしまわないか不安だったが、特に何も無かった。
そのまま時計塔の方へと歩くと、月明かりに照らされた一人の人影が見えてきた。競日だ。彼女は俺に気がつくと、身体をこちらに向き直した。
「遥斗さん。こんな時間にお呼び立てしてしまってすみません。」
彼女は困り顔でそう言った。競日はいつも通りの制服姿。しかし一つだけ、いつもと違う。彼女の片耳には「つ」の形をしたピアスがきらりと輝いていた。
「それ…、」
そのピアスの存在が気になって、俺は自分の耳を指で触りながらそう言った。
「待ちきれなくて、付けてみちゃいました。」
「さすがに早すぎるんじゃないか? まだ安定してないだろ。」
「いいんです。…これを付けていると、遥斗さんに守られているような気がして落ち着くんです。」
競日はそう言ってにっこりと笑う。
…ずるい。そんな事を言われてしまっては、注意なんて出来なくなってしまう。
「それで…、こんな夜中に一体どうしたんだ?」
そう問いかけると、少し笑顔になっていた彼女の顔はまた曇ってしまう。
「…実は、この後二十一時、時計塔の最上階に来るように須藤さんに言われているのです。……来ないと、殺す、と…、脅されて…。」
来ないと殺す、だと? その言葉はさすがに一線を越えている。気軽に言っていい言葉では無い。そんな言葉で彼女をこんな表情にさせてしまうだなんて、須藤は本当に俺の神経を逆撫でるのが得意なようだ。
「須藤さんは、もう時計塔の中にいます。…でも、私、怖くて…っ」
「ああ、分かった。競日はここで待っていてくれ。俺が一人で須藤と話してくる。」
「ご迷惑をおかけしてしまってすみません。とっても頼りになります。」
競日は俺の手を両手で優しく握ると、にっこりと微笑んだ。彼女は俺を頼ってくれている。彼女の困り顔はもう見たくない。笑顔でいられるように守らなくては。
俺は、握られている方の反対の手で、彼女の手を更に覆って微笑み返した。お互いに包みあった手を名残惜しそうに離し、俺は時計塔の方へと振り返った。
…さて、一体どんな話しをすればうまく彼を納得させられるだろうか。そんな事を考えながら、時計塔の扉へと歩み寄る。
右手でドアノブを掴み、ゆっくりと押し回す。俺は競日の方を振り返って一瞥してから、扉の合間を縫って時計塔へと足を踏み入れた。
螺旋状になった階段を、一段飛ばしに登っていく。一度は登った事のある場所だ。高いところと言えど、そこまで怖くないことを知っている。
しばらく登り続け、やっと最上階が見えてきた。あの時と同じ、存在しないように見えるほどに綺麗に磨きあげられた大きな窓。そしてその窓のすぐ側に、須藤が立っていた。こちらの足音にはきづいているはずなのに、こちらに背中を向け、窓の外を見つめたまま、須藤はぴくりともしない。
「…須藤?」
彼らしくない様子に俺は少しだけ怖さを感じつつ、彼の名前を呼んだ。しかし、須藤の返事はない。こちらの問いかけが聞こえないほど、何か物思いに耽っているのだろうか。
聞こえていないなら、身体に触れて気づいてもらうしかないか。そう思い、俺は須藤の肩へと手を伸ばした。
指先が須藤の肩に触れそうになった、その時だった。俺の指先が須藤に届くよりも先に、須藤の体はふらっと前方へ倒れ込んだ。
そして、彼の体は、透明の窓があるはずのその場所を越え、時計塔の外へと投げ出される。その事に気が付いた俺は、倒れゆく須藤の体を掴もうと、必死で手を伸ばした。指先を曲げると、俺の手のひらは虚しく空を掴む。
それからしばらくして、どんっと何かが落ちる鈍い音が聞こえてきた。
……一体、何が起きたんだ…? 理解しがたい現実離れしたその出来事に、俺は足の力が抜けてその場にへたり込んだ。冷たい何かが背筋をかける。一瞬で体中からぶわっと汗が吹き出し、薄いシャツが肌にぴったりと吸いついた。大きな窓から風が吹き抜け、汗を冷やしてどんどん俺の体温を奪っていく。
須藤が、時計塔から落ちた? この高さから落ちたら、普通は…。にしても、彼はなぜ落ちた? 俺が突き落とした? いや、俺の指が届くよりも先に彼の体は倒れていった。俺は指一本たりとも彼に触れていない。というかそもそも何故、ここの扉が開いているんだ? 誰かが閉め忘れたのか?
「遥斗さん」
突然聞こえた声に、俺の体はびくっと大きく飛び跳ねた。
声の聞こえたほうを振り返ると、そこには競日がいた。
「助けてとは言いましたけど、まさか殺してしまわれるとは思いませんでした。」
彼女は、そういっていつも通りの笑顔でにっこりと笑った。
「ち…、違う! 俺は何もしていない! 俺の指が届くより前に、須藤はひとりでにここから落ちていったんだ! 信じてくれ!」
俺は必死でそう言って、腰が抜けたまま彼女の足元へ情けなく縋りついた。
彼女は恍惚とした笑みを浮かべながらこちらを見た後、手持ちのスマートフォンを数かい操作して、その画面をこちらへ向けた。
彼女のスマートフォンには、目を疑うような光景が映し出されていた。
時計塔の最上階。窓際にいる須藤に、俺が手を伸ばしている。そして須藤が時計塔から落下するまで、しっかりと動画としておさめられているのだ。
「時計塔の裏に肥料を運んでいただいたことがありましたね。その時、ここで煙草を吸って吸殻を落としている生徒がいると。その事を先生に相談いたしまして、犯人探しのために監視カメラを設置することになったんですよ。もちろん、この最上階に。この世界のカメラってすごいんですよ。スマートフォンのアプリを通じて、リアルタイムに映像を確認できてしまうんです。…遥斗さんは先ほど、自分はやっていないとおっしゃっていましたが…。この映像を他の方が見たら、どう思うでしょうね…?」
俺は頭の中が真っ白になった。確かに、指先が届くより前に須藤は落ちていった。しかし、この映像ではそこまで明確には確認できない。どう見ても、俺が須藤を突き落としているようにしか見えないのだ。
俺はもう何も言葉が出てこず、ただただ競日を見つめていた。
「ああ、そんな可哀そうな目でこちらを見ないでください。」
彼女は楽しそうに笑いながらそう言うと、腰をかがめ、倒れ込んだままの俺に目線を合わせた。
「私はなにも、遥斗さんを殺人犯として警察に突き出すつもりはありません。むしろ、その逆です。」
「逆…?」
「お忘れですか? この世界はゲームの世界で、私は外の世界より転生してやってきたのです。どのような行動を取ればあなたが助かるのか。私はルート分岐の条件全てを把握しているのです。あなたにとってこれ以上ないほどに必要なカードでしょう?」
競日はにやりと口の端を吊り上げながら、厭らしく笑った。
「ああ…、そういえばそうだった…。最近の乙女ゲームって、こんなバイオレンスな展開になるんだな…。」
「乙女ゲーム…? さて、何のことでしょう?」
競日は、心底何を言っているのかわからないといった様子で首を傾げた。…ああ、そういえば、この世界が乙女ゲームの世界かもしれないというのは、俺の勝手な憶測だったか。だとしたらこの世界は一体、どんなゲームの世界なんだろう。
「そういえば、ここが何のゲームの世界なのか、まだ言っていませんでしたね。」
まるで俺の心を読んだかのように、彼女は語り始めた。
「このゲームは、『元男子校連続殺人事件』というサスペンスゲームです。プレイヤーは、主人公である西園寺 秀となって、事件の真相を探っていきます。そして…、」
そこまで話し、彼女はまたにやにやと笑いながら、じっとこちらを見つめる。
「東海林 遥斗は、この事件の犯人…、殺人鬼です。」
俺が、殺人鬼?
"連続殺人事件"の犯人だって?
有り得ない。俺の幼少期を奪い、母親を死に追いやったあの忌々しい東海林 明仁と同じ道を辿るというのか?
息が苦しい。思うように呼吸が出来なくなって、俺は必死で息を吸おうと喘ぐ。しかし呼吸は余計に苦しくなり、自らの意思に反して、身体が勝手に細かく何度も息を吸って止まらなくなった。ひゅうひゅうと浅い呼吸が繰り返され、息苦しさで目尻に涙が浮かぶ。
涙でぼやけた視界の中、競日の顔がゆっくりと近づいて来くるのが見えた。彼女の暖かい手のひらが頬に触れる。くいっと顔を引き上げられ、反対の手で鼻を摘まれた。
そしてそのまま、彼女の顔が近づきー、彼女の唇は、俺の唇に優しく押し当てられた。柔らかい唇の感触に驚いて、呼吸をするのを忘れた。すると、次第に息苦しさが治まっていく。少しして、彼女は俺の鼻を抑えていた手をゆっくりと離した。解放された鼻から深く息を吸うと、砂糖菓子のような甘い香りが鼻腔を擽る。
人生で初めてのキス。しかも相手は競日マナだというのに、ぐちゃぐちゃに混ざりあった頭の中は何一つまともに考えることが出来なかった。どれくらいの間そうしていたかすら分からない程に。
やがて、彼女はゆっくりと顔を離し、こちらに向かってにっこりと微笑んだ。
「落ち着きましたか?」
とりあえず、呼吸の苦しさは治まったみたいだ。しかし、あまりにも受け入れ難い内容に、まだ頭がしっかり動いていないようだった。
そんな俺を、彼女はやさしく抱きしめた。
「遥斗さんの気持ち、よーく分かりますよ。犯人として捕まって処刑されてしまうのは嫌ですものね?」
競日はそう言いながら、子供をあやす様に、ぽんぽんと優しく手のひらで俺の背中を叩く。
「でも、安心してください。貴方の犯行が一生明るみになることがなく、一生捕まることなく、最期まで自分の思い通りに過ごすことが出来る。その方法を、私は知っています。」
この日のことさえ一生明るみにならなければ…。俺は殺人鬼になんてならず、いままでの生活に戻れるのだろうか。そんなズルいことを考えた。
「……俺は、どうすれば…、いいんだ?」
俺は、下を俯きながら小さな声で情けなくそう言った。
競日はまた、俺の顎を持って上を向かせる。競日と強制的に目線を合わせられる。彼女は、にっこりと笑って俺の方を見た。
「簡単な事です。西園寺 秀を、殺せば良いのです。」
…今日の競日はおかしい。なんでそんな事を、そんな笑顔で言えるんだ。簡単な事だなんて言えるんだ。有り得ない。今日はずっと有り得ないことばっかり続いてきたけど、こればっかりは理解できない。
「西園寺 秀…、つまり主人公の死、それは即ちバッドエンドです。この国の警察官は無能です。西園寺 秀がいなければ、貴方を捉えることは敵わない。殺すのに下手な小細工はいりません。ただ、西園寺 秀がいなくなりさえすれば、貴方は一生捕まることはない。自由を手に入れることが出来るのです。」
「……っ、そん……、な、こと…っ」
そんな事が出来るはずがない。そう言いたいのに、身体が震えて、思うように声がでない。
競日は、制服のポケットから細い円柱状の棒を取り出した。彼女がそれを両手で持ち、ぐっと片手を引き下げる。すると、その円柱状の棒の先から、きらりと光るナイフが露出した。競日は片手を引き上げ、ナイフの刃を仕舞うと、それを俺の手のひらにぎゅっと握らせた。
「貴方は十分、西園寺 秀に信頼されています。いつも通りを装って、隙を見て一刺しするだけでいい。」
俺は、競日に握らされたそのナイフに視線を落とす。
秀を殺せば…、俺はこの犯行が明るみになる事無く、一生捕まらずに生きていける…? でも秀は、東海林 明仁のことを知ってもなお俺と仲良くしてくれた唯一の人物だ。そんな人を、この手で殺すのか…?
そんなことをぐるぐると考えている俺を、競日はあやす様に優しく頭を撫でる。
「東海林 明仁は捕まってしまったから、周りの人間たちから殺人鬼と呼ばれました。しかし捕まりさえしなければ、貴方を殺人鬼と呼ぶ人は誰一人いません。だって、貴方が人を殺した事なんて誰も知らないのですから。」
競日のその言葉は、俺の中で張り詰めた何かの糸をぷつんと切っていく。
「…ああ、そうか。あいつは捕まったからいけなかったのか。」
東海林 明仁は、捕まったからいけなかったのだ。自分の犯行を隠し通し、誰にも知られず、何食わぬ顔で俺の父親として普通の家庭を築いていれば良かったのだ。そうすれば、俺の幼少期が奪われることも、母親が自殺することも無かった。東海林一家は幸せに暮らすことが出来たのだ。
「…今日のことは、誰にも知られる訳にはいかない。……絶対に、捕まる訳には、いかないんだ。」
俺は、自分自身に言い聞かせるように、強くそう言った。そんな俺の様子を見て、競日は両の口端を釣り上げてにっこりと笑っていた。
◆◇◆
ピピピピ…。いつも通りの目覚ましの音で目が覚める。昨日はほとんど寝付くことが出来ず、数分おきに起きるのを朝までずっと繰り返していた。こんな状況だというのに、不思議と身体はだるくない。眠さも感じず、むしろ冴えているような気さえする。
今日学校はおそらく相当な騒ぎになるだろう。その事を考えると腰が重くなる。このまま学校に行かずサボってしまいたい気分になる。けれど昨日、休むのは不自然だからいつも通りの時間に来るようにと競日から釘を刺されている。
俺はしぶしぶ重たい体を起こし、寝巻きから制服へ着替え、学校に行く準備をした。
学校まで歩く途中の様子からいつもと違った。家の外に出て何やら世間話をしている人達がやたらと多く、街がいつもより騒がしい。
学校に着くと、そこには大量のパトカーが停車していた。時計塔の辺りがどうなっているのかは、校門からは確認できない。
その様子に、生徒たちは校門前で立ち止まってザワザワと不安を口にしている。俺もそのままそこで立ち止まって呆けていると、一人の女性警察官がこちらへ近づいてきた。
「いいッスか、こっからこの道だけを通って、それぞれ自分の教室へ行くッス。絶対他の場所に寄り道しちゃダメッス。詳しいことは後で担任の先生から説明してもらうッスから、今は大人しく従って欲しいッス。」
女性警察官が真剣な面持ちでそう言うと、生徒たちはお互い顔を見合わせ、素直に昇降口の方へと歩き始めた。校門から昇降口までの道には数人の警察官がいて、どこかに寄り道しようものなら止められてしまうだろう。俺も、前を行く生徒たちに続き、黙って自分のクラスへと歩いた。
自分の教室へ行くと、既に多くのクラスメイト達が集まっていた。
教室の中はお通夜ムードだった。須藤と仲の良かったサッカー部の面々は、彼の席の付近で顔を伏せていた。…この様子だとどうやらクラスメイト達は、誰に何が起きたのかを既に知っているようだった。
俺は顔を伏せがちにして、足音を立てないようにゆっくりと歩いて自分の席へ座った。
隣の席には競日がいる。俺の視線に気がついたのか、彼女もこちらを振り向いて目が合った。彼女は、俺に向かってにっこりと微笑みかけた。俺は、うまく笑顔を返すことが出来なかった。
しばらくして、担任が教室へと入ってきた。担任が須藤の死を告げると、クラスメイト達は押し黙った。静かな空間の中、数人が鼻をすする音が響いていた。
「……なんでだよ。一緒に全国行こうって言ったじゃんか。なぁ……!」
静かな教室で、1人のクラスメイトが声を上げた。声を上ずらせ、震えながら叫ぶその声は耐えられないほどに痛々しいものだった。
声を上げた男の名は荒間 颯。須藤と同じサッカー部に所属していて、仲が良く、よくつるんでいた。
彼の一言を皮切りに、クラスメイト達は次々に声を上げ始めた。中には咽び泣くような声もあった。その光景に担任も我慢が出来なくなったらしく、ハンカチを取り出して目元を抑えた。
そんな中、教室の扉ががらりと開く。先程校門前で会った女性警察官だ。警察官の存在に気がついた荒間は、彼女に向かって叫ぶ。
「光は…! 光は、なんで死んだんですか!! アイツは、自殺するような奴なんかじゃないはずです…!」
泣きながらそう叫ぶ荒間に、警察官は顔色を曇らせた。
「詳しくはまだ分からないッスが…、"事故"の可能性が高いんじゃないかって話しになってるッス。ただ、まだ自殺や他殺の線も完全には捨てきれていなくて…、」
警察官が言い終わるより前に、荒間は喋り始めた。
「他殺…? 他殺だって? 光を殺したやつがいるかもしれないって事か!?」
「落ち着いてくださいッス。まだ捜査はほとんど進んでないッス、だから可能性が捨てきれないと言ったまでッス。」
「落ち着いてられるかよ…っ! 親友が死んだっていうのに…!」
須藤とつるんでいたメンツの中でも、荒間と須藤はより仲が良かったらしい。親友と呼ぶほどの存在を失えば、冷静さを保っては居られないだろう。
「須藤くんの死の真相を解き明かすためにも、二年A組の皆さんには事情聴取に協力して欲しいッス。出席番号一番の方から順番に、別室で少しお話しさせて欲しいッス。」
警察官の言葉に、荒間はガっと椅子を引いて立ち上がった。
「出席番号一番、荒間 颯です。光のためならいくらでも協力します。」
「協力感謝するッス」
そうして荒間は警察官に連れられ、教室を出ていった。
残る俺たちは、自分の番が来るまでここで待機することになるのだろう。
荒間が出ていったあとの教室はザワついていた。『他殺かもしれない』という言葉は、思っていたよりみんなを困惑させている様だった。
…にしても、警察は"事故の可能性が高い"と踏んでいるらしい。案外、何もしなくても俺の犯行がバレることは無いんじゃないか…? そう思うと、少しだけ心の中に余裕が生まれた気がした。
ふと思い立って、俺は教室を見渡す。
秀がいない。他の事件の手伝いで学校に来ていない? それとも、今この事件の捜査を手伝っているのか?
今この事件の捜査を手伝っているのだとしたら…、事故だと結論づけようとした警察に対して余計なことを行ったりしないだろうか。そう思うとまた、不安が心をもやもやと覆い尽くした。
そうこう考えているうちに、取り調べはあっという間に俺の番になった。1つ前の出席番号のクラスメイトに呼ばれ、警察官の待っている一番端の教室へと向かう。その教室は皮肉にも、昨日須藤と話したあの空き教室だった。
がらりと扉を開くと、教室の中央には先程の女性警察官が座っていた。その警察官は、外ハネショートカットの黒髪に、グレーのパンツスーツを身にまとっている。キリッとしていながらも元気な印象の女性だ。
「東海林 遥斗くんッスね、どうぞこちらへ座ってくださいッス。」
俺は言われるまま、彼女の目の前の席へと腰掛けた。
彼女はスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出し、こちらに提示した。
「事情聴取を担当させていだく、警視庁刑事課の剛鐘 叶恵ッス。よろしくッス。」
剛鐘…? 剛鐘刑事って確か、秀が犯人に逆上された時に彼を守ったっていう、あの刑事か?
話しだけを聞いていて、勝手に剛鐘刑事を男性だと思い込んでしまっていた。まさか、こんなに小柄で細身な女性警察官だったとは思いもしなかった。
一体、何を聞かれるんだろう。昨日の夜何をしていたか? アリバイってやつか? …やばい、どうしよう。何も考えていなかった。緊張と焦りで刑事の方を見ることが出来ず、俺は俯いた。
「…辛いッスよね。」
俺のその様子を見て、須藤の死を悲しんでいると勘違いしたらしい彼女は、そう言った。
「明日から、この学校には複数人のカウンセラーさんに常駐してもらうように手配を進めてるッス。苦しかったら、いつでも大人を頼るッスよ。」
剛鐘刑事の優しい言葉に、俺はキリッとひどく胸が傷んだ。
「須藤くんとは、仲が良かったんスか?」
「…いえ、そんなに。俺はあんまり、彼と話すことは無かったです。仲が悪かった訳ではないですけど、特に話す機会も無くて…。」
俺は下を俯いたままそう言った。嘘はついていない。競日との一件がなければ、俺と須藤は交わることは無かったのだ。
「クラスの中には一人や二人、そういう人もいるッスよね。普段あんまり関わらない人でも、クラスメイトがいなくなるってショックが大きいことッスよね。」
剛鐘刑事は優しい瞳でこちらを見てそう言った。事情聴取とカウンセリングが半々になったような、優しく寄り添う言葉を選んでくれているようだ。
「じゃあ、須藤くんが何か思い悩んでいる事があったとか、いじめに合っているような様子があったとか、そういう事は知らないッスか?」
「悩んでいる事は知らないです。ちゃんと話した事は無かったので…。ただ、いじめに合っているとか、そういうのはないと思います。須藤はどちらかと言うと人気者で、クラスの中心にいるような人物でした。」
「なるほど。二年A組のみんな、だいたい同じ事を言ってるッス。人気者だったんスね。」
剛鐘刑事は、そう言って悲しそうに笑った。
その時、突然がらりと扉が開く音がしたて、俺はその扉の方を振り返る。扉の方には黒いスーツを身に纏った、小太りで中年の男性がいた。先生ではないからおそらく警察官だろう。
「剛鐘警部、事情聴取は済みましたかな?」
剛鐘"警部"…!? かなり若そうに見えるのに警部とは、自分が想定していたよりも随分と出世頭らしい。
「いえ、あと半分くらいッスね。そっちはどうッスか?」
「こっちはほとんど終わりました。須藤 光は事故死でほぼ確定でしょう。」
「そうなんスか? 西園寺少年は、事故死にしては不審な点が多すぎるって話しを…、」
剛鐘刑事がそう言うと、まだ話している途中だったにも関わらず男は被せて話し始めた。
「はっ。お言葉ですが警部、あんな高校生に何が分かると言うのです。確かに彼は、いくつか不審な点を挙げていました。しかしそれは些細な事。事故死でないという証拠にはなり得ません。」
「事故死でないという証拠にはならないけど、事故死である証拠もないんスよね? 断定するにはまだ早いんじゃないッスか? 西園寺少年の話しはちゃんと聞いたんスか?」
剛鐘刑事がそう言うと、刑事の男はやれやれと言った様子で量の手のひらを広げ、相手を見下しているような鼻につく態度で口を開いた。
「あのねぇ、剛鐘警部。学校で起きる事件なんて、だいたいパターンが決まっているんですよ。……まぁ、学歴だけで警部になった現場経験の浅い貴女には、理解できないかもしれませんがねぇ?」
警察の内部事情がどんな風になっているかなんてよく分からないけど、嫌味を言っているという事だけはなんとなく分かった。
「そうッスね、アタシ現場経験浅いんでぇ、その辺よく分からないッス! だけどこの現場の指揮を執ってるのはアタシなんで。アタシが納得するような話し持ってきてくんないッスか?」
剛鐘刑事は手馴れた様子で、全くへこたれることなく強気にそう返した。
「…えぇ、もちろんです、警部。」
刑事の男はにっこりと笑い、そのままバタンとわざと大きな音を立てて扉を閉めた。
「チッ! 温室育ちのボンボンが偉そうに…! キャリア組は黙って書類仕事だけしてろっつーの!」
扉の向こうで、男がそう言う声がはっきりと聞こえた。そんな声量で言えば、この薄い扉の向こう側に聞こえないはずが無い。男もそれを分かっていて、わざと聞こえるように零しているんだろう。剛鐘刑事より一回りは年上であろうに、随分と大人気ない人だ。
「…変なところ見せちゃって悪かったッスね!」
剛鐘刑事は俺の方に向き直るとにっこりと気丈に笑った。
「こっちから聞きたい事は全部聞いたッス。東海林くんから何か聞きたいこととか、言っておきたいこととかあるッスか?」
「いえ、特に…。」
「なら、事情聴取はおしまいッス。ご協力いただき感謝ッス!」
事情聴取と言っても本当に簡易的なものだったな。昨日の夜について全く何も聞かれなかった。どちらかというといじめなどの自殺の線を疑っているのだろうということがよく分かる。
俺はぺこりと刑事に向かって一礼し、そのまま教室を後にした。
自分の教室に戻り、本を読みながら長い時間を過ごした。
やがて最後の一人の事情聴取が終わると、担任が教室へやってきた。
今日は事情聴取が終わったクラスから解散らしい。寄り道せずまっすぐ帰宅するようにと念を押された。
普段なら、誰かからは"これからどこへ遊びに行こうか"と浮き足立った会話が聞こえて来そうなくらいに早い時間の帰宅だが、誰1人そんな事を言う人はいなかった。静かなまま、全員が黙って教室を去っていった。
悲しむみんなの顔を見ているのはなんとなく辛かった。だから俺は、みんなが教室を去ってしばらくしてから教室を出た。クラスメイトたちの悲しい背中を見なくてすむように。
…しかし、俺はすぐにこの判断を後悔することになる。
昇降口を出て、校門まで歩く途中。俺は運悪く、ばったりと西園寺 秀と鉢合わせた。殺人犯である俺が、探偵の彼と合わせる顔など持ち合わせていない。俺はなんとなく彼から視線を逸らしてしまう。
「遥斗」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼は俺の名を呼んで話しかけてきた。
声をかけられてしまっては、気が付かなかったフリをして通り抜けることは出来ない。俺は仕方なく秀に視線を合わせた。
「昨日は悪かったよ。確たる証拠もないのに、僕の勘だけでひどい事を言ってしまったね。本当にごめん。」
「ああ…、いや…、俺こそ、言い過ぎた。ごめん。」
ああ、そういえば昨日、彼と喧嘩をしたんだった。すっかり忘れていた。
普段通り、普段通り。そう思えば思うほど、普段彼とどう話していたのかが分からなくなってくる。
ずっと彼の顔を見れないでいると、秀はぐっと俺の下に潜り込み、顔を覗き込んできた。秀と目が合う。彼の瞳を見つめていると、まるで全てを見透かされているかのような錯覚を覚えた。居心地が悪い。目を逸らしたい。けれど逸らせば何か疑われてしまいそうで逸らせない。
そうしていると、秀は突然俺のこめかみに手を伸ばした。
「心拍数が上がっているね。少し汗もかいているし、瞳も揺れている。体調でも悪いのかい?」
秀は少し心配そうに眉尻を下げながらそう言った。そんな心配したふりをしながら、全てを知った上で俺に鎌をかけているんじゃないか。そんな事を思ってしまう。
「…昨日あんな喧嘩をしたばっかりなんだ。正直、どんな顔をすればいいか分からなかったんだよ。」
「…ま、それもそうか。実際僕も、今日君に声をかけるのは勇気が必要だったしね。でも、せっかく友達になれたのに、このまま仲違いしてしまうのは嫌だったんだ。これからも僕と仲良くしてくれるかい?」
秀はそう言って、こちらに片手を差し出した。
「あ、あぁ…、もちろん。」
俺はそう言って、彼の手を取って握手をした。
…しまった。彼に怒ったフリをして、険悪な関係を続けていた方が良かったか? 彼の傍にいると、知らぬ間にボロが出てしまいそうだ。
でも…、彼を殺すなら、友達のまま油断をさせた方がきっと好都合だ。そうだ。俺は、西園寺 秀を殺さなくてはならないのだ。俺と友達じゃなくなってしまうのは嫌だったからと謝ってくれた、この西園寺 秀を。
今日改めて秀を目の前にしてみると、彼を殺すだなんて考えるのも嫌なほどだった。それでもやらなくては…、俺は須藤殺しを暴かれ、東海林 明仁と同じ道を辿ることになってしまう。それだけは絶対に嫌だ。覚悟を決めなければ。そうは思いつつも決めきれないまま、ずっとそのことだけが頭の中を反芻する。
「あっ、西園寺少年! お疲れ様ッス~!」
そうこうしていると、背後から聞き馴染みのある声が聞こえてきた。剛鐘刑事だ。
「剛鐘刑事。お疲れ様です。」
「まさか、いつも捜査に協力してもらってる西園寺少年の学校でこんな事件が起きちゃうなんて…。大丈夫ッスか? 辛くないッスか? 辛かったら、今回は無理して協力しなくても大丈夫ッスよ?」
「お気遣いありがとうございます。全く辛くないと言えば嘘になりますが…。僕が協力を断れば、この1件は事故死として処理されてしまうでしょう。ですが、僕は今回これは他殺なんじゃないかと疑っているんです。」
どくん、と大きく心臓が跳ねる。
…やっぱり、そうなるのか。警察はこの一件を事故死と見ている。しかし秀はなんらかの違和感に気がついている。俺の犯行を明るみに出来るのは秀だけ。秀さえいなければ俺の犯行が明るみにならないという競日の言葉が、俺の中で説得力を増してきていた。
「なるほど。西園寺少年の名推理、今回もアタシに聞かせてくれないッスか?」
「いいですよ。それでは、今から時計塔に向かいましょう。…そうだ、もし良かったら遥斗も一緒に来てくれないか? せっかくだし、君の意見も聞いてみたいな。」
秀がそう言うと、剛鐘刑事もこちらを向いた。
「君は、東海林 遥斗くんッスね! 西園寺少年のお友達ッスか?」
「はい。」
「本来なら、生徒はまっすぐ返すのがルールッスけど…、西園寺少年の友達なら特別ッス! 同行を許可するッス!」
剛鐘刑事はそう言うと、俺の意見を聞く間もなく、俺と秀の手を掴んで時計塔の方へと歩き始めた。
犯人である俺が、刑事と探偵に連れられて犯行現場へ赴くなんて…。出来れば何か理由をつけて帰ってしまいたかったが、本来学校に来て授業を受けているはずのこの時間に予定などあるはずはなく、上手い言い訳は見つからなかった。
俺はどぎまぎしつつも、連れられるままに時計塔まで歩いていった。
時計塔に着くと、そこには複数人の警察官と、その警察官たちに囲まれている一人の男がいた。なにやら揉めている様子だ。
「そっ、そんな…! 私は絶対に窓を閉めました…! 信じてください!」
「だからさ、何度も言ってるだろじいさん。あんたは窓を閉め忘れたことを忘れちまってるんだって。」
「そんな…!」
警察官に囲まれている男は、推定七十歳前後のお爺さんだ。彼の事は見覚えがある。よく学校内を掃除してくれている用務員さんだ。
「どうかしたんスか?」
剛鐘刑事がそう声をかけると、警察官たちは体をこちらに向けて、そのうちの一人が何やら勝ち誇ったような顔をして口を開いた。
「剛鐘警部。今回の事件は、清掃用務員の彼、建代 祥吾の不注意によって起きた悲しい事故でした。私たちの推理を聞いていただけますね?」
「話してみるッス。」
「詳しい話しは、時計塔の最上階に登った方が説明しやすいです。一度最上階まで登りましょう。」
警察官は自信ありげな顔でそう言った。その警官と建代さん、剛鐘刑事と秀と俺の合計五人が時計塔の最上階へと登った。
最上階は、もはやよく見た光景だ。床から天井まで続く大きな窓。今は開いたままになっているが、誤って落ちないようにロープが貼られている。
「最上階は、このように大きく開放的な窓があります。それも、先生や生徒に話しを聞いたところ、この窓はいつも『窓がないと錯覚してしまうほどにピカピカに磨かれている』との事でした。そうですよね、建代さん?」
「いやぁ、そんなに褒められると照れちゃうねぇ。」
建代さんは頭に片手を当てて、鼻の下を伸ばしながらそう言った。
「それほどまでにピカピカということはもちろん、窓はいつも両面を拭いておられたのでしょう?」
「ええ、もちろん。いつもこの窓を開けて、ここから半分身を乗り出しながら、窓の裏側もきっちりと拭いていたさ。毎日十五時きっかりにここを掃除するのがルーティーンだからねぇ。」
この窓から身を乗り出して裏側を拭くだって…? 高所恐怖症の俺からすると、聞いているだけで漏らしてしまいそうなほど怖い話だ。
「建代さんは十五時にここの掃除をした後、窓を閉め忘れてしまった。その後時計塔にやってきた須藤 光は、いつも通りここには見えない窓があるものだと思い込んでいた。窓があると思い込みもたれかかったところ、落下してしまった…。」
「でも、刑事さん! 私が掃除した後に来た誰かが窓を開けて閉め忘れちゃったのかもしれないでしょ? 私のせいだとは限らないんじゃ…、」
「それは有り得ないんですよ。なぜなら、窓枠には指紋がひとつもなく綺麗な状態でしたから。掃除の後に誰かが開けたなら、窓枠にその人の指紋が付着しているはずでしょう。」
推理を披露した警察官はドヤ顔でこちらを見渡した。
「須藤 光は、なんで時計塔に来たんスかね?」
「美化委員の顧問をしていた先生から聞いたのですが、最近この時計塔の窓の下のアスファルトにタバコの吸殻が落ちている事があったそうです。きっと、喫煙の犯人は須藤 光だったんですよ。」
「なるほど~。筋は通ってるように聞こえるッスね。」
剛鐘刑事は右手を顎にあて、何度かふむふむと小さく頷いたあと、秀の方へと視線をやった。
「それでも、西園寺少年は他殺だと見立ててるんスよね?」
「はい。彼の推理が正しくないことは、今から僕が説明して差し上げましょう。」
秀がそう言うと、推理を披露した警察官は眉間をぴくんと揺らした。
「随分自信があるみたいじゃねぇか。なら早速、探偵王子のお手並み拝見といこうか。」
「良いでしょう。ですがその前に、剛鐘刑事。下にいる警察官の誰かに、一年C組の瀬戸 萌花という生徒をここに連れてくるよう、指示していただけませんか?」
「了解ッス。1年の事情聴取は1番後回しにしてあるッスから、その生徒はまだ学校内にいるはずッス。すぐに連れてくるように指示するッス!」
剛鐘刑事はそう言って、スマホを取り出してすぐに電話をかけた。彼女が電話先の相手に瀬戸 萌花を連れてくるように指示すると、相手は二つ返事を返した。
「じきに到着するはずッス!」
「ありがとうございます。では早速ですが、事故であるという先程の推理について、いくつか僕の見解をお話しさせていただきます。」
秀は、いつも通りの王子様のような笑みを携えながらそう言った。
「まず、須藤 光という人物について。僕は一年の頃から彼と同じクラスだったので、彼の人となりはある程度理解しているつもりです。いつも明るく、人の輪の中心にいる人物でした。勉学の成績はあまり良くなく、やや不真面目な傾向がありました。」
「なら、隠れてタバコを吸っていてもおかしくないってワケだ。」
「いいえ、そうとは限りません。彼は勉強に対しては不真面目でしたが、部活動のサッカーに対しては真剣に取り組んでいました。一年からスタメンに選ばれるほどの実力も持っています。スポーツマンである彼が隠れて喫煙をするのは、僕のプロファイルには合いません。」
秀の言葉に、刑事は悔しそうに眉を顰めた。
「それから…、この最上階には、いくつか不可解な点があります。こちらを見てください。」
秀は天井を指さした。俺たち一同は、秀の指さす方向を見上げた。
「梁か? これの何が不可解だって言うんだ?」
「梁をよく見てください。上側のところに、細い線がのような跡があるでしょう? 僕と、ここにいる遥斗は、事件の前々日にこの時計塔の最上階へと登っています。その時、この梁にこんな傷はありませんでした。」
梁をよく観察してみると、彼の言うとおり確かに何か細い線のような跡があった。前々日に登った時にこれがあったかどうかは、正直そこまで見ていなかった。さすが探偵王子と言われるだけはある、普段から観察眼が優れているようだ。
「それともう一つ。この大きな窓の、ちょうど向かい側にある、あの小窓のすぐ下。何かがぶつかって抉れたような窪みが複数個あります。これも、前々日にはなかった跡です。」
秀が差したほうを見ると、確かに小窓のすぐ下あたりにいくつもの窪みが出来ていた。これは確かに、前々日には無かった気がする。
「それと、ここで見ることは出来ませんが須藤の遺体にも一点、彼の脇の下と胸の辺りに、細い線状の跡がいくつか付いていました。」
「…それで、それが一体なんだって言うんだ?」
「いえ、ただ『不可解だ』と思っただけです。さっぱり何も分かりません。」
「なんだそれ。というか、須藤 光のプロファイルだって、西園寺くんの勝手な予想だろう? これが事故ではないという証明にはならないじゃねぇか。」
「ええ、確かにそうですね。では、そろそろ決定的なところついてお話ししましょうか。…時に、剛鐘警部。ここの窓は、もう閉めても大丈夫でしょうか?」
「一通り捜査は終わったみたいッスし、危ないからむしろ閉めた方がいいッスね!」
剛鐘刑事はそう言って窓に近づき、そこを閉じた。その後建代さんが窓枠を触り、カチッと窓が施錠された音がした。
「それでは、一旦一番下まで降りましょうか。」
秀の言葉に従い、俺たちは剛鐘刑事を先頭に階段を降りていく。
長い長い階段を降り、やっとのこと一番下までたどり着いた剛鐘刑事は、時計塔の扉のドアノブへと手をかけた。ドアノブを捻り、軽く手前に引く。ドアが開かず、反対に奥へと押してみる。しかし扉は開かない。
「ぬぬっ!? 誰か外側から鍵を閉めたッスか!?」
剛鐘刑事は、外側の人に訴えるように、どんどんと拳をぶつけてドアを叩く。
「いいえ、鍵は閉まっていませんよ。剛鐘刑事、力いっぱいに扉を引いてください。」
秀にそう言われ、剛鐘刑事は扉を引いた。ノブを両手で掴み、片足を壁について思いっきり後ろに体重を倒す。少し扉が開くと、扉は一気に全開まで開いた。
「開いたッス~! でもなんで、入る時はあんなに扉が軽かったのに、出る時はこんなに扉が重たくなっちゃったんスか?」
「この建物は、とても気密性が高い。最上階の窓が閉まると建物内の気圧が下がり、この扉がとても重たくなってしまうんです。」
秀がそう言うと、用務員の建代さんはうんうんと大きく頷いた。
「そうそう、そうなんですよ。毎回ここに入るのは大変でねぇ。だからこそ、出る時に扉が軽かったら絶対に自分で気がつくはずなんです。」
「って言うけどなぁ。じいさんが忘れている可能性だってあるからなぁ。」
「建代さん一人だけの証言ならそうでしょう。しかし、ここの扉が重たかったと証言する人がもう一人いれば、窓は閉められていたといえるのではないでしょうか?」
秀がそう言うと、まるでタイミングを見計らったかのように一人の生徒が警察官に連れられてやって来た。
「剛鐘警部、瀬戸 萌花さんを連れてきました。」
「ご苦労ッス!」
警察官は敬礼し、それだけ言うとすぐに後者の方へと戻っていった。
警察官に連れられてきた瀬戸 萌花という女子生徒は、ストレートの長い黒髪の間から鋭い目付きでこちらを睨んできている。短すぎるスカート、くるぶしまでしかないソックス、ノーネクタイではだけた胸元と、ガンを飛ばしてきている表情も相まって怖そうな印象を受けた。
「…いきなりこんな所呼び出して、なんの用だよ。あたしを疑ってんのか!? あぁ!?」
口を開いても第一印象通り。ヤンキー風の口ぶりだ。
そんな彼女の態度にも屈せず、秀はにっこりと彼女に笑いかけた。
「君だろう? いつも時計塔の最上階で喫煙をして、吸殻を窓から捨てているのは。」
「はぁ…っ!? な、なんでだよ…っ!」
わかりやすすきるほどに動揺した様子で、彼女は上下左右に目を泳がせながらそう言った。
「別に、推理も何もないさ。いつも十七時過ぎに時計塔に出入りする所を目撃していたし、それ以降に君とすれ違うといつも煙草の匂いがしたからね。煙草の匂いは、喫煙者が思っている倍強い。気がついているのは僕だけじゃないだろう。」
「~っ! 証拠でもあんのかよっ!」
「刑事に依頼して、落ちていた吸殻のDNA鑑定をしたんだ。見事、君のDNAと一致したよ。」
「チッ…。警察の力なんて借りやがって…。」
吸殻のDNA鑑定だなんて、いつの間にそこまで手を回していたんだろう。そう感心していると、秀は俺の元へ近づいて、こちらにこっそりと耳打ちをした。
『DNA鑑定なんてのはハッタリさ。引っかかってくれてラッキーだね。』
彼は俺にだけ聞こえるようにそう言うと、ぱちりとウインクをした。…なるほど、そういう手段もあるのか。覚えておこう。
「それでなんだ? あたしを未成年喫煙でしょっぴこうってのか?」
「いや、悪いけど今はそんなことはどうでもいいんだ。昨日の十七時、君はいつも通りここに来て煙草を吸っているね? いつも通りの場所に吸殻が落ちている。」
「ああ。悪ぃかよ。」
「その時、何かいつもと変わった事は無かったかい? 例えば、時計の扉が軽かったとか。」
「いや、特に…? 時計塔の扉が軽かったことなんてねぇし、軽かったらぜってぇ気がつくけどな。別にいつも通りだったよ。」
瀬戸さんがそう言うと、秀はドヤ顔で刑事のほうを見た。しかし、なにやら刑事も得意げな様子だ。
「分かった分かった。建代のじいさんは窓を閉めてた、間違いねぇ。ただし嬢ちゃんは、最上階でタバコを吸って、あの窓を開けて吸殻を捨てたんだろ? なら、あの窓を閉め忘れたのは嬢ちゃんってワケだ。」
「僕はその可能性も低いと思っています。なぜなら、あの窓の窓枠には『指紋がついていなかった』からです。建代さんが閉め忘れたのであれば、掃除をした後ですから納得です。しかし、瀬戸さんが閉め忘れたのであれば、窓枠には『指紋が付いていなければおかしい』んですよ。」
「未成年喫煙を隠すために、嬢ちゃんが指紋を拭き取ったんじゃねぇのか?」
「だとしたら尚更、閉め忘れるのはおかしいです。それと、喫煙を隠すために窓の指紋を拭くような人は、一番の証拠となる吸殻を捨てっぱなしにするなんて馬鹿な真似はしませんよ。」
「うぐ…」
秀の説明に、刑事はとうとう何も言えなくなり、悔しそうに口を窄めて黙り込んだ。
「つまり犯人は十七時以降、瀬戸さんが出たあとにこの時計塔に入り、窓を開け、窓枠の指紋を丁寧に拭いている。…どうでしょう、事故というには些か不可解だと思いませんか?」
秀がそう言うと、剛鐘刑事はぱちぱちと大きな音で手を鳴らし、大袈裟に拍手をした。
「さっすが西園寺少年、探偵王子の名は伊達じゃないッス! これは他殺の線を含めて捜査を続けるべきッス!」
「ま、確かに西園寺くんの推理には一理あったかな。まだ他殺で確定ではねぇけど、もう少しそっちの線で捜査してみっかー。」
事故説を掲げていた刑事は、そう言うと校舎の方へと去っていった。これから捜査を再開するのだろうか。なんとなく、刑事は事故説について頑固に拘っているものだと思っていた。この刑事は、ちゃんと秀の推理に納得したみたいだ。聞く耳を持たない様子だったのは、俺の事情聴取中に乱入してきたあの小太りの刑事だけか。ほかの刑事は案外、悪いやつじゃないのかもしれない。
…なんて言っている場合じゃない。事故死で片付けられれば楽だったのに、この推理ショーのせいで他殺路線で捜査されることになってしまった。
にしても…。そういえばなんであの時、窓が開いていたんだ? なんであの時、須藤は開いた窓の目の前に立っていたんだろう? あの日は気にも止めなかったが、あの時時計塔の扉は軽かった。つまり、俺が時計塔に入ろうとした時には既に最上階の窓は開かれていたということになる。突き落とした犯人は自分なのに、何故あんな状況になっていたのかは俺もよく分かっていないな。
「剛鐘刑事。この後、昨日宿直担当だった先生に事情聴取に伺いたいのですが。」
秀は剛鐘刑事に近寄り、そう声をかけた。
「昨日の宿直担当、斎藤 一花先生っスね! 付き添ってあげたい気持ちはやまやまなんスけど、他の部下の様子も見に行かなきゃいけなくてちょっと忙しいんスよねぇ…。」
剛鐘刑事はそういって、顎に手を当てて困った様子でうーんと唸った。
そういえば、前に秀が話していたっけ。過去に逆上されて危ない目にあったことがあって、一人で関係者に事情聴取をすることは禁止されているって。
「それなら大丈夫です。用心棒を一人連れていく予定ですから。」
秀はそういうと、俺の腕を掴み、彼のほうにぐっと引き寄せた。
「用心棒って…、高校生じゃないっスか。」
「でも、一人より二人のほうが安全でしょう? それに、彼は僕と違ってそこそこ鍛えていて、格闘技の心得もあるんですよ。」
「ふ~ん……」
剛鐘刑事は、俺のことを値踏みするように、頭のてっぺんから足の先まで嘗め回すようにじっくりと観察した。
「…ま、話を聞くのはこの学校の人とだけっていうなら許可するっス。でも、危ない雰囲気を少しでも感じたら連絡するっスよ。ワンコールで切っても飛んでいくっス!」
剛鐘刑事がそう言い終わると、遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえた。彼女は「検討を祈るっス!」とだけ言い残すと、声の主のほうへと全力疾走で駆けていった。
「それじゃあ、斎藤先生の元へ向かおうか。」
秀はそう言ってこちらに微笑み、校舎の方へと歩いていく。
もうこうなってしまっては仕方ない。このまま最後まで彼の捜査に付き合うしかなさそうだ。
校舎に入り、まっすぐ職員室へと向かった。
職員室の前にたどり着くと、ちょうど俺たち二年A組の担任の先生が職員室から出てきたところだった。
「先生。」
「ああ、西園寺。今日も捜査の手伝いか?」
「ええ。斎藤 一花先生に用事があるのですが、呼んでいただけませんか?」
「斎藤先生ならちょうど職員室にいる。職員室にいるのは斎藤先生だけだから、中に入って話すといい。」
「わかりました。ありがとうございます。」
一通り会話を終えると、担任は足早にどこかへと去っていった。
彼は二年A組の担任。つまり、須藤の担任の先生なのだ。俺たちでは想像できないほどの対応に追われていることだろう。
そんな担任を後目に、秀はコンコンと職員室の扉を二度ノックし、中へと入っていく。俺も彼の後に続いた。
職員室の中は閑散としていた。その中に一人、席に座って事務作業をする先生が一人。俺たちはその先生の方へと歩いて行った。
「斎藤 一花先生ですか?」
秀がそう声をかけると、先生はこちらを振り向いた。肩まで伸びた黒色の髪に、大きく丸いピンクブラウンの眼鏡。ペールピンクのカーディガンを羽織った小柄な女性で、年齢は三十くらいだろうか。穏やかで優しそうな雰囲気の先生だ。
「ええ。貴方は…、」
「二年A組の西園寺 秀です。時々探偵として、警察の捜査の手伝いをさせていただいています。」
「ああ、例の。噂はよく聞いているわ。素晴らしい推理力を持っているんだってね。」
「そんな、大層な者じゃありませんよ。」
「私が昨日の宿直担当だったから話を聞きに来たのかしら? 協力するわ。なんだって聞いてちょうだい。」
斎藤先生はそう言ってこちらににっこりと笑いかけた。どうやらスムーズに話が聞けそうだ。
「昨日の夜、斎藤先生以外の先生は何時ごろまで学校にいたんですか?」
「そうねぇ。昨日はちょうど、月に一度の『ノー残業デー』だったのよ。…まぁノー残業といいつつ部活動が十九時まであるから、十九時半まではみんな残業してるんだけどね。十九時半になったら必ず帰るって決まってるの。十九時四十五分に職員室を施錠したから、その時間にはもうみんな帰っていたわね。」
「へぇ。学校の先生にもノー残業デーなんてものがあるんですね。」
「って言ったって形だけよ。その日早く帰ることができたって、溜まっている仕事が消えるわけじゃないもの。みんな、学校から帰って家で仕事してんのよ。ノー残業デーなんて名前はやめて、仕事お持ち帰りデーに変更したほうがいいくらいよ。」
斎藤先生は少し早口にそう言って、小さくため息をこぼした。大人の世界って大変だなぁ。
「…って、生徒に愚痴を零しちゃいけないわね。ごめんなさい。…つまり、十九時四十五分の時点で、この学校には私以外の先生や用務員は誰一人いなかったわ。当然、生徒もいないでしょうね。」
「須藤は、夜が更けてから学校に入ってきたんですか?」
「さぁ。それは知らないわ。生徒が夜に学校を訪ねるときは、校門のインターフォンを鳴らすのが正規の手続きだけれど、昨日の夜にインターフォンを鳴らして訪ねてきた生徒は一人だけ。それは須藤くんじゃないわ。つまり、彼はずっと時計塔に隠れていたか、こっそり校門を飛び越えて学校に侵入したんじゃないかしら。」
「なるほど。ちなみに、昨日の夜に訪ねてきた生徒は誰だったんですか?」
「一年C組の八女 樹くんよ。忘れ物を取りに来たらしいわ。二十時三十分を少し過ぎたころにやってきて、二十時五十分頃に出ていったわ。」
八女 樹。競日の事を盗撮していたストーカーの男子生徒だ。
…にしても、二十時三十分から二十時五十分の間に来ていただって? 須藤を時計塔から突き落とした犯行時刻とぴったり合う時間帯じゃないか。…もしかしたら、八女は犯行を目撃しているかもしれない。そう思うと、ぞくっと背筋を冷たい感覚が駆け抜けた。
「なるほど。貴重なお話しが聞けました。ありがとうございます。」
「また何かあったらいつでも訪ねてね。応援してるわ。」
齋藤先生はにっこりと笑い、こちらへ手を振った。俺たちは彼女に小さく会釈し、職員室の外へと出た。
「さて…、それじゃ、次は八女 樹くんの所へ行こうか。」
職員室の扉を閉めた後、秀はこちらを見てそう言った。…まぁ、そうなるだろうな。八女に話しを聞くのは順当だ。
けれどまさか、犯行時刻にこの学校に人がいたなんて。…もし、八女が俺の事を目撃していたらどうしよう。そう考えると汗が止まらなくなった。かと言って、今ここで八女への事情聴取を止めるのは不自然だ。俺は黙って彼に付き添うしかない…。
最悪、俺はこの手で秀と八女を………。
俺はポケットの中へ手をいれ、ポケットに忍ばせた携帯ナイフをぎゅっと強く握った。
職員室から歩き、一年C組の教室の前までやってきた。お通夜ムードの二年の教室とは違い、一年の教室は比較的明るく、事情聴取の番を待つ間に各々席を立って談笑しているようだった。
秀が教室の扉を開くと、一年達の視線が集まる。するとすぐに、きゃあっと黄色い悲鳴が教室中から聞こえてきた。さすが探偵王子。ただ扉を開けて佇んでいるだけだというのにこの騒がれようだ。
「八女 樹くんはいるかな?」
秀がそう言うと、教室のみんなの視線が一箇所に集まった。その視線の先には、俺もよく知った顔…、八女 樹がそこに居た。八女は前持っていたのと同じデジタルカメラを首から下げていた。
「ちょっと、事情聴取に協力してくれないかい?」
八女はこちらを見ると黙って立ち上がり、従順にこちらへと歩いてきた。
八女が廊下へ出て、教室の扉を閉める。場所は移動せず、秀はそのまま廊下で話しを始めた。
「突然呼び出してすまないね。僕は二年A組の…、」
「西園寺 秀。通称、探偵王子。知っていますよ。どこにいても名前を聞くような有名人ですから。」
八女は、秀の言葉を遮ってそう言った。それから、八女は俺の方を振り向いた。
「それと、遥斗先輩。」
八女は俺の方を見てそう言った。どうやら、俺の名前も覚えてくれていたらしい。
「それなら話しが早いね。早速いくつか、君に聞きたいことがあるんだ。さっき齋藤先生から話しを聞いたんだけど、君は昨日の二十時三十分頃、忘れ物を取りに学校に来ているらしいね。」
「はい。今日提出しなくてはいけない課題を机の中に入れっぱなしにしてしまったんです。」
「その時、学校内で誰か人を見なかったか? 例えば、須藤 光とか。」
秀がそう聞くと、八女はゆっくりと目を瞑る。そして目を瞑ったまま口を開いた。
「須藤先輩は見ていません。」
「須藤先輩『は』ということは、他の人は見かけたってこと?」
「はい。…というか、僕より先に齋藤先生に話を聞いているなら、僕と同じ時刻に誰が校舎にいたのかなんて分かりきってるんじゃないですか?」
どくん、と大きく心臓が跳ねた。間違いない。八女は、俺の姿を目撃している。じんわりと手のひらに汗が滲んでくる。俺は制服のズボンに手のひらを押し付け、手汗を拭った。
「僕から話してしまったら事情聴取の意味がないだろう? 君の口から言葉を聞かないとね。」
「なるほど。僕が正しい証言をするかどうか疑っていると言うことですね。」
実際は、秀は八女が誰を見たのか知らない。それでもあえて知っているような素振りを見せているのだろう。
「僕が見たのは、競日マナ先輩です。彼女は時計塔の近くで佇んで、月を見ていました。」
八女は、しれっとした顔で秀に向かってそう言った。俺の方は見向きもしない。
二十時三十分と五十分といえば、ちょうど俺が来る前と、俺が時計塔の中にいる時間かもしれない。この様子だと、八女は俺の姿は見ていないのだろう。
「セルフィね…。」
秀は何故か、薄らと意味深な笑みを浮かべながらそう呟いた。
「ちなみに、校門から一年の教室に行くのに時計塔の傍を通る必要はないはずだ。君はなんで、時計塔の傍にいるセルフィを見ているんだ?」
「………。」
秀がそう言うと、八女は一瞬眉を顰め、ばつが悪そうに頭を掻きながら目を背けた。
「それはそうと、八女君は写真部に所属しているらしいね。」
八女が責められるのかと思いきや百八十度変えられた話題に、八女はぽかんと口を開き驚いた様子で秀を見つめた。
「次のコンテストのテーマは『月』だと聞いたよ。昨日はとても綺麗な満月だったね。」
秀がそう言うと、八女は声を出して笑った。
「西園寺先輩は人が悪いですねぇ。全部知ってるくせに、僕から白状させようだなんて。…そうですよ。僕は昨日、忘れ物なんてしていません。あれは齋藤先生についた嘘です。本当は、月の写真を撮るために学校に忍び込みました。この学校の時計塔のすぐ近くには『月下美人』という、夜にだけ咲く花があります。僕はどうしても、この花と昨日の満月を同じ写真に収めたかったんです。」
八女は目を瞑り、やれやれと首を振りながら観念したようにそう言った。
「齋藤先生には内緒にしてくださいね。写真のためだけに夜の学校に来たとバレたら、怒られてしまうかもしれません。」
「もちろん。僕は君から聞いた話しを誰にも話すつもりはないよ。もちろん、セルフィにもね。」
秀がそう言うと、八女は少し困った顔をしてため息を付いた。
「はぁ…。それもバレてしまっているんですか? 遥斗先輩にはバレたくなかったんだけどなぁ…。」
彼はそう言って薄目でこちらを見た。
「…そうです。僕は、月下美人と満月バックに佇む競日先輩を被写体として撮影しました。盗撮はいけないことだと分かっていました。それでも、どうしても。月の光を浴びて妖艶に輝く競日先輩の姿を撮影せずにはいられなかったんです…!」
八女は、こちらに深々と頭を下げながらそう言った。
秀は何も知らないのに、八女は秀が全て知っていると勘違いして、次々と隠していることを話してしまった。『探偵王子』という名の影響力はこういう所にも響いてくるのかと感心する。
「お願いですから、競日先輩にはどうか、盗撮したことは内緒にしていただけますか?」
「もちろん。今日はそういうつもりで君に話しを聞いているわけじゃないからね。」
秀がそう言うと、八女はほっと胸を撫で下ろし、表情を和らげる。
「ここだけの秘密にする代わりに、昨日の夜に君が撮影した写真を僕たちにも見せてくれないか?」
「いいですよ。誰にも内緒にしてくれるなら。」
八女は首から下げたデジタルカメラを手に取ると、カチカチと音を鳴らしてボタンを押下しカメラを操作する。少しして、彼はデジタルカメラをこちらへ差し出した。
カメラのディスプレイには1枚の写真が写っている。競日マナが時計塔の裏、肥料袋のすぐ側にしゃがみこんでいる写真だ。月の光に照らされて艶やかな髪がきらきらと輝き、彼女の魅力が際立っている。素敵な写真だ。
…しかし、俺は一つだけ気になる事があった。
「…この写真、月下美人も満月も写ってなくないか?」
俺がそう言うと、八女はうんうんと何度も頷いた。
「もちろん、もう1枚ありますよ。」
八女はカチッと音を立ててカメラを操作すると、ディスプレイに映る写真が切り替わる。
時計塔の隣で空を見上げる競日。楽しそうに笑う恍惚とした表情をしている。その奥には、満月と月下美人もきちんと映されている。映画のポスターのような完璧な構図だ。
秀はじっくりとその写真を見てから、デジタルカメラのボタンに手をかけた。カチッとボタンを押下し、一枚の写真に戻す。少しして、また二枚目の写真へと戻し、二枚の写真を交互に見比べた。
「…これは本当に、二枚とも昨日の夜に撮った写真かい?」
「えぇ、そうですが…。何かおかしな所でもありましたか?」
「セルフィの耳元に注目して欲しい。一枚目の写真の時はいつも通りだ。でも、二枚目の写真のセルフィは、耳にピアスを付けている。」
秀はそう言って、かちかちと何度か二枚の画像を切り替えた。確かに、二枚目の画像ではピアスをしている。おそらく、電話で俺を呼んだ後、俺に見せるためにわざわざピアスを付けてくれたのだろう。
「この二枚の写真には少しタイムラグがあります。一枚目の写真を撮った後、僕は一度自分の教室へ行きました。忘れ物をしたと言って侵入した手前、一度も教室に行っていないことがバレると面倒だなと思って。教室で数分過ごした後、僕はもう一度時計塔に行きました。その時撮った写真が二枚目です。」
なるほど。その発言が本当なのであれば、俺と競日が時計塔前で落ち合っている時、ちょうど彼は教室にいた。本当に彼は俺の姿を目撃していないのだ。
「それと、一枚目の画像。肥料袋がちょっとくびれていないか? まるで何かが巻き付けられているみたいだ。」
秀に言われる、画像の肥料袋に注目してみる。しゃがみ込んだ競日の視線の先にあるその肥料袋は、確かにちょっとくびれていた。
「なんでしょう? 運びやすいように二つをまとめておいたとかなんですかね?」
「それともう一つ。二枚目の写真、セルフィが何か黒い棒のような物を持ってるんだ。これ、何か分かるかい?」
二枚目の写真をよく見ると、暗くて分かりにくいが確かに小さな棒状のものを持っていた。
「さぁ…。暗くてよく見えないし、分かりませんね…。」
八女はぐっとカメラに近寄って画像を確認してそう言った。
俺はこれには見覚えがある。これは、今俺のポケットの中にある。あの日競日から受け取った携帯ナイフだ。
にしても…、なんで競日はこのタイミングでナイフを取り出しているんだろう?
「そうか。ありがとう。他に昨日撮った写真はあるかい?」
「いや、昨日撮ったのはこれで全てです。」
「ありがとう。とても参考になったよ。」
秀はそう言って、八女ににっこりと笑いかけた。
「いえ、お役に立てたなら良かったです。」
八女はそう言ってこちらに深々と礼をした後、自分の教室へと戻っていった。
ひと段落着いたと緊張の糸が解れた矢先、突然俺の背後から誰かが肩を叩いた。びくっと大きく肩を揺らして驚きながら後ろを振り向くと、そこには同じクラスの荒間 颯がいた。俺がびっくりしたことに驚いたのか、彼もびくっと肩を跳ね上げている。
「ビビったぁ…。そんなに驚くとは思わなくて、驚かせて悪いな。」
荒間はそういうと、ヘラっとした笑顔を見せた。
「荒間くん、なんでここに? 事情聴取はとっくに終わって帰ったんじゃなかったのかい?」
「西園寺って、今回もやっぱり警察の手伝いで色々捜査してるんだろ? …ちょっとさ、西園寺には言っておこうと思った事があって。校門近くの警察官に聞いたら、一年の校舎の方に向かうところを見たって聞いたから来たんだ。」
荒間は秀に向かってそう言うと、ズボンのポケットから自身のスマートフォンを取り出した。
「これを見てほしいんだ。」
荒間はそう言ってスマートフォンの画面をこちらに向けた。
その画面は、SNSのスクリーンショットのようだった。おそらくインスタのストーリーだろう。
『勝ったわ☀︎』というたった一言の文章が記載されている。その裏には可愛らしい手書きの文字で『須藤さんへ』と書かれている手紙らしきものが写っていて、宛名以外の部分は須藤らしき手によって隠されている。
「これは、インスタのストーリー?」
「そう。光が昨日の業後に『シタゲン』で投稿したやつだ。」
「なるほど。通りで僕が把握していないわけだ。」
「『シタゲン』って…?」
聞き慣れない単語に、俺は首を傾げながらそう尋ねる。
「『親しい人限定』の略だね。投稿を見ることができる人を限定することができるんだ。僕も須藤くんとインスタを交換しているけど、このストーリーの存在は知らなかった。荒間くん含めた数人だけに公開されていたんだね。」
「まぁ、肝心なのは内容だよ。この『須藤さんへ』って手紙。これを書いたのはきっと、セルフィなんだ。」
「何故わかるんだい?」
「太陽の絵文字だよ。ほら、ここに『勝ったわ☀︎』って書いてあるだろ? この太陽の絵文字は隠語なんだ。俺たちの間で、セルフィのことを表すね。」
「隠語…? なんで競日の名前を呼ぶのに隠語が必要なんだ?」
俺がそう尋ねると、荒間はすこしばつが悪そうにがしがしと頭をかいた。
「そりゃ、誰々を狙ってるとか、誰々の胸が大きいとか、そういう話しは誰かに聞かれたら困るだろ。セルフィだけじゃない。そういう話題を話す時、女子の名前はいつもこうやってぼやかして呼んでたんだ。それで、セルフィのことは太陽のマークで呼んでた。」
「なるほど。セルフィから手紙を貰ったことを匂わせる内容のストーリーだったてことだね。」
「そう。それと、昨日部活が終わって着替えが終わったころ。十九時半頃かな。いつもは途中まで一緒に帰ってるんだけど、昨日は『待たせてる人がいるから』って、着替えが終わったらすぐにごこかに行っちゃったんだ。…まさか、そのまま一生会えなくなっちゃうとは思わなかった。」
荒間はそう言って瞳を潤ませた。
競日からの話だと、昨日は二十一時から須藤に呼び出されているとのことだった。十九時半なら、まだ約束の時間には余裕があるはずだ。十九時半から二十時四十分までの空白の時間、須藤は一体何をしていたんだろう…?
「話したかったことはそれだけ。なんとなく、西園寺には話しておいた方がいい気がしたんだ。」
荒間はそう言ってスマートフォンの画面をオフにし、ズボンのポケットへとしまった。
「わざわざここまで話しに来てくれてありがとう。」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう。…必ず、真実を見つけてくれよな。」
荒間は真剣な面持ちでそう言い、こちらに背を向けて去っていった。