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第三章 美化委員

 次の日の朝。早い時間に学校に行くと、まだ教室には誰もおらず、施錠されたままだった。俺はいつも大体一番乗りで教室に来る。朝早くに誰もいない教室で勉強するのが日課なのだ。勉強といってもそんな真面目なものではなく、殆どはその日提出の宿題をその日の朝に焦りながら片付けているだけだ。

 職員室まで鍵を取りに行って帰ってくると、教室の前の廊下に競日が立っていた。

「あ、遥斗さん! おはようございます。」

「おはよう。」

 目線を合わせて軽く挨拶を交わしながら、俺は扉の前に立ち、手に持っていた鍵で教室を解錠した。扉を開け、俺たちは教室の中へと足を踏み入れる。自席までの道を歩きながら、競日は口を開いた。

「そういえば遥斗さん、昨日は体調でも悪かったのですか? 午後から早退されたようですが。」

「ああ…、ちょっとサボっただけだよ。先生たちには内緒にしててくれ。」

「へぇ、真面目な遥斗さんでもサボりたくなることがあるんですね。」

「別にそんなに真面目じゃないよ。ちょっと息抜きに、秀を巻き込んでゲーセンに遊びに行ったんだ。」

 俺がそう言うと、競日は自分の席にカバンを置いた状態で少し固まった。彼女は俺に背を向けている状態で、表情は見えない。

「へぇ。西園寺さんと。やっぱり、仲がいいんですね。」

 何故か、少しだけ彼女の声のトーンが下がる。露骨に機嫌が悪そうだ。

 何か彼女にとって気に食わないことだったのだろうか? 俺のことが好きだと言っていたが、もしかして男が相手であっても嫉妬をするのだろうか?

 どんな言葉を紡ごうか迷っていると、教室の扉がガラガラと音を立てて開かれた。

「お、競日さんおはよう!」

「おはようございます。」

「昨日競日さんがおすすめしてた曲、聞いたよ。」

「本当ですか! どうでしたか?」

「めっちゃ良かった。ああいう音楽って初めて聞いたけどー」

 競日との会話は、教室に入ってきたクラスメートによって奪われてしまった。

 …なんだか、競日としっかり腰を据えて色んな話しをしたいのに、色んな形で遮られてしまうな。まだ少しの時間しか過ごしていないが、自分のことをなんでも知っている競日とはすごく長い時間を共にしてきたような錯覚を抱いてしまう。

 そのせいか、競日の事は色々と知った気になってしまっているけど、いつも大事な所で会話が途切れて…、何か核心的な部分をいつも聴き逃してしまっているような、そんな気がして少し気持ちが悪い。

 かと言ってクラスメートとの談笑を遮って自分の話の続きをする勇気はなく、俺は大人しく自分の席に座って、黙々とカバンの中から教科書を取り出して自分の机の中へと移した。


 そして結局彼らの談笑は止まることはなく、時間が経つごとに彼女の周りを囲むクラスメートの数は増えていった。キーンコーンカーンコーンと始業を知らせるチャイムがなっても、彼らは競日の近くから退くことは無かった。そして、担任の先生が教壇に立って初めて、焦ったように自分の席へと帰っていく。ギリギリまで彼女と話していたかったのだろう。転入して3日目で、既にクラスメート達は競日マナに夢中だった。

 担任が教壇につくと、すぐに日直が号令をかける。席を立ち上がって一礼し、席に座り直す。それが終わると、先程まで騒がしかった教室の中は一気に静かに授業モードへ変わる。

「それじゃ、一限目のホームルームを始めるぞ。今日は後期の委員会を決めてもらう。前期に委員会に所属していない人は必ず何かに立候補するように。」

 担任はそう言って、黒板に各委員会の名前を書いていく。委員会の名前が書き連ねられ、あるひとつの委員会の名前が書かれた時、隣に座る競日が声を上げた。

「美化委員! 美化委員は、中庭の大きな花壇の世話をするんですよね!」

 静まる教室の中でいきなり喋りだした競日に、教室中から視線が集まった。

「中庭だけじゃない。校門前や昇降口にある花壇の手入れも美化委員がやっている。」

 競日の言葉に、黒板へ一通り文字を書き終えた担任が手についたチョークの粉をパンパンと払いながらそう答えた。

「素敵です! 私、美化委員がやりたいです!」

 競日はそう言って、がたっと椅子を膝裏で押し退けながら、その場に立ち上がって挙手をした。

「…他に美化委員やりたい人は?」

 担任は教室全体へそう問いかける。

 美化委員の定員は二人。立候補が三人以上いればジャンケンになる。ただ、美化委員なんて委員会は人気の委員会ではない。特別評定が上がる委員会でもない上に、花の世話で朝早くから学校に来なくてはいけないという委員会随一の面倒くささを誇る活動内容だ。朝だけじゃなく放課後にも活動が入るため、部活動やアルバイトをしている人はむしろ避けたい委員会。

 …の、はずなんだが、何故かクラスメート立は次々に手を上げている。その数六人。中には部活動に精を出しているはずの人物も混ざっている。

「じゃ、七人でジャンケンだな。」

 担任がそう言うと、立候補者の男のうちの一人が慌てて声を上げた。

「いや、競日さんは確定でいいよ! 転校してきたばっかりだし、やりたい事やらせてあげたいっていうかさ。なぁ!?」

 そいつがそう言うと、他の男たちも大きく首を縦に振って肯定する。

「え、いいんですか!? 皆さんお優しいんですね! とっても嬉しいです!」

 競日がそう言って嬉しそうに笑う。その様子を見て男達は、まるで自分事のように嬉しそうに笑った。

 …ああ、なるほど。彼らは『美化委員』がやりたい訳では無い。『競日マナと同じ委員会』がやりたいだけなんだ。

 美化委員は委員会の中でも特別活動内容が多い。毎朝二人きりで花の世話をしながら話す時間が出来るというわけだ。

 そんな男たちの下心は露知らず、競日は「やっぱり美化委員は人気なんですねぇ~」と呟き、自席へと腰掛けた。

「よし、んじゃ六人で公平にジャンケンだ。誰が勝っても恨みっこなしな!」

 残りの六人は、それぞれ自分の拳を手のひらで摩ったり、手首を回したりして準備体操をし始めた。その本気のジャンケンが始まる予感に、クラスメート達はざわめき盛り上がり始めている。

「待ってくれ」

 そんな所に水を差すようで悪いとは思いながら、俺はそう言った。

「やっぱり俺もやりたい。ジャンケンに参加させて欲しい。」

 そう言って、俺は後出しで美化委員へ立候補をした。

 俺も、彼らと同じ。誰にも邪魔されずに競日と話す時間を作るためにはこうするしかない気がした。

「いいよ。じゃあ七人でジャンケンだな。」

 後出しで出てきたから文句のひとつくらいは言われるかと覚悟していたが、案外すんなり受け入れてくれた。

 俺は席を立ち、教室の中央に向かって右手の拳を差し出した。

「じゃ、いくよ。じゃんけんぽんっ!」

 合図に合わせて、俺は拳を開いてパーを出した。周りの皆の手を確認する。みんなの手はパーばかり。その中でたった一人だけ、チョキを出している人がいた。

「っしゃあ! 俺の勝ち!」

 勝ったそいつは、自分の手をチョキの形にしたままに手を天高く掲げた。

 須藤(すどう) (こう)。ありふれた黒色の髪にありふれた醤油顔の男。部活は確かサッカー部だったか。忙しい部活のはずなのに、美化委員になんてなってしまって本当に大丈夫なんだろうか。

 …にしても、普通に負けてしまった…。くそ、せっかく競日と邪魔されずに話すチャンスだったのに。俺ははぁっと小さくため息をついて、そのまま席に座った。

 勝者の須藤は、喜びながらこちらへと駆け寄ってきた。そして俺のすぐ隣までやって来ると、競日の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

「マナちゃん、同じ美化委員としてこれからよろしくな!」

「ええ、よろしくお願いします。」

 そんな須藤に、競日はニッコリと微笑んでそう返す。そしてその笑顔を崩さないまま、彼女は言葉を続けた。

「しかし須藤さん、『マナちゃん』という呼び方は…、」

「ああ、ごめんごめん。セルフィ。」

 須藤はそう言って、ぽんと彼女の肩を軽く叩いた。手馴れた様子のボディタッチに、俺の胸はぐわっと大きく締め付けられる。

 まるで車酔いしたような気分の悪さが自分を襲う。胸の中をモヤモヤと不愉快な熱気を帯びた煙が渦巻き、自然と眉間に皺が寄る。そんな顔を競日に見られたくなくて、俺は気だるげに片方の腕を枕代わりにして頭を伏せた。

 その後はトントン拍子で他の委員会のメンバーが決まっていき、前期に委員会に所属していた俺は特にどの委員会にも属することなくホームルームが終わった。


◆◇◆


 あれから数日が経過した。

 俺は、朝早く学校に来るのをやめた。競日と須藤は昇降口前の花壇を割り振られたらしく、朝早くに行くとどうしても楽しそうに花壇の手入れをする二人と鉢合ってしまうからだ。その日の朝に宿題をする癖をやめて、前日に家で余裕を持って宿題を終わらせるようになったのは二人のおかげだ。

 仲睦まじい様子の二人を見ると、あの時のように胸の中を不愉快な熱気が渦を巻く。それに耐えられなくて俺は結局、競日と接触すること自体を何となく避けてしまっている。

 競日マナは魅力的な人物だった。異世界から転生してきたことが影響しているのだろうが、彼女は世間の色々なことを知らなかった。この間は初めて見る黒板クリーナーに感動して大興奮ではしゃいでいたくらいだ。

 クラスメートの間で彼女は、庶民の普通を知らない世間知らずなお嬢様と言われている。その世間知らずのお嬢様が、日常の何気ない出来事一つ一つにオーバーなリアクションで一喜一憂する姿は、あっという間にみんなを虜にしていった。おまけに彼女のあの美貌。女子に飢えた元男子校の男達が夢中にならないはずがない。あれからたった数日間の間で、競日はあっという間にこのクラスの中心になってしまっていた。

 本当は、俺が彼女に気まずさを感じたりしていなくたって、人気者の彼女と話す時間はそう簡単にはやって来ないのだ。

 俺ははぁっとため息を一つついて、自分の膝の上に置かれた弁当箱を見つめる。今日は時間に余裕がなくて、一面真っ白な米。塩だけ振ってあれば炊きたてでなくても食べられるし、栄養面は気になるものの腹持ちは十分だ。

「ため息なんてついてどうしたんだ? 何か悩みでも?」

 そう言って俺の隣から声をかけるのは西園寺 秀。競日との時間は取れなくなったが、あれから秀と過ごす事は多くなった。探偵業が忙しくほとんど学校にいないけど、彼が学校にいる時はほとんどこうしてお昼ご飯を共にしている。

「まぁ…、」

「僕で良ければ話しを聞こうか?」

 秀はそう言って、柔和な笑みでこちらの顔を覗き込んだ。

 秀は多分、口が堅い。俺の過去を誰にも口外せずにいてくれるから、その辺りは信頼している。でもなんとなく、こういった恋愛に関するあれこれを誰かに相談するのは恥ずかしさを感じてしまう。まだ彼とそういう話しをした事がないから尚更だ。でも、そんな恥ずかしさを上回るほどに自分の胸を得体の知れない気持ち悪さが渦巻いていて、誰かに吐き出してしまいたい気分だった。

 俺はきょろきょろと辺りを見渡して、周りに誰も見知った顔がいないことを確認してから口を開いた。

「…最近、競日とあんまり話す時間が取れてないんだ。」

 俺がそう言うと、秀は不思議そうに目をまん丸にしてこちらを見る。

「セルフィ? ああ、転校してきたばかりなのにもうクラスに馴染んでるよね。遥斗とは大違いだ。」

「うるさいな」

「冗談だよ。それで、セルフィと話しがしたいって? 何、何か話さないといけない事でもあるのか?」

「いや、別に…、他愛ない話しでもいいんだけど、話す時間が無いなって…。」

「なんだそれ。そんなの、隣の席なんだから適当に話せばいいじゃないか。」

「休み時間はすぐ他のクラスメートに囲まれちゃうし、話すタイミングが掴めないっていうか…。」

「隣の席なんだ、囲まれる前に声をかけてしまえばいいじゃないか。」

「休み時間になってすぐに話しかけたらなんか、狙ってたみたいで変に思われるかなって思うと声かけられなくて…、」

「話したいって言ってる奴がそんな遠慮の姿勢でどうするのさ。」

「それはごもっともなんだけどさぁ…。」

 秀に呆れた様子でそう言われ、俺は居心地が悪くなってしゅんと肩を竦めた。

 競日と他愛ない話しをして、お互いのことをもっと知りたい。そんな風に思っているのは自分自身なのに、いざ声をかけようとなると何を話せばいいのか分からない。

 結局俺は、俺に好意を持ってくれている競日に甘えて、話しかけてくれるのを待っているのだ。 意気地のない自分が明らかになり、自己嫌悪に苛まれる。

 秀は呆れた様子で俺を見ている。かと思うと、彼はすぐに俺の背後へと視線を移し、にやりと笑った。

「…ああ、噂をすればほら、ちょうどいいところに。」

 秀はそう言って、俺の背後を指さした。彼の指さす方へ振り返ると、そこには噂の人物・競日マナがいたのだ。委員会の仕事中だろうか? 重そうな肥料袋を2つ同時に抱え、ゆっくりと歩いている。前傾姿勢で腕を伸ばしきって袋を支えており、その姿だけで袋の重さが想像出来る。

 そんな彼女を見てぼけっとしている俺の腕を秀が掴んだ。

「ほら、行くよ。彼女と話したいんだろ?」

 秀はにやりと笑いながらそう言って、俺の腕を引いた。彼に腕を引かれるまま、俺は競日の方へと歩いていく。

「やぁ、セルフィ。重そうな物を持ってるね。」

 秀は競日に近づくと、そう言って彼女に話しかけた。

 競日はそれに反応してこちらを振り向く。ばちっと彼女と目が合い、俺はなんとなく目を逸らしてしまう。

「すっごく重たいです。でもこれ、委員会の仕事で時計塔の下まで運ばないといけないんですよ。」

「僕達が手伝うよ。女の子一人じゃ、運ぶの大変でしょ。」

「え、でも…、」

「いいから、貸して。」

 秀はそう言って、競日の持つ肥料袋を半ば強引に奪い取った。か弱い女子の荷物を持つ、紳士的でスマートな気遣い。…だが、肥料袋を受け取った秀は、苦しそうな顔で両手を伸ばして背筋を丸めた。

「…遥斗、パス。」

 行動自体はかっこいいが、見合う筋力が足りないらしい。探偵王子と呼ばれる完璧な男の、微妙に格好がつかないその行動に俺は小さく笑いを零しながら、ぷるぷると震える腕で支えられている肥料袋を受け取った。

 両手で持ち、抱え直すために肥料袋をぐっと勢いよく持ち上げて跳ねさせ、両腕で抱え込むように持ち直す。確かにこれはかなり重い。二人があれだけ辛そうにしていたのにも頷ける。

「で、これをどこに運べばいいんだっけ?」

「さすが遥斗さん、力持ちですね! とっても助かります。時計塔の下までご案内いたしますね。」

 競日はそう言って、軽くこちらにお辞儀をしてお礼を言うと、時計塔のある方角を指さして歩き始めた。

 俺と秀は彼女を追いかけ、三人で横に並んで歩いていく。

「そういえば、須藤は一緒じゃないのか? あいつも美化委員だろ。」

「ああ、須藤さんは部活のミーティングです。月に一度ある昼のミーティングが、たまたま今日だったらしくて。それで、私一人で二つの肥料を運ぶことになってしまって困ってた所だったんです。お二人が声をかけてくださって、本当に助かりました。」

 競日は安心しきったような柔和な笑みでそう言った。彼女の天使のようなその笑顔が見られるなら、こんな荷物くらいいくらでも持ってあげられる。

「須藤君って確かサッカー部だったよね。うちの高校のサッカー部ってそこそこ強いんじゃなかったっけ? 彼、美化委員なんてやってて大丈夫なの?」

 秀がそう尋ねると、競日は少し顔を曇らせた。

「そうなんですよねぇ。最初の頃は、毎朝委員会の活動をしていたんですけど…、ある時先輩から怒られてしまって。それから須藤さん、二回に一回は部活の練習を優先させることになったんです。だから、一人だと結構やる事が多くて大変で…。」

「なんだそれ。美化委員に入ることを決めたのは須藤本人だろ。部活が忙しいのなんて分かってたはずなのに入ると決めたんだから、最後までちゃんとやりきるべきだろ。」

「それはその通りなのですが…。先輩の圧が凄くて、私からは何とも…。」

 競日はそう言って、しゅんと肩を竦める。

 腹立たしい。あの日あんなにみんなが欲しがった席を手に入れておいて、中途半端に投げ出して彼女を困らせるだなんて。俺は沸き立つ怒りを堪えるように、ぎゅっと肥料袋を掴む手に力を込めた。

「まぁ確かに、変に口答えして先輩とトラブルになるのは困るね。セルフィの今後の学校生活に響いてしまうかもしれない。」

 秀はそう言うと、うっすらと笑みを浮かべて俺に視線を合わせた。

「そうだ。須藤くんのいない日は遥斗が手伝ってあげるっていうのはどうかな?」

「はぁっ!?」

 秀の提案に、びっくりした俺は反射的に大きな声を上げてしまった。

「僕が手伝ってあげたい気持ちは山々なんだけどね。探偵活動が不安定だから、絶対手伝ってあげられると確約は出来ないんだ。その点遥斗は暇だろ? ついこの間までは朝早くから教室で課題をやっていたじゃないか。」

「いつも昼から登校してる癖になんで知ってるんだよ。」

「僕は君と違って人脈が広いんだ。君が思っている以上に、クラスのみんなは遥斗の事を気にかけているって事だよ。」

 彼の言葉の意味がよく分からなくて、頭の中にハテナマークが浮かぶ。そんな俺の様子に気がついたのか、秀は小さく声を出して笑った。

「いや、今はこの話しはいいや。本題から逸れちゃうからね。…委員会決めの時、遥斗も美化委員に立候補してたんだろ? ならいい機会じゃないか。」

 美化委員に立候補したのは競日と同じ委員会になりたかっただけで、美化委員がやりたかったわけではないけど…。どちらにせよ、二日に一回でも彼女と2人きりの時間が取れるなら、それは願ってもないチャンスだ。

「…まぁ、朝は暇だし。別に手伝ってもいいけど。」

 本当はしがみついてでも縋りたいチャンスのハズなのに、謎の羞恥心から小生意気な言い方になってしまった。そんな俺の言い方を咎めることもせず、競日は100%の笑顔をこちらに向けた。

「本当ですか! 遥斗さんが手伝ってくださるなら百万力です! ああ神よ、私をお見捨てにはならなかったのですね…!」

「大袈裟だな。」

 オーバーなリアクションで喜ぶ彼女の笑顔に、自然と自分からも笑みが零れる。

 なんだか勝手に気まずさを感じていたけど、いざ話してみればなんてことは無い。彼女の明るさには救われている。

「じゃあ早速、明日からお願い出来ますか? 須藤さんが来ないのは、月・水・金なんです。」

「二日に一回というかほとんどいないじゃないか。須藤くんがいない分全部遥斗がやったら、もうどっちが本当の美化委員なのか分からないね。」

 秀は呆れたようにそう言って笑う。

 そんな会話をしていると、目的地である時計塔が見えてきた。

 時計塔はこの学校で一番高い建物で、一番上まで登ればこの学校全体を一望できる。

 中は下から上まで螺旋階段が続いていて、一番上には人が二、三人入ると満員になってしまうくらいの小さな踊り場があるだけ。本当に景色を見るくらいしか用途がないこの場所は、学校のシンボルにこそなっているが、一年の四月に興味本位で登る以外になかなか寄り付く機会のない場所だ。

「着きましたね。ここに置いてください。」

 競日はそう言って時計塔の下を指さした。俺はその指の方向に従って歩き、肥料袋を置こうと腰をかがめた。

 すると、俺が肥料袋を置こうとした場所に白い何かがたくさん落ちていることに気がついた。肥料袋をぐっと抱え直して腰をかがめ、それに顔を近づける。よく見てみるとそれは、タバコの吸殻だった。

「どうしたんだ?」

 肥料袋を置こうとしない俺の様子に気がついた秀は、そう言ってこちらへ近づいて同じように地面を覗き込んだ。秀はそれを確認したあと、上を向いて何かを確認した。

「ここじゃなくて、時計塔の裏側に置こう。」

「? どうしてです?」

「タバコの吸殻が落ちてる。ここは時計塔の窓のすぐ下、きっと素行不良の生徒が人の目を逃れるために時計塔の最上でタバコを吸ったあと、吸殻をそのまま下に落としてるんだ。ここに置いたら、火の不始末があるまま吸殻が肥料袋の上に落ちてしまうかもしれない。」

「まぁ、危ないですね。気づいてくださってありがとうございます。じゃあ、裏側に置きましょうか。」

 隠れてタバコを吸うだけならまだしも、吸殻をこんな所に捨てるだなんて。同じ学校の生徒として恥ずかしくなるほどの素行不良だ。悪い事だと分かっていてやるなら完全犯罪にすればいいのに、中途半端に跡を残す辺りが特に気に食わない。俺は誰かわからないその犯人に呆れてため息を零しながら、時計塔の裏側へと肥料袋を置いた。

「あれだけ重いものをここまで運んでくださって、ありがとうございます。」

 競日は俺の目を真っ直ぐに見つめて、蕩けるような笑顔でそう言った。

「あ、ああ。これくらい大したことないよ。」

 恥ずかしくて何となく、視線を逸らしてしまう。

「それにしても、この時計塔は高いですね! 中には自由に入れるのでしょうか?」

「日中は基本、自由に出入りができるはずだよ。」

 秀はそう言って、時計塔の扉のすぐ前まで歩くと、ドアノブを捻る。鍵がかかっていないらしくドアノブはすんなりと回ったが、扉を押しても引いてもビクともしないようだった。

「ぐっ…、重いな…。遥斗、パス…。」

 仕方ないな…と思いながら、扉へ近づいてぐっと扉を押してみる。

 なるほど、確かに重たい。俺はぐっと扉に肩を押し付け、体重を乗せて思いっきり扉を押した。押し扉で合っているらしく、ぐーっと押していくと少しずつ扉が開いていく。そして一定の所まで開くとぶわっと中から風が吹き、先程までの扉の重さが嘘のように一気に扉が軽くなった。急に軽くなった扉にバランスを崩し、俺は少しだけ前方によろめいた。

「びっくりした…、急に扉が軽くなったな。」

「建物の気密性が高いのかな。扉が重たいんじゃなくて、気圧の差で開かなかったのかもね。」

 開いた扉を横から見てみると、確かにそこまでの重たさがあるようには見えない。

 気密性とかそんなことはよく分からない。俺は秀の言葉を流すように、ふーんと適当な返事を返した。

「せっかく開けたことだし、登ってみる?」

「いいですね! 登ってみたいです!」

 秀がそう言うと、競日は子供のように楽しそうにぴょんぴょんと跳ねながら開いた扉をくぐる。そしてそこからこちらを振り返ると、彼女は笑顔でこちらに声をかけた。

「遥斗さんも、一緒に行きましょうよ!」

 『あのこと』を知っている彼女は、にこにこと意地悪な笑みでそう言う。

「…いや、俺はここで待ってるから、二人で行ってきなよ。」

「高いところでも苦手なのか?」

 何も知らない秀は、純粋にそう尋ねた。俺が答えるより先に、食い気味に競日が言葉を続けてきた。

「ああ! そういえばそうでしたね! 遥斗さんってば、小さい頃に観覧車でお漏らしをー」

「あーっ! 余計なエピソード広めんなっ!」

 ニコニコの笑顔で語り出した競日。俺は恥ずかしくなって、咄嗟に彼女の口元を手で覆って彼女の口を塞いだ。俺の手のひらに、彼女の柔らかい唇がむにっと押し付けられる。その感触に、俺は一気に肝が冷える。

 いくら弱みを晒されそうになったから口封じのためにとはいえ、女子の唇に手を当てるなんて。気持ち悪がられてしまうに違いない。俺はそう思って慌てて手を離す。

 恐る恐る競日の表情を伺うと、彼女は全く気にしていないような様子でケラケラと笑っていた。

「ふふっ、ごめんなさい。ついいじわるしたくなってしまいました。」

 競日は笑いながらそう言った。唇に手を当てたことについては全く咎められる様子が無さそうで、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。

 彼女の唇が当たった手のひらを見ると、薄いピンクのグロスが手のひらに残っている。

 どくんと心臓が大きく高鳴る。その痕跡は、俺を興奮させるには十分な代物だった。

 俺は冷静になろうと、彼女から視線を逸らし、頭の中で必死に素数を数えた。しかしそれを許さないとでも言うように、彼女は無理やり俺の視界に入るように移動して、ひょっこりと俺の顔を覗き込んだ。

「本当に怖くなったら途中で降りて大丈夫ですので、途中まで一緒に行きませんか?」

 さっきまでは意地悪そうに笑っていたのに、今度は眉尻を下げて懇願するような表情で、きゅるきゅるとまん丸の瞳を輝かせながらそう言ってきた。

 本当に、ずるい人だ。そんな顔で言われたら、断れないじゃないか。

「…分かった。怖くない所までなら。」

「やったぁ! それじゃ、早速行きましょっ!」

 競日は軽く飛び跳ねて喜ぶと、小走りで階段を駆け上がっていった。

 そんな彼女を微笑ましく思いながら、俺は秀が開けて抑えてくれている扉をくぐり、彼女に続いて階段を登り始めた。

 階段は螺旋状になっていて、途中に窓などはなくひたすら白い壁に囲われている。

 直線の階段に比べて、螺旋の階段は後ろを振り返っても下深くが見えず、どこまで登って来たかが分かりにくい。途中に窓がないのも相まって、高いところに登っているという実感があまり湧かない。高いところが苦手な俺としては都合がいい。

「遥斗さん、大丈夫そうですか?」

「ああ、なんか意外とヨユーかも。」

「それは良かったです! 年齢を重ねて、知らず知らずのうちに克服してしまったのかもしれませんね!」

 苦手だと避けていた割に、いざ登ってしまえば大したことないな。そんな風に調子をこきながら、俺は堂々と階段を登り進めていく。

 それからしばらくして…、やっと階段に終わりが見えた。

 長い階段の終わりは、人が五、六人で満員になってしまいそうな程狭い円形のフロア。フロアは壁で覆われていて、壁の一番上に通気口のようにいくつか穴が空いている。天井にはいくつか梁が掛けられている。そしてそのフロアのうち一面は、なんと壁も窓もなく、外の景色が一望できるようになっていた。

 意外と余裕かも、なんて言葉は撤回だ。俺は衝撃すぎるその景色に言葉を失い、それ以上先に進むことが出来なくなってしまった。

「わぁ、すごい! ここから外が一望出来ますね!」

 ビビって動けない俺とは対極に、競日は全く臆さず一直線にそこへと向かう。そこは一面、足元から天井まで壁も窓もない場所だ。一つ足を踏み外せば下に落ちてしまうような場所。見ているこっちが怖くて仕方ない。

「な…、なぁ、あんまりそっち行くと危ないんじゃないか…?」

「? なんでですか?」

「なんでって…、そこ、窓も無いし、間違えて足を踏み外したりなんかしたら…」

 俺がそこまで言うと、競日は何かに気がついたようににっこりと笑う。

 そして彼女は、そのまま外を向いた。踵を上げて、身体を曲げずにすーっと前傾に身体を倒していく。

 俺は咄嗟に駆け出した。高所の恐怖より、競日がいなくなってしまうかもしれないという恐怖が勝ったのだ。そのまま全速力で彼女まで近づくと、彼女の体を抱き留め、すぐに横へと倒れ込んだ。

「いったた…、何するんですか、遥斗さん。」

「それはこっちの台詞だよ! 自分がどんな危険なことしてたか分かってんのか!?」

 俺が本気で怒りながらそう叫ぶと、競日は目をまん丸にして驚いた。

 コンコン。何かを叩くような音がして、後ろを振り向く。そこには秀がいて、先程競日が落ちそうになったその場所をノックしている。

「窓だよ。ぴかぴかに磨いてあるから、窓が無いように見えたんだね。」

 窓、あったのか………。急にほっとして、身体中の力が抜けた。

 なるほど。競日には窓が見えていて、俺が窓がないと勘違いしている状況を面白く思ったわけだ。

「はぁ~~…。それにしても競日、冗談きついよ…。」

「すみません。落ちるふりしながら、そのまま窓に手をついて見せるつもりだったんですが…。まさかあそこまでしてくださるなんて、思っていませんでした。」

 競日は少しだけ申し訳なさそうな顔でそう謝った。

「さっきまでビビって立ち竦んでたくせに、セルフィが危険だと思ったらあそこまで身体が動くんだね。勇気あるじゃないか。」

 秀が拍手をしながらそう言った。なんだかそう言葉にされると照れる。

 俺は怖い思いをするのが嫌いだ。高いところよりも、競日がいなくなってしまうことの方が怖いと感じた。だから咄嗟に身体が動いたのだ。

「はい…。とても、素敵でした。私のためにそこまでしてくださって、ありがとうございます。」

 競日は少しだけ顔を赤らめながら、潤んだ瞳で俺を見つめる。その表情に、俺はごくんと一つ息を呑む。彼女を直視し続けることができず、俺は誤魔化すように周囲を見渡した。

 この塔はここが最上。階段を登っている最中、窓など外に通じるものはなかった。あるのはこのフロアの天井から床まで続いた大きな窓一面と、壁の一番上に数個、空気穴のような約五センチ角の小さな窓があるだけだ。

 あの空気穴はほぼ天井に近い位置にある。高校生どころか、並大抵の日本人では手を伸ばすことがやっとだろう。

「……さっき落ちてた煙草の吸殻は、どこから落とされたんだ?」

 俺は周囲を見渡しながら、そう呟いた。

 秀は、大きな窓に近づいてそこから下を除く。そのまま彼はその場にしゃがみこんだ。

「位置的にはこの窓だね。…それに、ほら。窓自体は綺麗に磨かれているけど、サッシの部分が黒く汚れている。おそらく、煙草が押し付けられた跡じゃないかな。」

「ここの窓開くのかよ…。吸殻落とすってことは、この窓から外に手を出したってことだろ? 考えただけで足が竦む…。」

 もし何かの拍子に少しでも足を滑らせたら…。そんな事を考えるだけで、ぶるっと身震いする。そんな危険を冒してまで煙草を吸いたいだなんて、俺には理解が出来ない。

「そうだね。これに関しては遥斗じゃなくても怖いと感じるだろう。それに、何か事故が起きてからじゃ遅い。この事は先生に報告した方がいいだろうね。」

「それなら、私から先生に報告しておきますよ! 私、どうせこの後美化委員の報告のために職員室へ向かう予定でしたので。」

「本当? とても助かるよ。それじゃあ、あとはセルフィに任せようかな。」

「はい、お任せください! お二人とも、肥料運び手伝ってくださってありがとうございます。とっても助かりました!」

 競日はそれだけ言うと、俺たちに向かって律儀に一礼して、すぐに時計塔を駆け下りていった。

「…さて、それじゃあ僕達もお昼ご飯に戻ろうか。」

 秀は俺に向き直ってそう言った。

 そういえばまだ、昼ご飯の途中だったな。今は何時だろう? 俺はスマホを取り出して時間を確認する。…やばい。あと七分で昼休みが終わってしまう。

「やばい、もうすぐ休みが終わる! 早く降りよう!」

 俺はそう言って、急いで階段を降り始めた。秀はそんな俺の後ろを追いかけながら、ふっと小さく笑った。

「セリフとスピードが合ってないよ。腰が引けすぎだ、もっと背筋を伸ばしな。」

「無茶言うな…!」

 へっぴり腰でゆっくりと慎重に階段を降りた俺とそのスピードに合わせて降りてくれた秀は、無事午後の授業に遅刻した。


◆◇◆


 その次の日の朝。俺は久しぶりに朝早くに学校へとやって来た。その理由はもちろん、美化委員の仕事のためだ。朝早くに来ることを諦めたほどに通るのが憂鬱で仕方なかった玄関口。今は心が踊って仕方ない。

 時間通りに玄関口にやってくると、競日はまだ来ていないようだった。元々美化委員でない俺は、競日がいなくては何をすればいいのか全く分からない。先になんの準備をしておけばいいかくらいは聞いておくべきだったかな。そんなことを思ってももう遅く、俺はただじっと花壇の花を眺めつつ、ちらちらと横目で正門の様子を伺って競日を待った。

 そんな中、突然後ろから肩を叩かれ、俺は驚いてびくっと大きく肩を震わせた。

「あ、すみません。びっくりさせてしまいましたか?」

 後ろを振り返ると、そこには競日がいた。てっきり正門側から来るものだと思っていたから驚いた。

「少しだけ。裏門から入ってきたのか?」

「いえ、正門から来ましたよ。約束の時刻より早く着いてしまったので、ちょっと中で待っていたんです。」

「ああ、俺の方が待たせてたのか。遅くなってごめん。」

「いえ、全然! 三分くらいしか待ってませんから!」

 俺がここに来たのは約束の時刻ちょうどだ。そのたった3分前に着いたというなら、わざわざ中に入って待つのは面倒な事だろう。おそらくこれは、彼女の優しい嘘なのだ。

「気を使わなくていいよ。たかが三分くらいなら、中に入って待つ必要なんてないだろ。」

 俺がそう言うと、競日は目に見えるほどに顔を曇らせた。

 …あんまり追求しなくてもいいところを深追いしてしまったか。真実なんてどうでもいい。ただ彼女の優しさをそのまま受け取っておけばよかったものを。彼女の気まずそうな顔を見て、俺は少し反省する。

「…これは、その。自意識過剰、かもしれないのですが…。なんとなく最近、誰かにずっと見られているような気がするんです。だから遥斗さんが来るまでの間は中に入っていようと思って…。」

 自分の発言で困らせたと思っていた競日は、自分の予想とは違う言葉を返してきた。

 俺はそのままその場で辺りを見渡した。すると、すぐ近くの高めの植え込みの葉の隙間が、一瞬きらりと光った気がした。

「…自意識過剰じゃないかもしれないな。」

 俺はそう言って、光った植え込みへと一直線に向かっていく。近づくとわかる。間違いなくあれはカメラのレンズだ。植物の葉の隙間を縫うように、レンズがこちらへ向けられている。さらに近づくと、俺がどこへ向かっているのか気がついたみたいだ。レンズは消え、植え込みからがさっと音がした。

「ひっ」

 と小さく悲鳴が聞こえたと思うと、植え込みの裏から人影が飛び出てきた。そして俺に背を向けて逃げるように走り去っていく。

 俺はそれを見て、ぐっと強く左足を踏み込んで駆け出した。足の速さには自信があるんだ。このまま逃がすわけには行かないと、全力で逃げる人影を追いかけた。突然の事で焦ったのか、逃げ出したそいつは足がもつれて体勢を崩している。俺は一気に距離を詰め、逃げるそいつの腕を掴んだ。

「ひぃっ! す、すみませんっ!」

 腕を掴むと観念したのか、彼は足を止めて謝った。俺より随分小柄で細身な男子生徒だ。小柄なわりに着ている制服のサイズは大きくぶかぶかで、それがより頼りないイメージを飾り立てている。

「謝るってことは、悪いことをしてるって自覚はあるんだな」

「す、すみませんっ! 悪気は無かったんです! 僕はただ、競日先輩の事が好きなだけで…っ」

「『先輩』ってことは君、一年? 一年なんてクラスにいっぱい女子がいるだろうに、どうして二年の競日に執着してるんだ?」

 ふと思ったことを気軽にそう口にすると、彼はきっと強く俺の事を睨みつけた。

「僕は先輩と違って、『女子なら誰でもいい』なんて考えは持っていないんです。一緒にしないでくれませんか?」

「なっ…、別に俺はそんなことを言ったわけじゃ…!」

「先輩がどんな恋愛観を持っていようがどうでもいいですけど。僕は本気で競日先輩が好きなんです! やり方を間違えてしまったことは謝ります。ただ本当に、競日先輩が好きだっただけなんです!」

 小柄な一年はそう言って、俺に向かって深々と頭を下げた。

 そこへ競日が歩み寄ってくる。競日の様子を伺うと、困った様子で薄らと笑顔を浮かべている。

「そんな情熱的な告白をされては、怒るものも怒れなくなってしまいますね」

 競日の声に反応して一年は顔を上げた。競日の姿を確認すると、一年は茹でダコのように真っ赤に顔を染めた。散々スコープ越しに見てきた顔だろうに、実際に顔を合わせることには慣れていないようだ。

「隠し撮りされるのは困ります。こそこそと付け回されるのも怖いです。二度としないと言ってください。」

「し…、しません! 二度と! 神に誓います!」

「神に誓ってはなりません。貴方はただ、二度としないと言えば良いのです。」

「え…? あぁ、はい。二度としません。」

「私は貴方を赦します。…次からは、きちんと顔を合わせてお話ししましょう。ね?」

 そう言うと、彼女は少し膝を曲げて一年に視線の高さを合わせ、聖女のような優しい笑みで一年に笑いかけた。

 ついさっきまで自分をストーカーしていた相手に寛大な対応。それだけでなくそんな笑顔でこんなことを言われてしまっては、この一年は余計に彼女から逃れられ無くなってしまうだろう。聖女のような見かけをしながら、かなりの魔性を持っている女性だ。

 一年は、ただでさえ真っ赤だった顔を更に赤らめ、湯気が出そうな程に熱を帯びた口元を小さく開き、「はい…」と緊張で震える声で答えた。返事を聞いて満足したらしい彼女は、更ににっこりと目を細め、曲げていた膝を伸ばして姿勢を戻した。

「そういえば、貴方の名前を伺っていませんでしたね。」

「は、はいっ! 一年C組四十三番! 八女(やめ) (いつき)です!」

 競日に名前を聞かれ、彼はつま先から頭の先までびっしりと筋を伸ばし、大きな声でそう名乗った。

「出席番号まで言わなくていいだろ」

「先輩には自己紹介してません。競日先輩と僕の会話に入って来ないでくれませんか?」

 俺がまた口を挟むと、八女は先程と同じ冷たい瞳でこちらを睨みながらそういった。

 ここまで明確に敵対意識を向けられる機会はそうそうない。いくら俺でも少し傷つく。

「私たちの仕事を盗撮して中断してきたのは八女くんの方ですよ。そんな言い方をしちゃダメです。遥斗さんに謝ってください。」

「…はい、ごめんなさい…。」

 競日に促されると、八女は一気にしおらしくなってこちらへ頭を下げた。扱いが簡単なんだか面倒なんだかよく分からないが、単純なやつではありそうだ。

「そういえば、美化委員の担当者変わったんですか? 前はもっと陽気でうるさい先輩と一緒に仕事をされてましたよね?」

「あぁ、須藤さんは月水金とサッカー部の朝練を優先することになりまして。須藤さんが活動できない分、遥斗さんに手伝っていただくことになったんです。」

「ふーん。委員会としての実績が貰えるわけじゃないのに手伝うだなんて、遥斗先輩は物好きなんですね。」

「まぁ、早起きは苦手じゃないからな。」

「それだけですか? 僕なら、なんの利益もない手伝いなんて引き受けたくないですけどね。…もしかして遥斗先輩、競日先輩と付き合ってるんですか?」

 ド直球の質問に、俺は狼狽えて思わず目を泳がせる。

 付き合って…は、いないか?付き合ってはいないけど、競日に『慕っている』と言われ、ペアのピアスを買って、手を繋いでデートもした。この関係性を他人に説明するには、どんな言葉が相応しいんだろう?

 俺が恥ずかしくなって言葉を濁らせていると、競日はいつも通りの柔和な笑みで、照れる素振りもなくさらりと答えた。

「付き合っていませんよ。」

 その言葉に俺は、何故かずきんと心が痛む。

 何も間違っていない。だって付き合っていないんだから。…なのに、なんでこんなに心がざわつくんだろう。

 競日は可憐で、クラスの人気者で。いつでも誰かに狙われている反面、皆が皆牽制し合っているような雰囲気があった。そんな彼女を、正面から堂々と好きという人物に出会ったのは初めてだった。そんな存在を目の前にして、俺は焦っているのかもしれない。

 彼女が俺の事を慕っていたのは前世の話し。この世界で色々な人物と仲良くなって心が揺れ動いたとしたって何もおかしなことではないし、俺がそれを咎める権利なんてないのだ。

「…八女は、なんで競日が好きなんだ?」

 俺は平静を装いながら、緊張で震える声を抑えてそう聞いた。

「言わずもがな、競日先輩はとても美しいですから。太陽の光を浴びてきらきらと輝く艶やかなブロンドの髪は、風で靡く姿を見たら誰しも写真に収めたくなってしまうでしょう?」

 八女はそう言って、首から下げたデジタルカメラを手に掲げた。

「それに競日先輩は、僕の『推し』である《マナリア=ビフォア》にとてもそっくりなんです!」

「《マナリア=ビフォア》…?」

「『マナリア=ビフォアの独白』という映画、ご存知ないですか? 数年前に公開された洋画です。」

「うーん、知らないなぁ。洋画って有名どころしか見ないし…。競日は知ってる?」

 聞いた事あったかな…? と記憶を巡らせつつ、何気なく競日に尋ねた。

 すると競日はいつも通りの柔和な笑みで…、いつもより更ににっこりと目を細めながら口を開く。

「さぁ。知らない名前ですねぇ。」

「母親が無実の罪で処刑され、数奇な運命を辿る少女、マナリア=ビフォアの半生を描いた映画なんです。」

「へぇ、なんだか難しそうだ。」

「そうでもないですよ。僕は面白かったです。そして何より、主人公のマナリア=ビフォアがとても魅力的で…。競日先輩の美しい髪に、ぴんと筋の通った貴族然とした所作は、僕の中でマナリア=ビフォアを彷彿とさせるんです…!」

 八女はやや早口に語る。明らかに先程と比べてテンションが上がっているようだ。それほど彼の好きな作品という事だろう。

 そしてその時。キーンコーンと大きな音で、学校がチャイムを鳴らす。

「わぁ! すっかり話し込んでしまいましたね。委員会の邪魔してしまってすみません。それでは、また。」

 八女はそう言うと、こちらに小さく頭を下げ、一年の昇降口の方へとかけていった。

「これで、見知らぬ人影に怯えることはなくなりそうですね。ありがとうございます、遥斗さん。」

 競日はそう言って、にっこりと笑った。

 ストーカーの存在に最初は警戒したけど、話してみたら案外普通の奴だったな。もう彼が競日に危害を加えることは無いだろう。でも今後彼は、競日に堂々と接触してくる事になるだろう。クラスメートじゃない分、彼を牽制する人はいない。…厄介なライバルが出来てしまったな。


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