第一章 ピアス
「本日転校して参りました、競日 マナと申します。皆様、よろしくお願いいたしますね!」
あの日の少女との再会は早かった。
あの日、俺のベランダに降ってきたブロンドの髪の少女。競日 マナと名乗る彼女は、次の月曜日に俺の学校の俺のクラスに転校してきたのだ。
突然の転校生にクラスメート達は動揺を隠せない様子で、教室はいつになくざわめいている。
それもそのはず。彼女はこのクラスで唯一の女の子だからだ。この学校は、去年まで男子校だった。一年こそ男女比率半々くらいの共学になっているが、入学当初男子校だった俺たち二年には女子生徒は一人もいない。
そんな中、転校生としてたった一人の女の子がやって来た。それも洋風な見た目の美少女だ。みんなの話題は彼女で持ち切りだ。
ここで俺は、昨日の彼女の言葉を思い出す。彼女はここをゲームの中の世界だと言った。こんな夢のない現世で何を言っているんだと思ったが、今のこの状況を見ると、一つ思い当たる世界観があった。
もしかしたらここは、"乙女ゲーム"の世界なんじゃないだろうか。そう考えると、この学校はかなり都合がいい。女子生徒が一人だけという、所謂"逆ハーレム"状態を作り上げている。
それに、彼女が俺の事を慕っていると言っていたことも、"推し"と言ったこととも辻褄が合う。…なんで俺みたいな冴えない奴を推しに選んだのかだけは、理解が出来ないけれど。
そんなことを考えながら、自己紹介する彼女をぼーっと眺めていると、俺は一瞬で現実に引き戻される。
「あっ、東海林さん! 東海林さんも同じクラスなんですね! よろしくお願いいたします!」
あろうことか、競日は俺を名指しで話しかけて来たのだ。案の定、クラスメート達の視線は俺に集まる。普段は目立たない俺の元へ大量の視線が向けられ、ひそひそと噂話を立てられる。
下手に目立たず、誰にも注目されずにひっそりと学校を卒業したい。そんな俺の思いは、突然競日マナの手によって打ち砕かれてしまったのだ。
「東海林は競日と知り合いなのか。なら都合がいいな。東海林の隣の席が空いてるから、そこ座ってくれ。」
ご都合主義にも程があるが、彼女の席は俺の隣の席。担任は都合よく空いている席を全く疑問に思わないままにそう指示した。
俺の心中を知らない競日は、にこにこと笑って俺の近くに歩いてきた。そして、都合よく空いていた俺の隣の席へ腰掛ける。
「東海林さんの隣の席が偶然空席だなんて、すごい奇跡ですね!」
「…そうだな。」
ゲームの世界ならそうだろうな、と付け加えようとしたのを飲み込んだ。他多数のクラスメートがいる中でそんな事を言ったら、おかしな人だと思われてしまう。
「東海林さんは…、」
「ごめん。悪いけど、俺の事を苗字で呼ばないでほしい。…嫌いなんだ、自分の苗字。」
何か話そうとした競日の言葉を遮って、俺はそう言った。
最初から、彼女はずっと俺の事を苗字で呼んでいた。初対面の相手に指摘する事ではないと我慢していたが、これからずっと一緒に過ごすクラスメートになるなら話しは別だ。俺はこの"東海林"という苗字が嫌いで、他のクラスメートにも全員、名前で呼ぶようにお願いしている。
俺のお願いを聞くと、競日はにやりと口端を上げて、目を細めた。
「ふふっ…、あは、ははっ。そうでしたねぇ。失念しておりました、すみません。」
彼女は、笑いながらそう言った。その美しく整った顔立ちを柔軟に歪め、厭らしく笑う彼女は、今までの競日とは違う妙な雰囲気を醸し出していた。
それも束の間、すぐに彼女はいつもの柔和な笑みへと顔を戻す。先程の怖い笑顔はまるで幻だったかのように、そこにはただ可憐な美少女の無垢な笑顔があるのみだった。
「それではこれからは、遥斗さんと呼ばせていただきますね。遥斗さん。」
彼女は俺の名前を呼んで笑う。美しい顔立ちで笑う彼女に、俺は照れて目線を逸らした。
「…なんで苗字で呼ばれるのが嫌いなのか、聞かないんだな。」
「ふふっ、だって知ってますから。遥斗さんのことは、ゲームの中で何でも。」
ああ、そういえばそうだった。俺は彼女にとって、ゲームの中のキャラクターなんだ。俺が苗字で呼ばれたくない理由も、俺の過去も、些細な食べ物の好き嫌いさえ知られているんだろう。そう思うと、なんだか不思議な気分だ。
「なんでこの事を知ってるのに、俺の事を苗字で呼んできたんだ?」
「初対面の女子がいきなり名前で呼んできたら、それはそれで困りませんか?」
「確かに…。」
女性に対する免疫がない俺が、いきなりこんな美少女に名前を呼ばれていたら動揺してどうにかなってしまいそうだ。そんな所まで配慮してくれるなんて、本当に俺の事を分かっている人なんだと改めて実感した。
「そうだ。転校したてで、まだ教科書がないんです。一緒に見せてくれませんか?」
競日はそう言って、机と椅子を引きずって隣合うようにぴったりと机をくっつけた。
俺は二つの机の隙間に本の背表紙をぴったりと当てはめるようにして教科書を置いた。競日は教科書を覗き込むように、ぐいっとこちらに顔を寄せる。
ふと横に目をやると、彼女の顔はすぐ近くにあった。生まれてこの方男子校にいた俺は、こんな距離感で女子の顔を見るのは初めてだった。くるんとカールした長いまつ毛が瞬きの度に揺れる。よく見ると少しだけメイクをしているのか、まつ毛の間を埋めるようにさりげなくブラウンのアイラインが引かれているのに気がついた。
俺の視線に気がついたのか、競日がこちらを振り向いてばちっと目が合う。
「そんなに見ないでください。推しに見られていると思うと、緊張しちゃいます…っ」
頬を桃色に染め、視線を外しながら彼女はそう言った。
「わ、悪い。」
その初心な反応にまた俺の心は揺さぶられ、どくどくと心臓の鼓動が早鐘を鳴らした。
これから彼女の近くでこんな日常が続くのかと思うと心臓に悪いなぁ…と思った。
◆◇◆
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。午前中の授業が全て終わり、クラスは一気にお昼ご飯ムードになる。
「遥斗さん。お昼ご飯、ご一緒させていただけませんか?」
競日はお弁当箱が入っているであろう包みを手に持って、俺に笑いかける。
「いいよ。中庭でも行く?」
「お外でお昼ご飯、いいですね!」
転校してきた紅一点の女の子と二人きりでお昼。なんとなくクラスメートの視線が気になって、俺は屋外に誘導した。
クラスメートの視線を他所に、俺たちはお弁当を持って教室を出た。
「他の方は誘わなくて大丈夫でしたか? 遥斗さんがいつもご一緒している方とか。」
「…俺の事知ってる癖に、その質問は性格悪いんじゃねーか?」
「す、すみません! 気分を悪くされましたか? お昼ご飯の様子はあんまりゲームで描かれていなかったので…。すみません。」
俺の言葉に、競日は困った様子で謝った。
…今のは俺が悪かったな。自分のことは何でも知られていると勘違いしていた。当たり前だけど、全てを知られている訳では無いらしい。
「いや、俺が悪かった。…昼は、いつも一人なんだ。誰かと食べる事は滅多にない。」
「そうだったのですね。言いづらいことを言わせてしまって、すみません。」
競日はしゅんと悲しそうに頭を下げた。申し訳なさそうな表情で項垂れる彼女を見ていると、こっちの方が申し訳ない気分になってしまう。
「もしかして、高校でもいじめられているのですか?」
彼女は引き続き申し訳なさそうな顔をしたままそう尋ねた。高校『でも』ということは、小中と俺がいじめられていることは知っているらしい。
「いや、特にそういうのはない。いじめられた原因になった出来事は、この高校の奴にはほとんど話してないしな。聞いてきたやつには話したけど、高校生にもなればもうある程度大人だからかな。周りに言いふらされたりすることもなかった。」
「それはよかったです。」
そんな話しをしながら歩いていると、中庭が見えてきた。渡り廊下へと一歩足を踏み出すと、さっと太陽の光がさしこんできた。中庭の中央には大きく色とりどりの花壇が鎮座しており、それを囲むように複数のベンチが配置されている。今日は天気がいい事もあってか、中庭はそこそこ賑わっていた。中庭でお弁当を広げているのは八割が女子生徒で、ここだけ見ていると元男子校だということを忘れてしまいそうだ。
俺たちは丁度よく空いていたひとつのベンチに腰掛け、膝の上に各々のお弁当を広げた。
「中庭、結構賑わってますねぇ~。女の子ばかりということは、ここにいるのはほとんど一年生でしょうか?」
「そうなるな。まぁ、こういう所でお昼ご飯を食べたがるのって大体一年だしな。」
「確かに、二年になれば校舎への物珍しさもなくなってしまいますもんね。」
競日はそう言って、中庭の様子を物珍しそうに見渡した。
中庭が珍しいのは、何も一年や競日に限った話しではない。この中庭の花壇は、この学校が共学になる事を記念して今年から新しく作られたものだ。こんなに近くで見るのは俺も初めてで、美しい花々につい目を奪われてしまう。
「花壇、とても綺麗ですね!」
「ああ。この花壇は、美化委員が毎日世話をしてるんだ。去年は美化委員なんて形だけだったけど、今年この花壇が出来てからは、美化委員がすごく気合を入れて毎日手入れしているよ。」
「へぇ、生徒の力でこんなに綺麗な花壇を保っているんですね! すごいです!」
花に視線をやりながら、視界の端にある弁当箱の包みを手のひらの感覚を頼りに解いていく。弁当箱をあけると、昨日の残りの回鍋肉がみっちり箱に詰められていて、下の段には白米だけがみっちり詰められている。対照的に、競日の弁当箱の中身は豪華だった。一段目には卵焼き、ミートボール、ウインナーといった定番のおかずたちが品数豊富に多数詰められている。二段目には白米と炊き込みご飯の二種類が半々に詰められていた。
「回鍋肉、そんなにお好きでしたっけ?」
「いや、別に。昨日の夜に大量に作って残りを詰めただけ。一人暮らしのお弁当なんてそんなもんだよ。」
「ああ、そういえば。ということは、毎日自分でお弁当を作られているのですね! すごいです!」
昨日出会ったばかりの女の子に、話してないことを『そういえばそうだった』と言われる。何度経験しても不思議な感覚だ。
「一人暮らししている事は知ってるのか。俺の事、どこまで知ってるんだ?」
「ゲームの中に登場した事は基本的に全て知っていますよ。数学と体育の成績が優秀なこととか、男子校育ちで女性に免疫がないこととか。あとー、ご家族のこととか。」
家族のこと。そう言われて、俺の身体はびくっと強ばった。
「…大丈夫ですよ、そんなに警戒しないでください。誰にも言ったりしませんから。」
競日はそう言って、女神のような柔和な笑みでこちらに微笑んだ。
俺は、家庭環境に恵まれなかった。小中といじめられてきた理由もそこにある。
これは俺が小学校一年生の時の出来事だ。ある時、無差別大量殺人事件が起きた。とあるテーマパークのアトラクションの中の一つ。狭い空間に閉じ込められた客とスタッフが全員殺害されるという凄惨な事件は、当時日本の人々を震撼させた。
その犯人は、東海林 明仁。俺の父親だった。齢六つだった当時の俺にとっては、頭で分かっていても理解するのが難しかった。
それからすぐ、大量の報道関係者が家を囲むようになった。六歳だろうとお構い無しに、彼らは俺にマイクを向けた。自分の中ですら飲み込めていない気持ちを無理やり聞き出そうとした。中には、『あなた達が殺人鬼を育てた可能性はないか?』『東海林 明仁の罪を償うつもりはあるのか?』など、とても人間の血が通っているとは思えないような言葉を投げかけられた事もあった。
そうやって大々的に報道をされてしまっては、各所に知れ渡るのも時間の問題だ。近所の人々から「出ていけ」と様々な嫌がらせをされ、母親は職場をクビになった。そして俺は、学校で殺人鬼の息子と呼ばれ、いじめられるようになったのだ。
殺人鬼の息子と関わりたいやつなんていない。今まで仲良くしていた人たちも俺と距離を置くようになった。いじめてくるやつらは極小数だったが、俺を助けようとする人なんていなかった。それは教師も同じだ。
職を失った母親は、母親方の祖父母から金銭的な支援を受けて俺を養った。父親方の祖父母とは連絡が取れなくなった。
その犯行の凶悪さから、東海林 明仁の裁判は爆速で進んだ。そして俺が中学一年の時に、彼の死刑が執行された。死刑執行のニュースによって、世間が忘れかけていたあの事件は再びフォーカスされる。あの時と同じように報道関係者が押し寄せ、中学でもまた、いじめられた。
いじめに合っていたのは俺だけじゃない。報道関係者や近隣住民からの嫌がらせに耐えられなくなった母親は、東海林 明仁の死刑執行から約半年で自殺した。一人残された俺は、意に沿わず一人暮らしになってしまったのだ。
変わらず金銭的な支援をしてくれる祖父母に甘え、俺は地元からなるべく遠くのこの高校へ入学した。幸い、俺が東海林 明仁の息子だということを知っている人は一人を除いていなかった。
いじめのない平和な生活を手に入れた。けれど、仲良くなって話しをすればその事について聞かれるかもしれない。そう思うと、クラスメートたちと仲良くなることが怖かった
競日は、そんな俺の過去を全て知っている。過去を知った上でこうして話してくれて、隣で一緒にお弁当を食べてくれる。そう思うと、彼女の隣はすごく居心地よく感じた。
「他にも色々知ってますよ。高いところが苦手で、観覧車の中で漏らしてしまった時のこととか。」
「それは知らないで欲しかった…。」
昔の恥ずかしい出来事を話され、俺は顔が熱くなる。そんな俺の様子が面白いのか、競日はお弁当をそっちのけにして、とびきりの笑顔でこちらの顔を覗き込んでいる。俺は彼女に目を合わせず、誤魔化すように忙しなく箸を動かした。
そんな俺を手助けするかのように、突然あたりが騒がしくなる。中庭の女子たちがきゃあきゃあと黄色い声を上げて色めき立っているのだ。
「何やら騒がしいですけど、何でしょう…?」
「ああ…、多分探偵王子が来たんだろ。」
探偵王子。この学校にいる者でその名を知らない者はいない。今やメディアにも取り上げられるほどの有名人だ。
中学生の時にたまたま居合わせた難事件を解決してみせた彼は、高校二年にして警察から度々協力を頼まれるほど明晰な頭脳を持つ。彼が協力した事件で解けなかった謎はないとかなんとか。
警察の手伝いをする彼は学校に来る頻度も疎らで、今日もこの時間に遅れて登校らしい。
これだけでも十分に漫画の主人公を張れるほどのスペックを誇っているが、加えて眉目秀麗ときたものだ。神は彼に二物を与えすぎだと思う。その整った顔立ちも相まって、一年の女子達は早くも彼に夢中なのだ。
「ああ…、西園寺 秀ですか?」
「競日が知ってるってことは…、」
「ええ。彼もゲームに登場するキャラクターです。」
彼がゲームの中のキャラクターである事は、なんとなく納得してしまう。神に愛された人物だとは思っていたけど、まさか開発に愛された人物だったとは。彼なら十分、乙女ゲームのヒーローを張れるだろう。堂々とパッケージの中央を飾れるくらいの見目をしている。
「あいつがゲームのキャラクターか。人気が出そうだな。」
「実際人気でしたよ。私の周りの女の子は、西園寺さんを推していましたから。」
競日はあまり興味なさそうにさらっとした表情で、卵焼きをつまみながらそう言った。それから、はっと何か思い立ったような表情をしてから競日は俺に目線を合わせる。
「でも、私の推しは遥斗さんだけですから! そこだけは安心してくださいね。」
「…分からん。秀と俺が並んだら、誰だって秀を選ぶだろ。俺のどこをそんなに好きになったんだ?」
「えへへ…、それ、聞いちゃいます?」
競日はにっこりと口角を上げて、少しだけ頬を桃色に染めながらそう言った。
競日は弁当箱をベンチに起き、俺の右手を両手で包み込むように触る。絹のように滑やかな肌の感触に、俺は思わず息を飲む。
「そもそも、遥斗さんは自分で思ってるよりも整った顔立ちをされていますよ。優しく甘い顔立ちの西園寺さんとはタイプが違うだけで。その鋭く雄々しい鷹のような眼光で見つめられると、私っ、ゾクゾクしてしまいます…。」
競日は爛々とした瞳でこちらを見つめ、指先で擽るように俺の手の甲をなぞった。
…やばい。なんか変な雰囲気になってきた。心臓の音が外に聞こえていないか不安になるくらいに自分の鼓動の音がうるさい。
「そして何より、遥斗さんはー」
競日が何かを言いかけた、その時だった。
「あれ、ただの遥斗じゃないか。中庭にいるなんて珍しいね。」
競日の言葉を遮るようにして、その男は俺に話しかけてきた。
噂の探偵王子、西園寺 秀だ。
「…もしかしてお邪魔だったかな?」
俺の手を握る競日を見て、秀はそう言った。秀の言葉に、競日はぱっと俺の手を離した。
「いえ、大丈夫ですよ。」
未だに心臓が高鳴っている俺とは対極に、競日は既に赤みの引いたいつも通りの笑顔で秀に笑いかけた。
「こんなかわいい女の子と二人でランチだなんて、遥斗も隅に置けないなぁ。君、一年生?」
「いえ、二年A組の競日 マナと申します。今日からこの学校に転入してまいりました。よろしくお願いいたしますね。」
「セルフィ・マナさん」
「セルフィじゃなくて競日です。せ・る・ひ」
「セ・ル・フィ」
「もうセルフィでいいですよ。私のあだ名第一号はセルフィにしてあげます。」
競日と秀はそう言って、楽しそうに笑った。
…なんだか、複雑な気分だ。ただのなんて事ない会話なのに、何故か心にモヤモヤと霧がかかるような不快感に襲われた。
「そんな事より、只野 遥斗って誰です?」
「ああ、ただの遥斗ね。一年の頃、遥斗に苗字じゃなくて名前で呼んでくれって言われたんだ。『俺は東海林じゃない、ただの遥斗だ』ってね。面白いから時々そう呼んでいるんだ。」
「へぇ、面白いですねぇ! 痛可愛いです!」
「おい、あんまり変なエピソード広めんな」
競日と秀は、繰り返し俺を「ただの遥斗」「ただの遥斗さん」と呼びながら笑った。
確かにあの時の言い方はちょっと中二っぽかったかもしれない…。こうやって散々秀にいじられていたから、競日への言い方には少し気を使ったつもりだった。
「はー、面白かった。」
秀は一通り笑い終えた後、目尻に浮かぶ涙を手で拭いながら競日に向き直った。
「そういえば僕の自己紹介がまだだったね。僕は西園寺 秀。僕も同じ二年A組だ。よろしくね。」
「ええ、よろしくお願いいたします。」
秀が差し出した右手を、競日は手に取って数回上下に揺らして握手した。握手を終えて手を離すと、秀は「またね」と手を振って校舎へと戻っていった。
「遥斗さん、西園寺さんと仲がいいんですね。」
「いや、別に。秀は誰に対してもあんな感じだから。」
「でも、西園寺さんのことを『秀』と名前で呼んでいるじゃないですか?」
「ああ、あれは俺が『苗字じゃなくて名前で呼んでくれ』って言った時に、『なら僕の事も名前で呼んでくれ』って言われたんだ。」
「なるほど。交換条件ってやつですね。」
彼も彼で、自分の苗字が嫌いらしい。苗字が嫌いと言った彼の顔は、普段笑顔を絶やさない彼からは想像できないほどに曇っていた。訳ありだと悟った俺は、特にその話題は深掘りしなかった。
秀はいいお家柄のお坊ちゃまだ。世間からも持て囃され、期待されている。平民の俺には全く想像つかないが、彼には彼なりの苦労があるのだろう。
「あ、そうだ。遥斗さん、放課後はお暇ですか?」
「まぁ、特に用事はないけど。」
「でしたら、一緒に遊びに行きませんか? せっかく転生してきたので、この世界の中を色々と見てみたいんです! 案内していただけませんか?」
競日はそう言って、子供のようにキラキラした瞳でこちらを見つめた。
そっか。俺たちにとっては見慣れたこの世界も、彼女にとっては"異世界"なのか。
「いいよ。行きたい場所はある?」
「『ワンダー』っていうショッピングモールがありますよね! あそこに行ってみたいです!」
ワンダー。学校の近くにある小さなのショッピングモールだ。学園祭の買い出しなんかには便利だが、遊びにいくとなると高校生にとっては少し物足りない。
「すぐ近くのアレ? 都心の方に行けばもっと遊べる所あるけど、そこでいいのか?」
「いいんです! 聖地巡礼させてください!」
「…分かった。」
俺がそう答えると、競日は無邪気な笑顔で「やったぁ」と飛び跳ねた。可愛い。彼女は浮かれた様子でスキップしながら、校舎の中に戻って行く。
そういえば、放課後に女子と2人で遊びに行くなんて、初めての経験だなぁ。そう思うと、散々行き飽きたあのショッピングモールも心躍る場所に思えてきた。
ハイテンションの競日の背中に俺は顔を綻ばせながら、彼女の後ろをついて歩いていった。
◆◇◆
「わぁ~~~!! 実物で見ると大きいですねっ!」
放課後、ショッピングモール・ワンダー前。
この歳になってこんな小さなショッピングモールの前でこんなに喜べるのは彼女くらいだろう。まるで小さな子供のように小さくジャンプしながらはしゃいでいる。嬉しそうな彼女を見ていると、俺まで幸せな気分になってくる。
「ささ、早く中に入りましょ!」
競日はそう言って、ワンダーの入口を指さしながらこちらを見た。
そして彼女は俺の手を掴み、ごく自然に手のひらを合わせて手をつなぐと、俺を引っ張ってワンダーの中へと入っていった。
そのままの流れで、俺と競日は手をつないだまま肩を並べて歩く。なんとなく緊張して、俺は並ぶ店に興味があるふりをして彼女のほうは見られないでいる。
人生で初めての経験に、俺の心臓はどくどくと早鐘を鳴らしている。競日と一緒にいるとドキドキさせられることばかり起きる。緊張で手のひらに汗をかいてきた気がする。汗ばんだ手を不快に思われないだろうかと不安になる。競日の顔色を見て、嫌そうにしていたらすぐに手を離そう。そう思って、俺は勇気を出して競日のほうを振り返った。
すると競日は、頬を赤らめて下をうつむきながら歩いていた。俺の視線に気が付いたのか、競日はこちらに目を合わせると、照れくさそうに笑った。
「…すみません。私、なんか緊張しちゃって手汗が…。嫌じゃ、ないですか…?」
「いや、全然…。俺も同じだし…。競日のほうこそ、嫌じゃないのか?」
「私は、嫌じゃないですよ? 嬉しいです。大好きな遥斗さんと、手を繋げて。」
彼女は恥ずかしそうに、小さな声でそう言った。
…こんな幸せなことがあっていいのだろうか。突然目の前に現れた美少女が、こんなにも俺のことを好いてくれているなんて。
それからしばらく俺たちは、ほとんど会話をしないまま、手をつないでゆっくりと歩いた。
「…あ、ここ! このお店、見たいです!」
沈黙を破る様に、競日は右手に見えた店を指さした。アクセサリーショップだ。手の届きやすい価格で、トレンドを押さえたアクセサリーを取り揃えている。俺もよく利用する店だ。
「そういえば遥斗さん、右耳にピアスを開けていらっしゃいましたよね?」
「ああ。塞がらないように休日はよく付けてるよ。」
「一セットのピアスを買って、片耳づつお揃いで付けませんか?」
お揃いのピアス。いかにもカップルらしい提案だ。
「競日も穴開けてるのか?」
「いえ、開いてません。遥斗さん、私にピアス、開けてくれませんか?」
「マジ…? 俺、他の人に開けた事ないし、上手く出来るか分からないけど。」
「大丈夫です。私、遥斗さんに開けてほしいんです。」
そう言いながら上目遣いでこちらを見る競日に、俺はごくんと息を呑む。
「…いいよ。」
「やったぁ! それでは、早速選びましょっ!」
彼女の方が俺のことを好きで、俺はまだ彼女のことをよく知らない。そのはずなのに、とっくに俺は彼女の不思議な魅力に飲まれていた。
競日は楽しそうにピアスコーナーを吟味している。気に入ったものが見つかったのか、その中から一つを手に取ると嬉しそうにこちらに見せてきた。
「これ! 可愛くないですかっ!?」
細身で縦に長いシルバーのチェーンの先端に、小ぶりのハートが揺れている。可愛らしいデザインのピアスだ。彼女が付けるなら似合いそうな素敵なチョイスだが、お揃いでつけるにしてはデザインがレディースに寄りすぎている。
「競日には似合うだろうけど、俺が付けるには可愛すぎないか?」
「えー、そんなことないですよ! 絶対似合います!」
そう言って彼女は、手に持ったかわいいピアスを俺の耳元へ当てた。鏡に映った自分の姿は、やっぱり変な感じだ。
「…もっとシンプルな方がいいかもですねぇ」
さっきまで『絶対似合う』と言い張っていたくせに、競日の反応は正直だった。自分でも似合わないとは思ったけど、ここまで分かりやすい反応だと少しだけ傷つく。
「…あ、こんなのはどうですか?」
次に競日が選んだピアスは、ひらがなの『つ』みたいなデザインのピアスだった。
競日はそのピアスを俺の耳に宛てがう。シンプルでスタイリッシュなデザインは、自分のスタイルによく馴染んで見えた。
「いいですねぇ! すごくお似合いです!」
競日はテンションを上げてそう言った。そしてそのピアスを自分の耳元にも宛がってみる。ユニセックスなデザインで彼女にもよく似合っている。
「これにしましょう!」
彼女はそう言って、『つ』のピアスを二つ手に取った。二つ並んだピアスを見て、『つ』のピアスが二つ並ぶと、ハートに見える事に気がついた。
ああ、なるほど…。これは『つ』じゃなくてハートを半分にした形だったのか。その事実に気づいた途端、いかにもカップルっぽいチョイスが恥ずかしくなった。
競日はその二つのピアスと、耳たぶ用のピアッサーを一つ手に取ると、他のものは見ずにそのままレジへと向かっていった。
俺はぼーっと適当に店の商品を見ていると、会計を終えた競日はうきうきでこちらへ戻ってきた。そして個包装された二つの小袋のうち、一つをこちらに差し出した。
「はい、これ遥斗さんの分です」
「ありがとう。いくらだった?」
「いえ、大丈夫です。お揃いにしたいと言い出したのは私ですし、これはプレゼントさせてください。」
そう言って競日は、にっこりとほほ笑んだ。
「でも…」
「その代わり、私にピアス。開けてくださいね?」
「……ああ。」
そんな事は先程決まっていた事なのに、あえてもう一度持ち出す事で奢られる理由を作ってしまった。
「それじゃ、早速! 今すぐ、開けましょっ!」
「いいけど…、もうちょっと落ち着いた場所に移動した方がいいんじゃないか?」
平日と言えど、近くに一つしかないこのショッピングモールは多くの人で賑わっている。何か不測の事態に邪魔をされたら危ないし、荷物を広げられる満足なスペースもない。
落ち着いた場所といえばやっぱり家だが…、自宅へ女子を二人きりの状態で招くなんて、こちらにその気がなくても変に勘繰られて嫌われてしまうかもしれない。となるとカラオケか、ネットカフェか? いや、それもまずいか…? そうやって逡巡していると、競日の方から口を開いた。
「遥斗さんの家、ここから近くでしたよね? 一人暮らしですし、邪魔が入る心配もありませんよ。」
…ああ、そういえば彼女は最初の夜、俺の家に降ってきているのだ。ここから家が近いことは知っている。彼女から提案してきたのだ。この提案に乗っても、変な意味には取られないだろう。
そうして俺たちは、俺の家へと移動することにした。
◆◇◆
「整った綺麗な部屋ですね。原作通りです!」
整った、というよりはほとんど物がないという方が正しいような自分の部屋を見て、彼女は興奮気味にそう言った。
今まで自分以外の人間が誰も立ち入ったことのないワンルームに誰かがいるのは、なんだか不思議な気分だ。悪い気分ではない。
競日は部屋のカーペットの隅に鞄を置くと、キョロキョロと見渡しながら部屋内を歩く。そんな彼女を横目に、俺は自分の鞄をデスク脇に置くと、洗面所へ出て手を洗う。ハンドソープのポンプを押し、液状のソープを手のひらで擦り合わせる。モコモコと立つ泡を眺めていると、とんとんと軽やかな足音が聞こえ、彼女がすぐ側へ寄ってきたのが分かった。
「私もお借りしていいですか?」
「もちろん」
俺は手のひらの泡を綺麗に洗い流して、タオルで手を拭きながら彼女に場所を譲った。先に洗面所を離れて部屋に戻ると、俺は戸棚を開け、中から消毒用アルコールとコットン、手鏡を取り出してテーブルの上に置いた。
「色々と準備してくださって、ありがとうございます」
洗面所から戻ってきた彼女は、そう言って微笑んだ。
「ここ、座って」
俺はテーブルの前にクッションを置いてそう言った。彼女は俺の指示通りに、クッションの上へと腰掛ける。
俺はその隣に中腰になって、彼女の長い髪の毛を指先に引っかけ、彼女の耳へと引っ掛けた。俺の爪先が彼女の耳を掠めると、彼女の身体はびくっと小さく跳ねた。そのまま露わになった彼女の耳たぶを親指と人差し指で軽く摘む。厚みのある柔らかな触感が指先に伝わる。そのまま俺は、人差し指で彼女の耳たぶを指さした。
「このへん?」
そう訪ねると、彼女はテーブルの上に置かれた手鏡を手に取る。
「はい、いいと思います。初めてなので、よく分からないですけど…。」
「一つしか開ける予定がないならこの辺でいいんじゃないか? 二つ以上開ける予定なら、二つ目をどこにするかによって変わってくるけど。」
「そうですねぇ、とりあえず今は一つしか開けないつもりなので、そこでお願いします。」
「分かった。」
俺は彼女の言葉を聞いて、コットンにアルコールを含ませる。そのコットンで彼女の耳たぶを拭き、ピアッサーを手に取った。
「~っ、いざ開けるとなると、やっぱりちょっと、怖いですね…っ」
「そうだよな。でも、やってみたら意外と一瞬だよ。注射と同じ。」
俺はそう言って、彼女の耳たぶにピアッサーを宛がった。
「遥斗さん…っ、私、前世でもピアスって開けたことなくて…っ。初めて、なんです。だから、その…優しく…っ、痛くしないで……」
「無茶言うなよ。痛いもんは痛いだろ。…それとも、やめるか?」
「いやっ! やめないで…っ!」
パチン。
こういうのは時間がかかればかかる程怖くなる。そう思って俺は、一思いに力を込めた。自分の手に弾力のある抵抗感が伝わり、時間差で彼女の小さな悲鳴が聞こえてきた。
「終わったぞ」
「びっくりしました……。でも、意外と大したことないですね。」
「だろ。こういう時に大事なのは思い切りの良さだよ。」
競日は手鏡で自分の耳元を確認する。彼女の右耳には、シルバーの小ぶりなピアスが輝いている。
「ふふっ…、あはっ、ほんとに開いちゃいましたねぇ。身体に傷を付けてしまいました。」
競日は嬉しそうににやにやと顔を緩めて、しばらく手鏡を眺め続けていた。
しばらくして彼女は、手鏡から俺の方へ視線を移した。そして前のめりになるようにしてぐいっとこちらへ顔をちかづける。俺は思わず後ろへと引いてしまう。
「どうでした? 遥斗さん。私の身体をキズモノにしたご感想は?」
「…変な言い方するなよ。」
…正直、全く変なことを考えなかった訳じゃない。彼女の妙に意味深な言い回しが、どうしても『そういう風』にしか聞こえないのだ。
「手に力を込めた時の抵抗感…、それが肉を貫いた瞬間に薄まる感覚。ふふっ、どうです? 私をたっぷり感じてくださいましたか?」
そう言いながら、競日は更に身体をこちらに近づけた。後ろに退くと、ごちんと頭が壁にぶつかる。
「中庭で聞いてきましたよね。『遥斗さんのどこが好きなのか』って。途中で遮られてしまいましたけど、続きをお話ししてもいいですか?」
この状況に緊張しすぎて喋れずにいると、競日は俺の返答を待たずに続きを喋りだした。
「私の母親も、殺人鬼だったんですよ。」
彼女の言葉に驚きすぎて、俺は目を大きく見開いた。それは、先程までのドキドキを全て忘れてしまうほどの衝撃だった。
「私の母親の場合は冤罪でしたので、遥斗さんとは少し状況が違いますが…。殺人鬼の娘だと周りにラベリングされる気持ちは、よく分かるんです。」
そう言いながら、彼女は眉を下げて笑った。
「周りからの目に苦しんでいた私にとって、遥斗さんは唯一の理解者だったんですよ。たとえ、それが架空のキャラクターだとしても。」
彼女の言葉を聞いて、頭の中で想像した。周りから殺人鬼の娘だと罵られ、その血が通っている危険な人物だと差別される。誰にも理解されず一人きりで、ゲームの世界にいる同じ境遇のキャラクターにひと時の安らぎを求める彼女を。
もしかしたら、異世界転生というこの異様な状況も、ゲームにしか縋ることが出来なかった不幸な彼女に神様が用意してくれたプレゼントだったのかもしれない。
そう思うと、俺の胸は強く痛んだ。
転生後のこの世界では、彼女に幸せになって欲しい。
幸せに、してあげたい。
「遥斗さん…。」
彼女の影が覆いかぶさり、視界が暗くなる。 彼女の顔がどんどんと近くに降りてくる。このまま彼女に身を任せたらどうなるのか。経験のない俺でもそれくらいはさすがに分かった。それはとても魅力的で、このまま身を任せてしまいたくなる。でもそれは、誠実じゃない。
なけなしの理性を振り絞って、俺は彼女の肩を押し返した。
「…ダメだ。こういうのは、もっと、その……。」
混乱と緊張と羞恥心が入り交じって、上手く言葉を紡げない。舌が回らずしどろもどろになりながらも、俺は言葉を続けた。
「競日は、ずっと昔から俺の事を知ってるのかも知れないけど、俺にとっては、今日初めてちゃんと喋った人で…、それに、競日の知ってる俺が、今ここにいる俺と全く同じ人物なのかは分からないから…、だから、こういうのはもっと、お互いにちゃんと……」
「遥斗さんは真面目ですね」
俺の言葉を遮って、彼女はそう言った。彼女はどこか寂しそうな、はたまた怒っているような、そんな表情でこちらを見つめていた。
そして彼女は腰を上げて立ち上がる。部屋の隅に置かれたバッグに近づくと、手に持って肩にかける。
「ピアス、ありがとうございました。お揃いで付けられる日を楽しみにしていますね。」
彼女はそう言って、部屋の出入口のドアノブに手をかけた。
「混乱させてしまってすみません。今日はもう帰りますね。」
「あ…、お、送って行くよ」
「大丈夫です。寄るところがありますので、お気になさらず。また明日、学校で会いましょう。」
競日に押し倒された体勢のまま動けないでいる俺を他所に、彼女はそそくさと扉を開け、部屋を出てしまった。
………ミスったかぁ…?
俺はゆっくりと身体を起こすと、激しい後悔に苛まれて頭を抱えた。
少し言葉足らずだった気もする。自分の気持ちは既に彼女に随分傾いていて、ただ正式な関係性がない今はまだ早いと、そう伝えたかったのに。あの言い方ではまるで俺が彼女を拒んでいるようだ。千載一遇のチャンスを逃してしまった気がする。ああすれば、こうすればという後悔がいくらでも浮かんできて、頭の中で何度もその瞬間をリトライする。この世界がゲームの世界だというなら、セーブとロード機能くらいは備えておいてほしいものだ。
そんなことを思っていても仕方ない。明日競日に会ったら、誤解させてしまったかもしれないということをちゃんと話そう。親が殺人鬼であるなんて、一生に一度出会うことさえ奇跡のような共通点なのだ。彼女がゲームの中の俺の存在に救われたというなら、俺もそうでありたい。
もっと彼女と多く時間を過ごそう。もっと色々な話しをして、色々な悩みを吐露し合って、それでも、画面の向こうの存在でない俺の事を変わらず好きでいてくれたなら。
その時は、ちゃんと彼女の気持ちに応えよう。