プロローグ 空から女の子が
空から女の子が降ってきた。
そんなファンタジーみたいな出来事が、まさか自分に訪れるなんて。
その女の子は目を瞑ったまま、ふわふわと宙に浮いて風に髪を靡かせ、物理的に有り得ないくらいにゆっくりと降下してきた。しかも、ピンポイントで俺のベランダに。
俺は咄嗟に手を広げ、彼女を両手で受け止めた。柔らかな布が手のひらに触れた後、彼女の肌の温もりが伝わってきた。
その後、直前まで宙に浮いていた彼女の身体が一気に落ち、どっしりと俺の腕に質量がのしかかった。
突然の出来事に油断していた俺は彼女を支えきれず、その場に倒れ込んでしまう。倒れ込んだ俺の腹の上に彼女が乗っかるような体勢になった。
「いてて…っ」
倒れた拍子に頭をぶつけ、俺は思わずそう呟いて自分の頭を撫でた。
そんな事をしていると、俺の上の女の子はむくりと起き上がった。起き上がる時に俺の頬に思いっきり手をついて体重をかけている事には気づいていないようだ。
「ここは…?」
彼女は不思議そうにきょろきょろと左右を見渡してから、違和感に気がついたのか下を見た。しばらくして状況を確認したのか、彼女は慌てた様子で俺の上から飛び退いた。
「すっ、すすす、すみませんっ!」
彼女はその場に立ち上がると、ぺこぺこと何度もお辞儀をしてこちらに謝った。
彼女の出で立ちは日本人らしいものではなかった。長いブロンドの艶やかな髪、その隙間からルビーのような赤い瞳が覗く。身長は女子にしては高めで、165センチの俺と大体同じくらいだろう。伸びる手足もすらりと長く、肌の色は湯に浸かると透けてしまいそうな程に白い。そして何より、カジュアルなコルセットドレスとぴんと伸ばした高貴な佇まいは、ヨーロッパの貴族を彷彿とさせるものだった。
そんな彼女は一通り謝り終えると、ぺこぺこと下げ続けていた頭を上げ、俺に目線を合わせた。
その瞬間、彼女は驚いたように瞳を大きく見開いた。
「あ、あなたは……、東海林遥斗さんっ!?」
彼女の言葉に、俺も驚いた。彼女が口にしたのは、間違いなく俺の名前だったのだ。東海林だなんて珍しい苗字は勘で言い当てられるものではない。
「なんで俺の名前を…?」
俺の名前を知っているなんて、俺の知り合いか古い報道関係の人間くらいだ。俺は彼女を記者か何かかと疑って顔を顰めた。
しかし、彼女の回答は俺の予想の遥か斜め上をいくものだった。
「ああ…! これが異世界転生というものなのですね! まさに、私の大好きなゲームの中に登場する東海林 遥斗そのものです!」
彼女は興奮気味に早口でそう捲し立てながら、俺の頬をぺたぺたと触った。
ここが、ゲームの世界…? ゲームの世界っていうのはもっと、魔法が使えたり、特殊な能力があったり、そんなファンタジックな夢のある世界じゃないのか?
俺がずっと生きてきた何の変哲もないこの現代日本がゲームの世界だなんて、にわかにも信じがたかった。
「ああ…、まさか推しと出会える日が来るなんて…! 東海林さん、画面の向こうにいる時からずっと、貴方のことをお慕いしておりました…。」
彼女は俺の両頬に手を添えると、紅潮した顔で俺の瞳を見つめてそう言った。
その状況に、俺は思わず視線を逸らす。小中と男子校にいた俺は、女性との接触に極度に慣れていないのだ。それも彼女のような同年代の美少女なら尚更。どんどん鼓動が早まり、身体中の汗腺からぶわっと一気に汗が吹き出した。
「このブロンドの髪…、ふふっ、やっぱり。私は竸日 マナに転生したんですね。」
彼女は俺の顔に手を添えたまま、自分の胸元に垂れる髪の毛を確認する。そして満足そうに笑うと、俺から手を離して立ち上がった。そして彼女は、ベランダの手すりを掴む。
「また会いましょうね、東海林さん。」
彼女はそう言って、手すりに体重をかけてふわりと体を浮かせると、手すりを飛び越えて外へ落ちていった。
「あっ、ちょっ!」
危ない、と手を伸ばすももう遅い。俺の手は空を掴み、彼女はひらりと下へ落ちていく。手すりを乗り出して下を確認すると、彼女は華麗に着地し、スキップしながら夜道を駆けていった。
いくら2階とはいえ、この高さから飛び降りたら足が無事ではないだろうに…、元気な人だ。
突然空から降ってきて、俺の心を掻き乱すだけ乱してすぐに消えてしまった。ひと夏の夜の不思議なボーイミーツガールは、まるで嵐のように過ぎ去っていったのだった。