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金魚鉢

作者: shiro


静かなようでいて雑談が飛び交う、葬儀後の空間。

彼女はそっと立ち上がって、あの子誰かしら、と視線を送ってくるその女性に声をかけた。


「すみません、ここからいちばん近い海岸はどちらになるのでしょうか」

「ここから?そうねぇ……」












切符に印字された今日の日付をじっと見つめてから、それをポケットにしまう。

彼女は教えてもらった通り、ひとり電車に乗っていた。


ボックス席に座って、少しだけ開けた窓。自分の長い髪がそよぐ感覚を体に焼き付けながら、見えてきた広い海をただ眺める。




「……。」




その女性が教えてくれたのは、彼女がまだ見た事のない灰色の海だった。

太陽を反射して美しく光っているのに、自分がこれまで見聞きしてきた海とはどれとも違って、深くてどこか寂しい、一面グレーを纏うその景色。



……ずいぶん生きたけれど、まだ知らない風景もあるものなのね、



そんなことを考えながら、目的の駅で降りる。

午後の日差しの中を歩けば、海はもう、すぐそこ。



「今、あなたはどこにいるのかな」



目を閉じればいつだって鮮明に思い出せる、彼と出会ったあの日。もう何十年も昔の、遠いあの日。
















「……きみ、だぁれ?」


不思議そうにこちらを見つめる表情を他所に、彼女は長い尾びれを翻しながらくるくると泳いでいた。


「私は人魚よ。名前は特に決まってない」




次は誰が私を見つけるかしら、

そう思いながら小さな金魚鉢で過ごして、もうずいぶんと長い時が経った。

最後の持ち主がつけた名前も、あれ、思い出せなくなっている……



「すっごく、きれい!」



そういえばこの子は私のことを“なんなのか”ではなく、“だれなのか”と尋ねたな、

ぼんやりとそう気づいて、彼女は金魚鉢の縁に上がった。

頬杖をついて、じっと子供を覗き込む。



「ありがと」

「ちっちゃくて、かわいい」

「背丈なんて自由に変えられるわ」

「ほんとう!?すごいね!」



キラキラとした穢れのないその目は、久しぶりに彼女の心を照らすものだった。

頭の隅を過っていく、かつての持ち主たち。付随する様々な思い出。



「……ねぇ、私、この子でもいいわ」



いかにも怪しげな雑貨屋の店主にそう告げると、店主は無言で少年を見やった。


「?」

「…………だとよ。気に入ったなら持っていきな」

「え!?」









そうして彼女を連れて帰ることになった少年は、それはそれは嬉しそうに毎日金魚鉢の前に張り付いていた。


「それでね、ぼく、今日はチョウチョのことを習ってね……」


「君、隠れるの上手くない?母さんが何もいない金魚鉢なんか置いて変なの、だってさ!」


「俺、大学受かったよ!」


「職場の人たち、いい人ばっかでさ。今度同期の結婚式行ってくるんだ」




何年経っても、何十年経っても、彼は変わらなかった。

成長するにつれて金魚鉢の前にいられる時間は変わっても、いつも嬉しそうに彼女とのおしゃべりを楽しんだ。



あどけない、幼い笑顔。

少し成長した、大人びた横顔。

年齢を重ねてからの落ち着きのある微笑みも、晩年の目尻の下がった柔らかな目元も。


全部全部、こんなにも鮮やかに浮かんでくる。






「知ってた。知ってたわ、ちゃんと。ちゃんとわかってた」


涙はひとつも零れていないのに、彼女の顔は泣き顔以外の何物でもない。


「あなたは毎日、私に恋をしていたでしょう?」


彼女が笑った時。怒った時、悲しんだ時、拗ねた時、眠った時、歌った時、考え事をしている時……あらゆる瞬間に、彼はいつも恋をし直した。

いつだって、まるで初めて恋をしたような眼差しで彼女を見つめた。

どれだけ時が過ぎても、いくつになっても。



「本当になんて奇矯で、なんて純粋なひと」



それがどれだけ、彼女の心に染みたことか。

数え切れない人間の手を渡り歩き、辛いほど長い時を生き、人間以上にひとの感情を知り尽くした彼女。

裏切られたことも、殺されかけたことも、何度もあったけれど、それでも、




「それでも、消えようと思わなかったのにな」







満ち足りたようなため息をついて、彼女はゆっくりと水の中へ歩みを進めていく。


「希望を捨てきれなかったの。ひとのこころ、に」


ちゃぷちゃぷと絡みつく海は、残り僅かな彼女のいのちにはとても重い。


「その執着を、あなたが外してくれたのよ」


そうして、もう、足が進まなくなってきた頃。


「ありがとう。これでやっと、海に還れるわ」


かつて彼に頬を撫でられた時のようにはにかんで、彼女はそっと、沈んでいった。









静かに湧いてくる、小さな泡たち。

それらは速やかに消え去って、水面はまた、いつも通りに波を送りだす。


彼が生きた時代も、彼女の生きた時代も、すっかり過去にして、全てを優しく飲み込んで。

まるでこの世にはそんな尊い時代ばかりのような顔をして。

一方で、そんな時代なんてなかったような顔もして。


ただ、淡々と。

美しいグレーは、無情なほど変わらずに輝いていた。
























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