死について考える
死とは何か。それについての見解をこれから書こうと思うが、死に関しては過去に、私よりも遥かに賢い人達が優れた多数の答えを出しているので、今更、私如きが死について語るというのも恥ずかしいものがある。
ただ、私は、答えが既に出ていたとしても、自分の頭でそれを考えてみないと納得出来ないので、これから書くのは、既に出ていた答えを自分の頭で考えた、その部分の見解だ。私はオリジナルな見解を出す気はないし、そんな能力もない。ただ、今を生きているのは他ならぬこの私なのだから、できる事なら自分の頭で考えみたいと思っているにすぎない。
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死とは何か。それを一言で言えば、「生の崩壊」だ。生の基盤が崩壊する過程が通常、死と呼ばれている。
死が生の崩壊だと言うと、それは「常識的な意見だ」とうなずかれるかもしれない。ただ、もし死が、生の崩壊であるなら、死もまた生の一部となるだろう。生の崩壊はあくまでも生の内部で起こりうる事であり、生の外部で行われるものではないから。
もう少し正確に言う。古来から言われてきたし、ウィトゲンシュタインも言っているが、そもそも死は生の出来事ではない。生きている間は死を経験できないし、死んでしまえば、意識は死んでいるから、死を経験できない。だから、「死は生の崩壊」とは不完全な言い方だ。生の崩壊とは、生の一部の過程であり、死ではない。
それでは死はどこにあるのだろうか。繰り返すが、我々は死を経験できない。死んでしまえば死は経験できないし、生きている間は生しか経験できない。だから、死は、常に他者のものだ。我々は自分としては死を経験できないので、経験する死は常に他人のそれである。
しかし他人の死はあくまでも他人の死でしかない。我々にとって、他人の死は、一種の喪失と思える。昨日まで元気であった人が突然亡くなる。「信じられない」と人は言う。
「信じられない」というこの言葉に注意しよう。してみると、我々は何かを信じていたという事になる。何を信じていたかと言うと、彼が「生きている事」を信じていたのだ。
我々は他人の死を突然のものとして受け取る。ある物が存在していたのが、突然消える。そのように思える。しかし、存在とは果たしてそんなに固定的なものだろうか? ここに疑問がある。実を言うと、我々が他人の死を突然の断絶と捉えるのは、我々の生に対する認識が間違っているからだ。
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我々は自分の死を自分で経験できない。だから、存在するのは実際に生だけに過ぎない。ここで簡単な思考実験をしてみよう。
ある人が事故で、意識を失うほどの怪我をする。彼は病院に運ばれ、手術を受ける。彼が助かった場合と、助からなかった場合を考えてみよう。
この人物は意識を失うほどの状態になっている。彼が助かった場合と、彼がそのまま死んでしまった場合、二つの場合を考えても、彼が意識を失った地点で区切るならば、経験としてはその二つは変わらない。彼が昏睡状態に陥ってそのまま死んでしまっても、彼は死を経験できないから、そこから助かったとしても、経験として違うのは、あくまでも助かった以降の部分でしかない。彼が昏睡状態に陥っている部分までは、経験としては二つは同じ事態だ。片方は死んでしまうが、死んでしまえばもう死は経験できないから。
こう考えると、我々が死を経験できない、というのがよくわかる。我々が経験できるのはあくまでも、生だけだ。
しかし、生の衰弱、最初に言った、生の崩壊とはどういう現象だろうか? これは死に近づいていくそういう道のりではないか? この経験についても考えてみなければならない。
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生が衰弱していく現象、病気とか老化は紛れもなく、生の一部分である。老人を死者とは我々は呼ばない。当然だろう。
だが、我々は、年を取る事を恐れるし、病気、事故を恐れる。年を取り、体が動かなくなったり、容貌が醜くなったりするのを極端に恐れる。その時、我々は何かが「失われた」と感じる。
しかし一体何が「失われた」のだろうか? 失われるという場合、「在る」が「ない」に変わらなければならない。この場合、「若さが失われた」とか「右足が失われた」などと人は言うだろう。逆に言えば、「若さ」とか「右足」とかはあって然るべきものと考えられていたわけだ。
他人の死を喪失と考える場合と同じく、この認識に誤謬が存在する。「若さ」というものを考えた時、それは硬い石のようにそこにあるものではない。それは生成され、変化されながらも維持されているものだ。というより、生そのものが不断の変化である。
生きている事は、確固としてあるものではない。生を保つには食料を取り、睡眠を取り、運動しなければならない。そして食料を得るには他の生命を殺し、自分自身を養う必要がある。生命が存在する事は、無垢ではない。
根底的に考えるのであれば、幼い子供であろうと、赤ん坊であろうと、完全なる無垢ではない。もちろん、彼らはほとんど思考しないし、生まれてこようと決めたわけではない。それでも彼はこの世に存在してしまったのであり、そのまま、存在し続けようとする。すると、彼らはその為の手助けを必要とし、彼らの体を養う何物かが必要とされる。この存在は他の犠牲や、他の献身を必要とするし、それを当然のように受ける。最も無垢な子供でも、完全に無垢なわけではない。
我々は、普段、自らの生命がある事を有難がったりしない。だが、死刑判決から一転、助かった人間は、自らの生命があるのをほとんど僥倖のように感じるだろう。事故で怪我して、呼吸が難しくなった人が手術で呼吸できるようになったら、呼吸できる事をありがたいと感じるだろう。これほどありがたく、嬉しい事はないと思うだろう。
しかし、我々はそんな事を「有り難い」とは思わない。生命というものの最も大切な維持を、あまりにも当たり前の事だと見てしまっている為に、それが存在する事に関しては何も感じなくなっている。それは当たり前であり、その次の所得であるとか、異性の獲得であるとか、そうしたものを求める。
だが、老化や病気はそういう当たり前のものが当たり前ではなかったと気づかせてくれる。実際にはこれほど尊いものはなかったと気づく。
そもそも、生命とは、連続する変化であり、その恒常的な維持は存在というよりは、川の流れのようなものと考えた方がいいだろう。その川が痩せ細る時、我々は何かが失われたと感じる。
しかしその川は一体どこから出てきたのか? 我々は、生命を維持する時に無垢ではありえない、と私は言った。様々なものが犠牲にされ、他の献身があって我々は生きている。だが、我々はそのように維持された「自分」をあまりにも当たり前のものとみなしている為に、それが喪失する時に深い喪失感に囚われる。しかしそれは生の根源を考えれば、普通の事だと言えるのではないか?
もし、知性が生命の全現象を俯瞰して捉える事ができれば、生命はそれが受けた恩恵と同じように、その喪失をも与えられるという事になるのではないか。全ての人間が平等とは言わないまでも、我々が存在しているという「プラス」が同じように、他から送られた「マイナス」によって帳消しになる。その過程は山形の曲線を描いている。しかし我々は生命に関しては当然の事としか考えていないから、「マイナス」の部分ばかりが目につく。それによって、我々は病気、老化、身体の欠損などを突然の墜落のように感じる。
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…このような言い方は傲慢だというのは自分でもわかっている。大部分の人間に関しては気にしないが、実際に闘病中だとか、事故で生涯に渡る怪我を負った人に「綺麗事を言うな!」と怒られる可能性もある。ただ、今しているのは、あくまでも原理的な話なので、勘弁していただきたい。
…元々、私がこうした問題を考えたのはドストエフスキーの言葉が気にかかっていたからだ。ドストエフスキーは次のような事を言っていた。
「人が不幸なのは、自分が幸福だと気づかないからだ」
この言葉が気にかかっていた。ウィトゲンシュタインは、ドストエフスキーの幸福感を引き継いでいる。彼は、死の迫る寸前においても自らの生を「幸福だ」と言おうとした。果たして人間にそんな事が可能なのか? 私は考えざるを得なかった。
ドストエフスキーは死刑判決を食らった人だ。実際にはそれは狂言で、死刑判決は最初から皇帝の恩赦で取り消される予定だった。だが死刑判決を食らった人達はそれを知らされなかった。彼らは本気で死ぬと思いこんでいた。中には発狂した人物もいた。
ドストエフスキーは死刑判決を免れ、命を助かった。彼は助かった直後の書簡で「今までの自分は首の上から切り落とされた」と言っている。ドストエフスキーは、若くして流行作家になった。当時の批評家で大家のベリンスキーに絶賛され、文壇デビューした。要するにドストエフスキーは若くして、自分の夢を叶えた。
若いドストエフスキーは傲慢になった。彼は政治運動に手を出して、死刑判決を食らう。命を助かるが、シベリアの牢獄で恐ろしく辛い生活を送る。彼はシベリアでは、福音書一冊しか読む事ができなかった。
こうした体験を通じてドストエフスキーはおそらく、生命というのを「死」という見地から見たのだと思う。ここで言う「死」は、実際の死とは違い、形而上的なある地点とでも言うものだ。
光は闇との対比において初めて光だ。光の中に光を置いても目立たない。ドストエフスキーは死刑判決のような極限的状況を経て、人間の生命が何であるか、自分の生命がいかに貴重であるかを知った。それが先の言葉
「人が不幸なのは、自分が幸福だと気づかないからだ」
という意味なのではないか。「カラマーゾフの兄弟」の中には実際にそうしたエピソードも出てくる。ゾシマ長老の兄が死ぬ話だ。
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死について語る、という時、この程度の短文では分量としてはあまりにも少ないが、自分が言いたかった事を最後にまとめておこうと思う。
まず、死というのは生の内部の経験ではない。我々が経験できるのは生のみである。他者の死を我々は観察できるが、それは死を経験するわけではない。
しかし生の衰弱とか、肉体の毀損というものは存在する。我々はこれを恐れ、実際にそうなった時、「理不尽」を感じる。
しかしこれに理不尽を感じるのは、仮定的な話であるが、知性が自己の全存在を閲覧していないからではないか。知性が自己の全存在をはっきり視認できれば、彼は、彼が当たり前のように生きている状態がいかに嬉しく、有り難い事を悟るはずだ。
そうなると、それが失われていく過程も、そのような全的な知性を仮定するならば、それは承認されなければならない。彼は生きた故に死ぬのだ。そこには一つの物語の終焉がある。英雄が悲劇に終わるのを我々はある快感をもって眺める。それは、存在を描く物語を楽しんでいるからで、「存在を描く物語」と私が言っている事柄は「意識が経験する物語」とは違う事柄だ。
近現代人は意識重視である。人々がエンタメが好きなのは、意識内部に幸福や快感がやってくる事を「永遠」としてとどめておきたいからだ。しかし、意識よりも彼の存在の方が、より大きな領域だ。
シェイクスピア『ハムレット』におけるハムレットは、しばしば近代的人物の先駆けと言われる。彼が内省的な人物だからだ。彼は、復讐を決意するが、同時にそんな事をしたくない自分もいて、二つの自分の間で揺れる。
意識を最終的な結論、アルファにしてオメガである全ての帰結点と考えるならは、この意識内容が何らかの充足を得る地点で物語は終わらなければならない。つまり、ハムレットが悟りを開くとか、復讐を果たして深い満足をするとか。(トルストイの作品はそんな終わり方をする) ところがシェイクスピアはそんな終わらせ方をしない。
ハムレットは復讐を果たすが、彼が満足したのか、しなかったのかはわからない。彼の体には毒が回っていて、親友のホレイショーに事件を他の人々に伝えるように願って、そのまま死んでしまう。
シェイクスピア以外の作品のストーリーもあれこれとあげたいが、長くなるのでやめる。とにかく、私が疑問だったのは、意識内部の疑問は解かれる事なく、いわば問題そのものが消失するように、彼は死んでいく。優れた物語にはしばしばそういう終わり方がある、という点だ。
この事は我々にどういう結論を与えているのだろうか。悲劇にカタルシスを感じる我々の深い無意識は、実際には、意識内部における快楽や、不快の感情、思考などよりももっと深い部分に感じ入っているのではないか。それは、彼が生きて、死んでいく様それ事態であって、その生死の中に、彼の意識の諸形態(時と共に進行する様々な思考や知覚、感情)はくるまれている。
我々の存在そのものが生きて死んでいく事。それ自体に一つの統一性がある。意識は、喪失や欠損、要するに様々な不幸を理不尽と感じ、悲憤慷慨するが、しかしより高い観点から見た時、そうした意識を持つ人間存在は、生と死それ自体が一つの統一として成り立っている。
我々が悲劇を見た時に感じる深い感銘、物語が「完結」したと感じる感覚は、キャラクターの死を最後に持っていなければならない。それは彼の生・死が一つの統一を持ったという印象を我々に与える。そのような印象を我々に与えるのは、彼の意識内部、その思考や感情が根拠ではなく、彼が意識できない彼の全存在(ただの呼吸や心臓の鼓動などを含めた)が我々に大きな生命感を感じさせている故に、その死は、存在の完結という印象を我々に与えるのではないか。
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死とは、人間にとってそのようなものではないかと思う。哲学的な自我、意識的な自我において、死は自我の解体であり、自己意識という我々にとっての「絶対」を消滅させるものとしてある。しかし、我々は自己意識がどこからやってきたのかを考える事はできない。赤ん坊の頃、子供の頃、いつから自分が「自分」になったか、我々は過去を振り返る事ができない。過去を探ろうとすると、我々の視線は中途で自己が消える暗闇の中に吸い込まれていく。おそらくはこの闇の中で、デカルトのコギトも消失するだろう。
もちろん、最初に言ったように死そのものは経験できない。我々は生しか経験できない。そうして生は、生の解体作用をも含んだ全てである。そういう意味で、生は我々が考えているよりもっと大きいものではないかという気がする。ただ、知性がその全体像を捉えられないだけだ。私は死というものをそういう風なものとして想起する。…といったところで、この文章は終わりにしたいと思う。