表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編集

きみの鎖に繋がれたい

作者: 温風

 夕方五時の鐘が鳴ると、遠く近くどこかから仲間を呼ぶ声がする。

 家々の鎖につながれた飼い犬たちが防災無線の定時放送を仲間の声だと錯覚し、狂おしそうに天を仰いでは胸を震わせ、高らかな吠え声をあげるのだ。

 ――アオワオーン、ウウーン、キャオキャオーンオーン…………。

 それほどまでに呼び交わしたい相手がいることを、僕は心の底から羨ましく思う。


『おおかみさんを預かってます。お心当たりのあるかたはお声がけください』

 家の玄関を開けて、ぬいぐるみ教室の木製看板の隣に張り紙をした。

 厚紙に黒マジックで文言を記し、透明なビニールをかぶせて補強しただけの簡素な掲示だが、メッセージは伝わるはずだ。

 数日前の夕暮れどき、僕は家の前の砂利道で犬を拾った。正確には、おおかみのぬいぐるみを。

 今にも雨粒が落ちてこようかという曇天の下、持ち主を探さねばと思って周囲をきょろきょろしたけれど、時すでに遅く、東西南北あらゆる方向に人っ子ひとりいなかった。近所の小中学校の下校時間もとっくに過ぎている。

 小さな薄汚れたおおかみは、一目見るだけで古いものだと分かった。勇ましい金色の目は見つめるたび鈍く光る。生地はくすんでやや擦り切れ、ほのかに黒みを帯びていた。シュタイフやハーマンといった有名メーカーの製品ではないけれど、愛されてきた歴史が毛並みや表情にも刻まれているように思えて、胸が痛む。

 どうか無事、持ち主が見つかってほしい。

 教室の生徒さんを見送って部屋を片付けていると、玄関でチャイムが鳴った。

「あのっ! お、おおかみの、貼り紙を……見て、来ました」

 思わず我が目を疑った。インターフォンのモニタ越しに息を弾ませてあらわれたのは、少女マンガの世界から飛び出てきたような美少年だ。綿毛のようなふわふわの髪の毛とふし目がちな瞳ははしばみ色で、半ズボンをはいた膝小僧は寒さのためか赤くなって粉が吹いている。右手にはピンクのファーのかばんを提げていた。

「きみが、おおかみさんの持ち主ですか?」

 頷いた少年へどうぞとドアを開けて招き入れると、彼は言葉少なにしたがった。靴を脱ぎ、お邪魔しますと居間へあがった少年は、ファーのかばんを抱きしめて息を呑んだ。

 母の開いたテディベア教室を僕が引き継いで、家はぬいぐるみ教室へ姿を変えた。今では僕のつくったぬいぐるみ――とくに犬たちが、家のところどころにひっそりと並んでいる。

 ラブラドール、ドーベルマン、柴犬、シベリアンハスキー。家犬ばかりではない。ジャッカル、コヨーテ、フェネック、ハイイロオオカミのぬいぐるみも飾ってある。ざっと数十匹はいると思う。少年は、いったいどこに自分のおおかみがいるのか、分からないだろう。

「きみのおおかみは別室にあるから、ちょっと待っててね」

 淹れたての紅茶と肉球模様のクッキーをテーブルに置いた。クッキーは流行りのお店の人気商品らしく、教室の生徒さんが差し入れてくれたものだ。

 少年はクッキーを凝視して「あ、肉球……」と、小さくつぶやいた。その声のいとけなさに驚く。中学生くらいだと推察したが自信は持てない。まだ身体のできあがっていない十代前半のあやうさが全身にあふれている。ひざ下丈の白靴下が、やけにまぶしかった。

 十代で、ふわふわした可愛いものが好きで、この容姿。咄嗟に思ったのは、「生きづらそう」という感想だった。

 彼に対する勝手な同情めいたものがこんこんと湧き上がり、長らく静かだった僕の胸の湖面にさっと波風を立てる。

 少年は、おおかみの持ち主だという証拠を見せますと言った。アルバムから引き剥がしてきたような色あせた写真には、おおかみを抱いて無邪気に笑う幼い少年が映っている。僕は納得しておおかみを差し出したが、少年は意外なことを言い出した。

「思ったんですけど、ここならこの子も淋しくないし……このおうちに置いてやってくれませんか」

 大きく澄んだ目で訴えかけてくる。

 正直に言うと、僕はおおいに戸惑った。探していたぬいぐるみを、よく知らない人のところに残して去る? 駄目だ、その心境が分からない。少年はおおかみを大事に慈しんできたはずだ。

「ちょっと待って、きみはそれでいいの? この子のこと可愛がってきたんでしょ」

「そう、だけど、母は……そんなの、捨てちゃいなさいよって、言うので」

「捨てるって、そのおおかみくんを?」

 こくりと頷いた彼は、みっしりと生えそろったまつげの奥で、とても耐えられないといったふうに大きく瞳を揺らす。それを見た僕は、先年亡くなった母の声を思い出した。

『教室を継ぐのなら、あなただってテディベアをつくってくれないと困るんだけど』

 車椅子の手すりに肘をかけながら、ため息まじりに母がこぼす。

『それなら母さんのクマがいっぱいいるじゃないか。僕は自由にやりたいよ。かっちりしたカリキュラムを生徒さんに押し付けたくないし……それより、つくりたいものを自分のタイミングでつくるほうが、いいものができる』

『そんなんじゃ、街のカルチャーセンターと変わらないわ。ものづくりは技術があるからできることよ』

 仲のいい親子だったけれど、同じなりわいについたからこその対立もあった。母が手芸をはじめたのは、生きるため。対して、僕にとっての手芸とは、数少ない自己表現の手段だった。

『理想だけじゃ潰れてしまう。弱い男はみんなそう。理想を語ることは、負け犬の遠吠えと同じです。格好悪くてうるさくて情けないことだわ』

 酒の臭いがするといつも父は僕に手をあげた。殴られた衝撃で頰の内側の肉が自分の歯に突き刺さる。その痛みを忘れたことはない。母は必死で僕を守り、父の手から逃れて、ずっと苛烈に生きてきた。

 幼い僕を抱えた母は猛烈に働いた――身体を壊して取り返しがつかなくなるまで。足に麻痺が残ってからは家で手芸を教えるようになり、テディベアで名を成した。母には感謝してもし尽くせない。住む家も仕事も、母が築いたものを全部受け継いで……おかげで、三十三を迎える今も僕はなんの不自由もない日々を送っている。

 だけど母は、母という存在だからこそ踏み込める領域で、僕の心を抑えつけもした。親が子を傷つけるなど、どの家庭にだってある話かもしれないが……。

 僕はぐっと叫びを飲み込んだ。目の前の少年の悲しみに、嫌というほど共鳴して痛む心臓をなだめる。

 彼のお母様はぬいぐるみを捨てろと言った。そのことが彼をどれほど苦しませているか。母親の言葉がどれほど子どもに重くのしかかるか。僕には手に取るように分かる。

「じゃあ、きみもときどき遊びにおいでよ。友達に会いに」

「ともだち……?」

 僕は彼のおおかみをそっと撫でた。かつてはなめらかだったはずの毛並みは少し汚れてごわごわしている。あとでぬいぐるみ用の拭き取りスプレーを使ってあげよう。

「そう。友達。それに、友達の友達も、友達だからね?」

 僕と彼の間におおかみを置いた。

 彼は顔を上げて、はしばみ色の瞳を見開く。レースのカーテンから傾いた夕日が少年の顔をさっと照らした。彼の素肌に赤い陽光がかかると、頬骨のあたりにそばかすが浮かび上がる。

「ここは、ぬいぐるみ教室なんだ。僕は講師の夏月。山口夏月(やまぐち なつき)だよ。きみはなんていうの?」

「……ほし。三河星(みかわ ほし)です」

「星くん、って、夜空の星? いい名前だね。よろしく」

 星くんはきゅっと口を引き締めて、涙をこらえるような、ちょっぴり歪んだ笑顔で頷いた。

 年若い同性のぬいぐるみ仲間ができたことを僕は内心、ガッツポーズをして喜んだ。

 類は友を呼ぶ。待っていた友が、やっと応えてくれた。そんな気がした。


 ――アオワオーン、ウォホホーン、アオンアオーン、オーン…………。

 星くんが来るときは必ず犬の鳴き声がする。遠くから近くから、呼びかける声が地鳴りのように響く。

 隣近所、何ブロックかに住む犬たちは夕刻によく吠えるのだが、星くんもまた夕日が空を染める時間になるとふらりと家を訪れた。

「……森の匂いがする」

 くすんと、そばかすの散る鼻を鳴らす。星くんの頭部側面にぴょんと跳ねるくせっ毛は尖った犬の耳のようでふふと笑ってしまう。

「森かぁ。まあ、ここにはいろんな動物がいるからね。みんな、ぬいぐるみだけど」

 クマと犬の他、猫、かわうそ、こうもり、狐に狸。牛、羊、にわとりもいる。テディベアはほとんどが母の作品だ。もちろん、犬は僕の作品。母のクマも僕の犬たちも仲良く並んでいる。みんなものを言うことはないけれど、家の中はぬいぐるみでにぎやかだ。

 本棚はほとんどがテディベアや人形づくりのための型紙、図案、テキストで埋まっていた。そのあいまに、子供の頃に親しんだ児童文学の絵本や、動物図鑑が紛れている。本は僕の創作のためのヒントになった。裕福な家ではなかったが、母は本であれば喜んで買い与えてくれた。懐かしいなと一冊、ギリシャ神話の絵本を引き出してみる。

「神話に出てくるドラゴンとか冥府の門番ケルベロスとか、ファンタジックな造形にあこがれたときもあったんだ。星くんは好きかな、こういうの」

 ほら、ご覧よと肩をつきあわせて絵本をめくると、癖のついたページが開いた。歯をむき出しにした三つ首の巨犬ケルベロスのイラストは今見てもかっこいい。星くんは少し顔を赤らめて照れたようにうつむいた。

 想像はしていたけれど、星くんはかなりセンシティヴな身の上だと判明した。

 帰りが遅くなり、外は暗くて危ないから家まで送るよと申し出てもなかなか首を縦にふらない星くんが、この日めずらしくポツリポツリと自分の話をはじめたのだ。

「このおおかみは僕がまだ小さかった頃、父と母が僕のために選んでくれたんです。僕にとっては、きょうだいみたいな、かたわれみたいな、大事な存在で。なくしてしまったと気づいたときは苦しくて……張り紙を見つけて飛び上がりそうでした。よかった、見つかった、うれしい、僕のおおかみ。見つけてくれたのが夏月先生でよかった。ごめんなさい、な、涙が止まらなくって……」

 星くんは水晶のような涙をはらはらと落とし、背中を震わせた。自分のおおかみを抱いて、子鹿のように震えて泣いている。

 肩から腕の輪郭などぽっきり折れそうに細くて心配になる。星くんの身体は、今にも砕け散ってしまいそうなガラス細工にも似ていた。彼の内側には大きな悲しみと孤独が詰まっている。

 星くんが愛しい。きみになにか脅威があるのなら、それから守りたいし、導き手を必要とするのなら、必要なものを与えたい。といっても、星くんに関して知っていることはあまりない。

「踏み込んだことを訊くけど、きみのご両親はその……お元気なの?」

「父は死にました。母は、」

 こぼした涙を袖でぐいとぬぐって、窓の先を指差す。その方向にはひときわ大きな白色の建物があった。

「母は、総合病院にいます。思い出はみんな捨てちゃうんだって。僕のことも、忘れようとしてる」

「じゃあ……きみはひとりなの? 面倒を見てくれる大人は、だれもいない?」

 黙り込んだ星くんはいつも手放さないファーのかばんをぎゅうっと握り締めた。そんなふわふわしたルックスで、きみの内実はだいぶヘヴィーだ。

 僕は役にも立たない安い同情ばかりしている。こんな細っこい星くんひとり、救ってあげられないのだから。

「……あのさ。星くんも、ぬいぐるみ創作、してみない?」

「創作?」

 彼はふしぎそうに首をかしげる。

 星くんを教室に誘うのが僕にできる唯一のことだった。ここにいる犬たちとなら、なにかの力になれるはずだと信じて。

 居場所もなく、仲間もいないのなら、僕が与えよう。あげられるものはすべてあげよう。年が離れていたって、友人にはなれるだろう。僕に親代わりは無理だけれど、せめて友達か、もしかしたら親友に。それが贅沢だというなら、名付けようもない、かすかな関係だっていい。

 僕の世界に突如あらわれたきみ。僕と、つながっていてほしい。


「えっ、かわ……先生の隠し子ですか?」

「あなたが先生のアシスタントさん? これからよろしくね」

 少年は妙齢の女性たちに囲まれ困惑していた。はしばみ色の瞳を隠すように、ふさふさのまつげが小刻みに揺れている。

 星くんはすごくモテた。可愛いと連呼され、おひねりのお菓子をファーのかばんにつっこまれ、質問攻めにあう。星くん自身は激しい人見知りなので閉口しっぱなしだったが、そのせいで『沈黙する美少年』という付加価値が人気を加速させ、我がぬいぐるみ教室は星くんフィーバー、生徒さんたちの興奮のるつぼと化した。

「な、夏月せんせい……たすけてください」

 生気を失った面持ちで僕に手を伸ばす星くんを、老いも若きも関係なく「きゃーっ」と黄色い悲鳴が包み込む。

「アイドルのオーディション受けてみたら? わたし推すわよ、星くんならぜったいイイ線いく」

「たしかに星くんは美少年ですが……騒ぎすぎですよ、みなさん」

 いちおう僕は教室を統べる唯一の講師なので、背筋を正して手など打ち鳴らしてみるが、情けないことにほぼ効果はない。けれども、手仕事のいいところは作業に集中すれば鎮火するということだ。一人、また一人と製作に没頭し、部屋の空気が引き締まっていく。僕は胸を撫で下ろして、星くんが教室のアシスタントとして受け入れられたことを喜んだ。


 ――キューン、キュウンキュウン、キュンキュンキューン…………。

 夜空の下、鳴き交わす犬たちの声がする。あまりに月が冴えているせいか。あまりに星がきらめいてまぶしいからか。歌わずにはいられない、なんらかの想いに駆られた犬たちは、仲間と空にむかって歌う。

 一匹だけ、僕の近くで歌う犬がいる。切なく心細そうに、仲間を求めて歌うかぼそい声だ。はぐれ気味だった一匹の声は少しずつ他の犬の声と重なり、大きなひとつのうなりへと収斂していく。犬たちの歌は地の底から湧き上がるようにびりびりと響き、人間のはらわたを揺さぶって放さない。

 ……まぶたを開けて覚醒した僕は、はたと思いついた。

 おおかみには、つがいが必要だ。彼らは群れで生きている。ひとりでは生きられないと知っている賢いけものなのだ。アシスタントのかたわら、星くんにはパートナーのおおかみをつくってもらおう。

 こうしておおかみづくりはスタートした。夕飯をいっしょに食べながら、おおかみの全身像をスケッチに起こし、具体的なサイズと各部位のパーツを考えて型紙をつくる。毛足の短いモヘア生地を選び、部位によって色を変えたり染めたりする。頭と胴体は青みのあるグレーが基調で、手足と尻尾は白だ。おおかみは野を駆ける獣なのでリボンも首輪もつけない。

 星くんがむずかしい顔で針を動かしている。たまに指を刺してしまい、血の噴き出す指を涙目で舐める。星くんはお世辞にも器用とは言えない。白い肌に桃色の差す柔らかなてのひらを見つめて、ぐったりとため息をつく。集中できずに投げ出したい気分のときもあっただろう。そんなときはココアを淹れて肩を揉んだ。

「……あまい、です」

「ごめん、甘いの嫌だった?」

「いえ、口のまわりがほわほわしました」

「そっか、ほわほわしたか……。ねえ星くん、力んじゃダメだよ。可愛いと思ってつくってあげなくちゃ」

「はい。僕は可愛いおおかみをつくりたい」

 キリッと顔を上げた星くんは少し、男前になっていた。

 仕上げは瞳だ。教室のストックからグラスアイを選んでもらう。星くんはめずらしく頑強に、かたわれのおおかみと同じ金色の目が良いと主張した。

「金です。ぜったい、金の目じゃないと駄目なんです」

「金かぁー。ペリドットは緑すぎるか。トパーズは?」

「ごめんなさい、これは茶色っぽくていけません」

「分かった。もうちょっと探してみよう」

 しまいこんでいた母のアンティークコレクションを引き出したら、たまご色の瞳が二つまろび落ちた。星くんに見せると、「これですッ!」と小鼻をひくつかせて叫んだ。

 着手から数週間、星くんのおおかみが完成した。前脚と後脚で大地を踏みしめる、神々しいおおかみのぬいぐるみだ。

「すごいすごい、かっこいい! これが初めてのぬいぐるみづくりだとは思えないよ!」

「やった〜! うれしいです! いっぱい指を刺しちゃったけど、」

 僕たちは手を叩いて喜び合った。星くんの指先の絆創膏はけなげな努力のあとだった。

 おおかみづくりを進めているあいだも感じたが、星くんは腕や背中に筋肉がつきはじめ、だいぶ大人っぽくなった。出会ってまだ二ヶ月ほど。十代の子の成長の早さには目を瞠るものがある。


 それからまもなく――星くんは声変わりを迎えて、僕に別れの挨拶をしにやってきた。

「今までありがとうございました」

 むきあってソファーに座り、頭をさげる。落ち着いた低い声になっていた。ファーのかばんも、いつの間にか使わなくなった。

 僕は星くんを呆然と見つめた。もうここには来ません、お教室のアシスタントも、もうできません、と言うのだ。

「古代、人形は死者のための副葬品だったと言います。つがいのおおかみもつくれましたし、僕は今夜でさよならです」

「え、どうして? いったい、なにがあったの……」

 少年に訊ね寄ろうとすると、床下から聞いたためしのない異音がした。獣のうなり声のような、地の底から響くような振動は、犬の遠吠えとも地震ともちがう。

「大人になったからですよ。僕は地獄に行きます」

 星くんの頰のそばかすから針金のような細い棒芯がピンと張り出す。と思ったら、星くんの全身がぶわりと黒い毛皮に包まれた。白い肌もはしばみ色の髪の毛もなにもかも闇に呑まれたようにかき消える。突風が過ぎ去った後、僕の前にあらわれたのは――。

 首が三つの巨きな犬。頭は複数なのに胴体はひとつで、黒い艶やかな毛並みは荒い息に合わせ脈打っている。筋骨隆々の四肢はサバンナを駆ける肉食獣のよう。六つの瞳は黄金に輝き、ぎらりとした生々しい光が獰猛な唸り声とともに揺れた。

 神話の絵本から抜け出してきたような姿の怪物が、星くんの座っていた場所に陣取っている。彼が腰を下ろしていたソファーは布が無惨に裂けて散り散りになり、骨組みの木材もたわんで今にもはじけそうだ。

 僕も黒い犬の怪物もじっとしている。

 家の中は非常事態なのに、やたら静かだ。

 スイッチをつけたままのラジオですら、なにも言わない。

 ずっと鳴いていたはずの犬たちも静まり返っている。

 みんな消えてしまったのかも……近所の人も、どこかで吠えていた犬たちも、星くんも。

 脳は混乱していたが、逃げようとは思わなかった。ただ、星くんの痕跡を、星くんがいた証明である二匹のおおかみを探そうとして、椅子から腰を浮かせる。次の瞬間、どろんと犬は姿を消し、また星くんが現れた。

「ほっ、星くん!」

 目眩に喘ぎながら名前を呼んだ。僕が伸ばした手を涼しい表情で躱して星くんは淡々と喋り出す。

「僕の正体は地獄の番犬、ケルベロスというやつです。といっても、なりそこないの不出来な子どもでしたが。あなたのおかげで頭を三つに増やせました。これで一人前になれるのです」

 星くんが二匹のおおかみを胸に抱く。神話の絵本で見たケルベロスは、三つの首を持つ巨大な犬。地獄に行くとは、比喩ではないのだ。ごくんと唾を飲む。

「あなたが死んで地獄に堕ちたなら、そのときはまた会えるかもしれないですね」

 人の姿にもどった星くんは、ありがとう、さよなら、とつぶやいて背を向けた。

 行ってしまう。星くんが、消えてしまう。

「まって……」

 声を振り絞って、さよならに否を唱えた。行かないでと、重ねて呼びかける。足を止めた星くんがこちらを振り返った。

「待ってほしい、行かないで……僕を置いていかないで」

 やけにたくましくなった星くんの腕に僕はすがった。置いていかないで。僕を置いていかないで、ひとりにしないで。自分でも引くほど、なんどもなんども星くんにすがりつく。他人に泣きつく姿など、母に見られたら罵倒されただろう。でも、なりふりなど構っていられなかった。

「お願いだ、僕も連れていってくれ。地獄でもどこでも、犬の頭なら幾つだってつくるよ、だから――」

「地獄ですよ? 業火で焼かれて苦しむ場所、昏い冥府の底へあなたは行くと言うんですか? 人の身で?」

 冷たく突き放すような物言いは、今まで見てきた星くんとは対極の態度だ。

「だめかな……。地獄行きの資格は、あると思うんだ」

 星くんは眉を寄せて僕を見下ろした。

「……僕と母は、共犯だったから」

 僕たちは最後まで父から逃げられなかった。力が弱いものは強いものに従うのは世のことわり。理解者も支援者もいない環境でそれを覆そうというのなら、強者を弑すればいいのだ……外道になって。

 そのころ母は庭でいろいろの草花を育てていた。ある晩、味噌汁に入れたのはニラに似た葉っぱと、オクラのような野菜だった。

『このお味噌汁、あなたは飲まないでね』と母は言った。

 その夜、父が倒れ、朝になると家に警察の人が来た。母は事の次第を説明しなければならなかった。

『奥さん。味噌汁の中身は強い毒性のある植物だ。水仙の葉とチョウセンアサガオのつぼみ。しかも、あんたと息子さんは出かけていて、味噌汁を飲まなかったっていうじゃないか。今の状況が分かるかい?』

『水仙もダチュラも庭に植えているお花ですわ。愛でておりますの。……あの日は、庭の野菜の収穫を夫に頼みました。帰宅しましたら、気分が悪いといって寝たきり……』

 さめざめと母は泣いてみせた。父の死は家庭内での中毒事故で片付けられた。僕は口をつぐんだ。

 共犯関係の母子のあいだにはだれも入れない堅牢で孤独な絆ができた。息苦しさで潰れそうな罪という重く太い鎖につながれて、きつく手を結び、ふたりだけで生きてきた。地獄へゆく時もいっしょだと。

「僕自身、犬みたいなものだったんだ。重い鎖が巻きついて、じわじわと喉を締められるみたいに苦しくて、だれかにすべて告白したいけど、母に申し訳なくて」

 ――ねえ、夏月。と、脳裏に母の声が蘇る。

『お願い夏月、大きな声を出さないで。あなたはあいつみたいになっちゃ駄目。静かな子になって、お母さんといっしょにテディベアをつくりましょう。縫い物をして静かに暮すの』

 母の瞳は昏い湖底のようだ。

 母とふたりで暮らすようになって、犬をねだった。犬が飼いたい。僕がごはんもあげて散歩もさせるから、いいでしょ?

 母は駄目よと、なんの感情も見せずに言った。

『犬は嫌い。だってあいつみたいだから。それにあなたは喘息があるのよ。これ以上わがまま言わないで、静かにして』

 犬と暮らすことはできなくて、犬の暖かさを思い描いて製作に打ち込んできた。昔からクマより犬が好きだった。母から離れられない代わりに、僕は犬をつくり続けた。犬にこだわることが母へのささやかな反抗だった。

「僕について冥府の底まで降りて、そこで真正の犬になるつもりですか」

「……うん。きみと、いられるのなら」

 星くんは僕と距離を保って、微動だにしない。

「よほどつながれるのが好きと見える。あなた、自己が希薄だって言われませんか」

「自分がどう見られようと気にしないよ。友達がほしかったんだ。僕は友達がほしかった。ひとりは嫌で、話し相手がほしくて……」

「あなたが言うほど、友達っていいものですかね。なんだか執着じみてるな。あなたのお母さんのことは知りませんが、自分を充たせるのは結局のところ、他人じゃなくて自分でしかないはずだ」

「そんな御託、今さらだよ。僕を呼んだのは星くん、きみじゃないか」

 はじめ、おおかみのぬいぐるみは僕の家のまえに落ちていた。

「最初に呼んだのは、きみだったはずだ」

 半身であるはずの大事なおおかみを僕に預けて、きみはしょっちゅう家に来た。きみが来るたび、近所の犬たちも吠えた。夢の中でも犬の呼び声を聞いた。

「おおかみは、本当に偶然、落としたの? それとも、わざと置いたの?」

 星くんは返事をしない。口をつぐんで僕をきつく見据えている。

 ……淋しかったんでしょ、きみだって。

 いっしょにいられないなら、僕はここで喰われたって構わない。地獄の番犬ケルベロス対ふつうの人間。取っ組み合ったところで結果は知れている。僕は駄目で元々だと、星くんを口説き落とす勢いでたたみかけた。

「ぬいぐるみ、つくって、どうだった? なんども針で指を突き刺して、痛くてしんどいだけだった? これっぽっちも楽しくはなかった? 楽しいとも思わずに、どうしてきみは針を持てたんだ?」

 きみにはきみの役目があって、それがどういうものなのか全然分からないけど、これから地獄へ行くという。僕と離れたところで、きみにはなんの感傷も湧かないのかもしれない。だけど、いっしょに過ごした日々が空虚だったとは、どうしても思えなかった。

 星くんはふっと息を吐いて腕を組んだ。

「たしかに、あのときはとても充実してた。本当にこの世に未練はないのですね? なら話は早い」

 ぱちんと星くんが指を鳴らす。そんなマジシャンみたいな振る舞いができるなんて意外で、目をぱちぱちと瞬いた。

 気がつくと僕は星くんの片手に乗っていた。星くんが巨人になったのでなければ、僕の身体が縮んでしまったのだ。

「夏月さん。あなたを入れて首は四つになりました。金の瞳ではありませんが、目は多いほうが助かる。これからあなたは僕と地獄の門を守るんです。亡者が逃げ出さないようにね。きっと退屈しませんよ」

 僕が訊きたいのは星くんの気持ちだったのだけど、彼は結局なにも答えてはくれない。だけど星くんの指は僕の身体を優しく撫でる。ああ、犬の身になってみれば撫でられることはこんなにも快感なのか。たまらず、くうんと喉から鳴き声を洩らした。

「冥府の川をわたれば、そこは永劫の夜の世界、黄泉の国です。ねえ聞いてますか夏月さん。僕、一度咥えたものは、ぜったい放さないんです」

 夜の帳を引きちぎり、サイレンをうならせた消防車が到着する頃には、その家はとうに焼け落ちていた。なにもかもが灰になった後、ぬいぐるみ教室の講師が死亡したと、地方紙に小さな記事が載った。

 三河星という名の少年のゆくえは、だれも知らない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ