アグネス視点
今日は暖かいねぇ。これなら今朝はミルクなしの暖かい紅茶で良いかね。チェリッシュ領の屋敷でキッチンに立ち、私は紅茶を入れる準備に掛かる。ポットにお湯を注いでマグカップに注ぐ事で両方を温めておく。するとアラーナが走って入って来た。
「ひゃー!寝坊しちゃった!」
「おはよう、アラーナ。大丈夫だから走ってくるんじゃないよ、みっともないし、埃が立つからね」
アラーナはシャーロット奥様の妹、と言っても同い年だけどね。父であった先代公爵が外に作った娘だそうで、才能があるからと奥様が側付きのメイドとして引き取ったのだ。確かに飲み込みは早いし、苦労していたのは紅茶の入れ方だけだったね。紅茶そのものを飲んだことがないと聞いて、飲ませてやったら数回で覚えたよ。確かに正解の味を知らないで作れったって無理だよねぇ。それ以来、ケーキなんかを作る時でもまずは味見をさせる事にしたよ。その方が覚えも早いしね。
奥様がお目覚めになったのをシャドードール達が教えてくれた。それを合図にコックが朝食の準備にかかった。紅茶は目覚めに良いからと朝食より先にお飲みになるから先に準備をする。
食堂で準備をしていると、奥様と婚約者のクリフ様がいらっしゃった。クリフ様も『忙しいシャルと唯一ゆっくりと過ごせる時間だから』と言って一緒に朝食を取っている。まだ幼いけど、その目端の利くお姿はお父様であるバークマン侯爵と良く似ていらっしゃる。クリフ様に紅茶をお出しすると、メイドである私に『ありがとう』と言ってくださる。メイドとしてはありがたいお言葉だよ。奥様も良くおっしゃってくださるけど、こういう貴族は少ない。やってもらって当たり前だと思っているのだろうねぇ。
アラーナが側付きになってから私が常に帯同するという事は少なくなったけど、それでも奥様が影に控えさせてくださるのはそれだけ心を許してくださっている証拠だと思っている。その期待を裏切らない様にしないといけないね。
少しするとセバスチャンが困った顔で私の所に来た。『エドウィン様が泣き止まなくて……』と。エドウィン様は最近生まれたばかりの奥様の弟で、今は奥様の養子という事になっている。エドウィン様の寝室に行くと、ベッドで泣いている姿があった。すぐに抱き上げてあやしていると、少しづつ落ち着いてきた。闇魔法で大体の機微は分かるけど、それと泣いた赤子をあやせるかは別問題だ。何事も向き不向きがあるけど、これだけセバスチャンを困らせる子というのも珍しい話だよ。大した子だ。
あやしていると奥様が入って来た。少しぐずったと聞いて気になって来たそうだ。奥様はエドウィン様をすごく気にかけていらっしゃる。一人っ子で育っていらっしゃるし、何よりその愛情深さは海の様だ。
以前に少しだけクリフ様が言っていたねぇ。『ああやって子供に愛情を注ぐ事で、過去の自分を慰めているのかも知れない』と。確かに先代公爵の時の奥様は、決して深い愛情を注がれたとは言えない環境だった。使用人も夜逃げしたこの屋敷で、一人孤独に過ごしていた奥様。そのお心を慮ると、誰にも期待していないと言って憚らない奥様のお気持ちも理解出来ると言うものだね。
でも、最近の奥様は少し変わって来た様に感じる事もある。特にクリフ様に対する態度が少し柔らかくなって来ている様に感じる。最初は表情を変えず他人行儀で仕事の事しか話していなかったけど、今では時折笑顔も交えて世間話をするまでになっている。それを指摘すると、困った顔をして『付き合いが長くなると情も湧くのよね。気を付けてはいるんだけど』と言っていた。
『気を付けている』。その言葉にはどう言う意味が込められているのだろう。裏切られる事に慣れてしまっている奥様にとって『心を許さない』と言う事は自らを守るための盾なのかも知れないね。信じて裏切られた時の心の傷が大きいから。その痛みも、苦しみも、もう感じたくないから。だから情が湧く事を避けようとしているのかも知れないね。慣れてしまっても辛いものは辛いからねぇ。
仕事に行かれる奥様に帯同してセバスチャンとアラーナも退室した。私はエドウィン様を抱きながら窓を開ける。
「エドウィン様。これが奥様の開拓した領地ですよ」
今お話ししても分からないだろうが、いつかこの領地を受け継ぐかもしれない方だ。今から教えておいても損はないだろう。
「ここは奥様、エドウィン様のお母様が荒野だった所から一から開拓しているのですよ。ここはチェリッシュ領の中枢都市『シャリー』です」
奥様は自分の愛称の一つを町の名前にする事に抵抗があった様だけど、周りに押される形でこの名前になった。今でも複雑な顔をしている時があるよ。まあ、クリフ様には『シャル』と呼ばれているから紛らわしい事もないだろうけどね。
エドウィン様は外の様子を見ていらっしゃる様だね。私が話している事を理解できているとは思えないけど、時々利発な目をしていらっしゃる時がある。今みたいに。
「いつかはエドウィン様もこの領地をお継ぎになるかもしれませんね。その時は領地の民を良く見て、素晴らしい領地にしていってくださいね」
「あい!」
私の言葉にエドウィン様は手を上げて返事をしてくださる。
「あらまあ!良いお返事をいただけて、アグネスは嬉しいですよ!」
最近は返事を覚えた様で、よく『あい!』と返事をしてくださる。セバスチャンの抱っこだと泣いてしまうのに私やアラーナの抱っこだと喜ぶものだから、『将来は女泣かせになるんとちゃうか?』とカーディナル商会のマイク様に言われてしまう程だ。
そろそろ側付きのメイドを手配しないとダメかもしれないねぇ。今は私かアラーナでなんとかなっているけど、今後活発になったエドウィン様に付いているメイドがいないと大変になっちまうかもねぇ。奥様に相談してみよう。
「今は屋敷から出る事は出来ませんが、5歳になりましたらお屋敷で寄子を招いてのお披露目パーティーがございます。その後なら領地を見て回れますからね。今はここから領地を眺めましょうね」
「あい!」
元気な返事に私は笑って窓を閉める。さて、そろそろエドウィン様の朝食ができる頃だね。私はエドウィン様を連れて食堂に向かった。
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