スタンキンホロウは、聖女を野生に帰した
スタンキンホロウは、とても困っていた。
なお、名前の後にホロウと続くのは、スタンキンの家が魔術商人の国際正規呼称を得ているからである。
先の大戦以前から、ドイルが魔術師、ラビが医師というように、この大陸全土で通用する職業名称があるのだ。
この国際基準の職業名を得る為に必要な功績や信頼は、積み上げるまでに時間がかかるので、個人でその呼称を得る者は少なく、大抵が一族や商会などで権利を有している。
祖父の代から魔術商人を続けているスタンキンの家では、父から商会を継いだばかりのスタンキンがホロウを名乗り始めたばかりだった。
しかし、そんな中堅商会の看板を背負ったばかりのスタンキンに、先日、とんでもないお客がやって来た。
帝国のオスカードイルと言えばこの国でも知らない者はいないくらいで、成人する前に個人でドイルの称号を得た大国の筆頭魔術師だ。
そんな雲の上の人がスタンキンを訪ねて来たのは、後見人となっていた幼馴染が、そちらの国で騒ぎを起こしたからである。
そしてスタンキンは、とても困っていた。
(まずい。………まずいぞ。なんでたったの三日で、大陸一の魔術師のかけた封印魔術が解けてしまったんだ……)
スタンキンの幼馴染のマリエルは、帝国の第一王子の号令で執り行われた儀式により魔術召喚され、短い時間とはいえ、王都に暮らす男爵家の養女となって聖女として暮らしていたらしい。
後見人だったスタンキンがちょっと異国に商売に出ている間に何事だと思わないではないし、要約するとあんまりな説明だが、困っているのはそこではない。
こちらの生き物を元いた場所に返却しに来たぞくりとするような美貌の筆頭魔術師が施してくれた封印が、どういう訳か解けていることが問題なのだ。
オスカー氏の魔術が封じていたのは、マリエルが帝国で暮らしていた期間の記憶だったが、それを踏まえてもなお、封印が解けて良かったと思えない理由は目の前の幼馴染にこそあった。
「という訳で、私はもう一度あの国の王宮に戻るね!」
「やめなさい!」
「大丈夫、大丈夫。自分で行けるから」
「移動手段が心配だから反対している訳じゃないけど、大陸横断鉄道を使っても、半月かかる距離だからね?!」
「そんなにかからないよ。………一日くらい?」
「魔術転移で来たオスカー氏ならともかく、徒歩で行こうとしているのに、所用時間の短縮具合がどう考えてもおかしい!」
「うーん。かかっても、二日かなぁ」
「なんで?!」
スタンキンは、頭を抱えた。
帝国に行く為には険しい山脈地帯も越えなければならないというのに、マリエルは、じゃあもう一度遊びに行くねくらいの気安さだった。
記憶が戻ってすぐに戻ろうとするからには、こんな送り帰され方をされてもなおと思えるくらいには、帝国の王都を気に入っていたのだろう。
そちらでの暮らしが辛くなかったのであれば、幼馴染としては安心するばかりだ。
しかし、二度と戻ってこないように記憶を封じられたと知っている以上は、是非とも踏み止まっていただきたい。
何しろ帝国は、禁術とまでされる儀式で召喚した聖女を、わざわざ手放したのだ。
加えて先方は、絶対に戻ってきて欲しくないからこそ、スタンキンに面会を申し込み、今後の管理を厳命したのである。
補償金として渡された大陸共通金貨が大箱二十個だったことを考えると、それがどれだけの切実さなのかがよく分かる。
つまり、このまま行かせると、国家間の政治的な摩擦に発展しかねないのだ。
(………でも、召喚魔術で呼び出せたということは、マリエルは、本当に普通の人間ではなかったんだな…………)
どうせ出立するのであれば、獲物を狩り易い夜がいいと言い出したマリエルの腕を掴んで引き留めながら、スタンキンはふと、そんな事を考える。
絶対に危ないので、普通の靴とドレスで雪山を超えられるのだとしても、夜は駄目だ。
(そうだよな。………どう考えても、普通の女の子じゃなかったし……)
ずっと心のどこかで何かがおかしいと思っていたが、今回の召喚騒ぎで、その疑念は肯定されてしまった。
そもそも普通の少女であれば、ここから国を二つと死の山と呼ばれる雪山を越えなければならない場所に、手斧だけ持って向かおうとは思わないだろう。
なお、この手斧は、聖女を蔑ろにした者達に復讐するための道具ではなく、道中の食糧確保に使う狩りの道具なのだとか。
だが、よく考えると、それもそれで充分に怖い。
剥き出しの手斧を手にした少女が王都に乗り込んでくる、帝国の人達の気持にもなって欲しい。
おまけに、マリエルが向かうのは、王宮かもしれないのだ。
確実に、外交問題になる。
(僕がここでマリエルを行かせてしまうと、手斧で真冬に死の山を越えられる怪物を、既にその被害を受けていると思われる帝国の王都に、再び解き放つことになる!!)
スタンキンは必死だった。
この国が責任を取らされたら、真っ先に処罰を受けるのはスタンキンだ。
自分だけなら諦めもつくが、両親や弟達が共に責任を取らされるのだけは、何としても回避しなければ。
即ち、どうにかしてマリエルを、この国から出さないようにしなければならない。
(説得に失敗したら、ギルドの力を使ってマリエルの好物の魔獣を山に放つ……?或いは、マリエルが喜びそうな綺麗な細工物やドレスなどを買ってあげるのはどうだろうか……)
「スタンキン。もうそろそろ、出かけていい?」
「落ち着いて、もう一度考えてみようか!追い出された国に戻ったところで、歓迎される筈もないだろう。僕との婚約も君が嫌ならすぐに解消するから、我慢してこの国で暮らしてみない?」
「スタンキンとは仲良しだし、お金持ちで顔も綺麗だから、婚約自体は嫌じゃないんだけど………」
明け透けな表現に思わず眉を下げたスタンキンに、マリエルは、だけどごめんねと笑う。
柔らかな金糸の髪に、淡いライラック色の瞳。
儚げで可憐なマリエルは、いつだってスタンキンの世界をひっくり返していく、規格外の少女だ。
笑っている幼馴染はとても可愛いし、スタンキンは多分、マリエルのことが好きなのだろう。
異国の魔術師に強いられたこの婚約が、彼女の監視役も兼ねているのも間違いなかったが、それでもスタンキンは少しも嫌だとは思わなかった。
一緒にいると、常に胸が苦しく、時には夜も不安で眠れずに何度も飛び起きてしまい、毎日胃薬が手放せないので、間違いなく恋をしている。
事勿れ主義のスタンキンがこんなにも心を動かせるのは、いつだって、マリエルが一緒にいるときだけだった。
(だから、マリエルがこの国を離れることに未練を感じていないのは、………少し寂しいんだ)
スタンキンとマリエルは、歳が離れた幼馴染だった。
妹のような存在だったマリエルを女性として意識したのは、いつからだっただろう。
今のように、側にいるだけで指先が震える程の反応はなかったが、まだ体が弱かった頃の彼女が、家に遊びに来たスタンキンを見てぱっと笑顔になった時からだろうか。
(………僕の、大事な幼馴染)
あの時に、この子を大事にしようと強く思った。
しっかり守ってあげて、幸せにしようと。
恐らくは、病気がちだったからなのだろう。
物静かで優しいマリエルは大人びた子供だったが、一番年の近かったスタンキンにだけは子供らしく甘えてくれて、それがとても嬉しかったのを覚えている。
成長して若干元気になり過ぎたマリエルが手斧で狩りをする姿を見ていると、どうしようもなく震えが止まらないこともあったが、それも彼女が心配だからなのだろう。
だからこそ、異国での仕事をしっかりと終わらせ、約束した日には帰ってきたのに。
「……なぁ、マリエル。僕ではなくても、君を幸せにしてくれるような相手がこの国にだっているかもしれないだろう。危ない思いをしてまで帝国に戻るのではなく、国内で探すのは駄目なのかい?」
「……この国には、王子様やオスカー様みたいな人はいないから、やっぱりあの国がいいかな。それに、この国の美味しいものは殆ど食べちゃったし………」
「それが、帝国に戻りたい理由なのかい?………聖女としての役目を果たしたいからではなく、王子様やオスカー氏に会いたいのかな」
「うん。ああいう場所に暮らしている人達がいいの!それに、王宮には綺麗なものが沢山あるし!」
(そんな理由で王宮に執着されたら、働いていた者達はたまらないだろうに……)
オスカー氏は、帝国の王子も沼に捨てたいくらいに馬鹿だったと言っていたが、とは言え王宮は政治の中枢である。
話に出てきた第一王子のように愚かな王族がいても、真っ当に国を支える者達にとっては仕事の場だ。
そして、マリエルが口にしたこのとんでもない行動理由こそが、彼女の可憐さや天真爛漫な振る舞いに惹かれた者達のほぼ全員を、遅くとも半年以内には立ち去らせた理由でもあった。
「………ねぇ、マリエル。もしかして、いつもの調子で、王宮でも片っ端から色々な物を触ったのかい?」
「うん。私が色々触っていると、オスカーがすぐに来てくれるの。優しいでしょう?」
「それは、触ってはいけないものを守ろうとして、止めに来たんだろうね」
「綺麗な魔術石があったから外して持って帰ろうとしたら、せめてこっちにしろって他の物をくれたよ?」
「それは、王宮にある魔術石ともなれば、王宮の守護の核石だからじゃないかな。………念の為に聞くけれど、帝国にいた時には、狩りはしていないね?誰も殺していないかい?」
「スタンキンの意地悪!私はそんなことしないもん!」
ここでスタンキンが、最も恐れていたことを訊いてみると、マリエルは、怒ったように頬を膨らませた。
とても可愛いが、だからといって引き下がる訳にはいかない。
この幼馴染にかかると、場合によっては、二桁以上の行方不明者が出ていてもおかしくないことを、スタンキンはよく知っているのだ。
(……だって、あれだけの魔術師が、自らの手で他国まで送り返しに来る程なんだ。余程のことをしたに違いない!!)
冷静に考えると前の会話の内容だけでも余程なことなのだが、その時のスタンキンは気付かなかった。
政治的な道具として召喚された聖女ともなれば、敵もいた筈だ。
すぐに問題を起こしてしまうマリエルの立場が、王宮のような駆け引きの多い場所で盤石だったとはどうしても思えない。
そしてマリエルには、狩りの才能がある。
彼女は、自分を脅かす者も、自分の邪魔をする者も、片っ端から滅ぼす。
「………意地悪をした人も、殺していないね?」
「殺してなんかいないもん。オスカー様がね、余計に大惨事になるって、悪い人たちから守ってくれたの」
「………僕は、あの方に何かお礼の品を送るべきなんだろうな。胃薬とかがいいかな……」
「じゃあ、私が向こうに着いたら、有難うって言っておくね」
「帝国に戻る前提になっているよね?!仮にも、今はまだ僕の婚約者なんですけれど!」
「スタンキンはちょっと………」
困ったように告げられたのは一番傷付く言葉だったが、どうやら、人は殺していないようだ。
だが、それだけではまだ、騒ぎを起こしていないとは言えないだろう。
「では、王宮の敷地内や王都で、提供された食事以外に獲物を狩って食べていないかい?」
「それなら、時々食べたわ!」
「やっぱりか!!………よーし。僕に、それがどんな獲物だったのかを教えてくれるかな。………ここにね、とても嫌な予感がして取り寄せた、帝国の歴史本があるんだ」
「歴史本?」
マリエルは可愛らしく首を傾げていたが、スタンキンは騙されなかった。
見目がどんなに聖女のようだとしても、これは、決して都市部に出してはいけなかった危険生物だ。
取り寄せた本に記載された帝国の重要な建造物や、保護されている動植物などの安否を、これからじっくりと確かめていこうではないか。
その過程でどうか、マリエル本人にも、帝国の王都で暮らすのは難しいと気付いて欲しい。
自分の行動が帝国では大きな問題になるのだと理解すれば、あちらに行っても面白くないと考えてくれるかもしれないからだ。
「まずは、……そうだな、一番大きな獲物について教えてほしい」
「えっとね、狼みたいなもふもふで白くて、雄鹿の角があって、いつも青白く光っていて……」
「いきなり、帝国の聖獣からなのかい?!」
「うん、そんな名前だったよ。オスカー様が、なんで普通の人間が素手で捕まえられるんだって誇らしげに私を見てくれたもの」
「……多分、その前の台詞からして、誇らしくは思ってはいなかったと思うんだけれどな………」
「食べちゃったって言ったら、両手で顔を覆って恥じらってた」
「ええとそれは、………怒り狂っていたか、泣いていたんじゃないかな………」
「だから、オスカー様の婚約者に、オスカー様は私に求婚したのよって教えてあげたわ」
「なんで?!」
愕然としたスタンキンに、マリエルはにっこりと微笑んだ。
「大きな獲物を仕留めた者に対して、感動を示すのは求婚の証なのよ」
「それ、野生の獣か何かの習性じゃなくて?!人間用の作法としても通用するの?!」
「スタンキンは知らないのね?普通はそういうものだから、ご婦人の相手をする時には気を付けてね」
「………王宮の高価な調度品を壊しただとか、魔獣を狩って騒ぎになったんだろうなと思っていたら、まさかの聖獣からだったマリエルにだけは、言われたくないけれどね………」
「いやね、スタンキン。あんな立派な国の王都に魔獣なんていないのよ?」
「それもそうだった……」
ここでスタンキンは、再び頭を抱えた。
スタンキンが呑気に仕事をしている間、恐らく、オスカードイルと名乗ってくれたあの御仁も、同じように頭を抱えてきた筈だ。
(僕は、あんな生真面目そうな人に、とんでもない生き物の世話をさせてしまった………!というか、彼の婚約者殿は無事に生き延びているのか?!マリエルに狩られてない?!)
「あの獣は、味がしっかりとしたお肉で、香り付けしていなくても香草の香りがして、塩と胡椒と大蒜とバターだけでご馳走になったの。………あのお肉、また食べたかったな」
「寧ろ、それだけの材料があれば、肉は大抵ご馳走になるけれどね………」
「スタンキンにも、食べさせてあげたかった!」
「呪われそうだから、聖獣はやめておく………」
「そう?」
スタンキンは、君が想いを寄せるであろう女性だが、一度、我慢ならなくて首を掴んで揺さぶってしまったと、かの国の筆頭魔術師から謝罪されたことを思い出す。
その時は、マリエルがこんな生き物だと承知していてもなお、そちらの事情で召喚しておいてあんまりだと思いはしたが、こんな事件があったのだとしたら、致し方あるまい。
大切な国の聖獣様を大蒜とバターで美味しく食べられてしまったら、それはもう首を掴んで揺さぶりたくもなるだろう。
寧ろ、長年この生き物の保護者役だったスタンキンも謝らなければならないし、外交問題にされてこの国が攻め滅ぼされなかっただけ、帝国の温情に感謝せねばならない。
(というか、帝国は百年も王都を守っていた聖獣を失って、大丈夫なのか?!)
そう考えるとそら恐ろしくなったが、聖獣の守護が欠けたあの国を守っているのはきっと、マリエルを掴んで揺さぶることの出来たあの人なんだろうなと考え、スタンキンは申し訳なさのあまりに項垂れた。
それで何とかなるにせよ、明らかに、一個人に対して背負わせていい負荷ではない。
過労死してしまわないだろうか。
「ほ、他には何も食べていないかい?」
「オスカー様曰く、魔術省で保護していた使い魔は、全部君が食べてしまったって、誉めて貰ったくらい?」
「それは、………褒めてないんじゃないかな。絶望してたような気がする」
「軍馬には手を出すなって言われたのだけれど、馬なんて食べたりしないのに、困った人でしょう?」
「いや、聖獣を食べられたら、馬もやるなって警戒するよね……。それと、君は王宮が気に入ったのに、王子ではなく、あの魔術師殿がいいと思ったんだね。っていうか、王子様の名前覚えてる?」
「………えーっと」
「……さては忘れたな。でもまぁ、オスカー氏は、男の僕から見ても美しい人だったからかな」
「王子様は、いつも勝手に側にいるから名前は呼ばなかったの」
「まさかとは思うけれど、………二人とも標的なのかい?」
「うん。困った人たちでしょう?」
「どうしてその結論になったのか分からなくて、僕は今とても困っているよ………」
「そうなの?元気出してね?」
「………うん」
「王子様は王族だし、オスカー様は魔術師だから。血筋と、魔術のどっちも捕まえられたら、お腹がいっぱいになるかなって」
「聖獣を食べた話の後に、その表現はやめてくれ………。そして、幼馴染として聞いていても生々しくて嫌だ!」
「そうなの?」
(いつから僕の幼馴染は、こんなに規格外になってしまったのだろう………)
マリエルの生家は商人をしており、スタンキンの家とは商売人同士の付き合いが昔からあった。
だが、マリエルの両親が病で同時に命を落としてしまった頃から、この幼馴染の奇行が始まったような気がする。
(それまでは、病気がちで大人しい普通の女の子だったんだけれど)
ひとりぼっちになったマリエルの、最初の後見人となったのは、スタンキンの両親であった。
息子の初恋の少女の身を案じたばかりではなく、マリエルの両親の古くからの友人だったからだ。
しかし、こちらの家に引き取ると申し出たスタンキンの両親に対し、幼いマリエルは全力で抵抗した。
小さな女の子が、狩りに向かない場所には、住みたくないというのだ。
その時はまだ、幼くて体も弱いマリエルが狩りをするとは考え難かったので、生まれ育った家を離れたくないからだろうと判断された。
七歳年上だったスタンキンが、父の部下達とマリエルの家の仕事の整理を引き受けながらこちらに同居することとなったのは、そういう経緯である。
貴族であれば体裁がという組み合わせだが、二人共平民であったし、その時のマリエルはまだ子供だった。
マリエルの面倒を見て貰うためにと、スタンキンのすぐ下の弟が手を離れたところだった乳母を同行し、訪れたのは森に囲まれた小さな村。
そこは、マリエルの一家が、森の木々から採れる魔術結晶を扱う商人だからこそ厳しい冬も人々の暮らしが成り立つような、閉鎖的な土地であった。
今もマリエルの家はそこにあるが、さすがに半年間空けていたと聞くと心配だったので、今は、スタンキンの屋敷のある隣町に滞在して貰っている。
(あの村で暮らし始めてすぐに、僕達は、マリエルの暮らしぶりに驚かされたっけ)
病弱だった筈の幼馴染はとても逞しく成長しており、九歳の女の子が夜明け前に一人で森に出かけていくと、立派な獲物を仕留めてきたのだ。
ただの獣から魔獣まで、何でも狩ってきて食べてしまうマリエルに呆然としているスタンキン達に対し、それより早くマリエルの変化に直面していた村人達は、遠い目をしてそっと肩を叩いてくれた。
明らかに変わり者だけれど、マリエルの行動原理はとても単純だ。
綺麗なものが大好きで、食いしん坊で、きらきら光る森の魔術結晶が大好きな女の子。
森の魔獣と取っ組み合いで戦い、かと思えば女の子らしくドレスを喜び、行儀作法の勉強は大嫌い。
子供のように興味を惹かれたものは取り敢えず触るし、気に入ったものは取り敢えず毟り取ってくる。
幸いにも、スタンキン達や村人から何かを奪うことはなかったものの、略奪されてきた財宝目当てに、森の奥に棲みついたならず者達を殲滅してきたのは、マリエルが十四歳の時であった。
(あの時は、心臓が止まるかと思った………)
近くの大きな都市から派遣された騎士達も愕然としていたが、マリエルは強かった。
泣き叫ぶならず者達を次々と放り投げ、殲滅してきてしまったのだ。
ここで刮目するべきは、マリエルが行ったのが略奪や捕縛ではなく、殲滅だったことだろう。
その時の現場がどれだけ凄惨だったのかを思い出すと、スタンキンは今でも眠れなくなる。
(帝国の王子は半年もの間マリエルに恋をしていたようだけれど、何というか、我慢強かったのかな。それとも、生き物としての生存本能が低い方なのか……?)
「スタンキン、もう行ってもいい?」
「駄目だってば。帝国の側では、もう君を必要としていないんだ。それなら、この国だっていいじゃないか」
「ここだと、満足な食事もないもの」
「商会を継いだばかりだけれど、幾つかの国との契約を取り付けてきたから、今よりは裕福になれそうだ。僕が、君に美味しいものを沢山食べさせてあげるよ」
スタンキンがそう言えば、マリエルはどこか悲し気に微笑んだ。
はっとするような美しい微笑みに、なぜか、寝込んでばかりいた頃の大事な幼馴染の姿を思い出す。
いつからマリエルは、こんな風に伸びやかに微笑むようになったのだろう。
そう考えた途端、なぜだかひやりとした。
「それにしても、…………君はやっぱり、普通の人間ではなかったんだなぁ」
スタンキンが、何気なくそう言った時のことだった。
(え………?)
どこか遠くで、いっせいに大勢の人が笑ったような気がして、目を瞬く。
祭りの日でもないのに不思議な音楽が聴こえてきて、窓辺のテーブルの上の花瓶に生けた花が、いっせいに満開になってそのまま枯れ落ちていく。
そして、正面に立っているマリエルは、光を孕むような不思議な瞳で、じっとスタンキンを見ていた。
まるで、見知らぬ生き物のように。
「……………なんだ。気付いちゃったのね」
「マリエル………?」
「それが決まりだから、私を養う人間に正体を知られたら、もう向こう側に帰らなきゃ」
「な、何を言っているんだい?」
狼狽えるスタンキンをまたじっと見つめ、マリエルはなぜか、泣き笑いのような顔でこちらを見る。
その顔は、長らくスタンキンの記憶から消えてはくれなかった。
ぞっとするほどに美しく、どうしようもなく悲しい微笑みだったから。
「本当はね、私はとても悪い妖精だから、この子の両親のようにあなたも食べちゃうつもりだったの」
「え………」
「でもね、スタンキンが大好きだったから、他の物を食べて我慢していたのよ。…………あの国の王子やあの魔術師みたいなご馳走を食べてしまえたら、もうお腹がいっぱいになって、スタンキンと一緒にいられると思ったんだけどな」
「…………マリエル?」
「さようなら、スタンキン。…………ああ、嫌になるわ。……… あの魔術師が私を追い出さなければ、私の勝ちだったのに」
そして、その呟きだけを残し、マリエルの姿は忽然と消えた。
家の中だというのにごうっと強い風が吹き抜け、雨上がりの森のような不思議な匂いが残る。
マリエルがいた場所にはなぜか、乾いた土くれだけが落ちていた。
「……………え?」
残されたスタンキンは、途方に暮れて立ち尽くしたまま、手斧すらなくなった床の上を見ている。
多分スタンキンはもう、マリエルの言わんとしたことや、彼女が人間ではなかったことは、理解しているのだろう。
それでも、どうしようもなく動揺しているだけで。
(じゃあ、僕の幼馴染はどうなったんだ…………)
そう思うと背筋が寒くなったが、最後にこちらを見て泣き笑いのような顔をしたマリエルのことを思い出すと、なぜだか胸が潰れそうになった。
けれども、寝込んでばかりいた大事な幼馴染の姿を思い出すと、今度は息が止まりそうになる。
「はは………、そうか。…………オスカードイルは、マリエルが普通の人間じゃないことに、気付いていたんだな」
小さく呟いてこみかみを指で揉んでから頭を振ると、窓の向こうから雨音が聞こえてきた。
ここ数日で冬の寒気が緩み始め、そろそろ季節は春に向かう頃。
でも、急いで帰ってきたこの国に、もう、スタンキンの幼馴染はいないのだ。
(いなくなってしまった………)
二度と会えないのだと、すぐにわかった。
だからスタンキンは、外にマリエルを探しに行かないのだろう。
でも、胸が痛むのが、さっきまで目の前にいた妖精を思ってのことなのか、幼い頃に共に過ごした幼馴染を思ってのことなのかが分からない。
だからスタンキンは、手の甲に落ちた涙を静かに拭い、その夜の間ずっと痛む胸を押さえて項垂れていた。
明日になれば、教会に妖精による被害を届けにいかなければならない。
オスカー氏にも、念の為に連絡をしておこう。
でもその夜は、一人で泣きたかった。
さっき、こちらを見て微笑んだマリエルに、両親の葬儀の日も体調を崩して寝込んだ幼馴染に、どうしてスタンキンは何か優しい言葉をかけられなかったのだろう。
そこで何かを伝えていたら、運命が変わったのかも知れないのに。
これが、なぜかいつも事件や事故に巻き込まれてしまう不運の魔術商人、スタンキンホロウの冒険譚の始まりだと知れば、多くの子供達がその妖精はどうなったのか知りたがるだろう。
残念ながらスタンキンは、二度とマリエルと会うことはなかった。
だが、夏至祭の夜や冬至の日には、森の奥から誰かの視線を感じる事があったし、数年後に結婚した伴侶が、結婚式の前の夜に怒っている妖精に悪戯されたので、反撃して投げ飛ばしてきたと言っていたので、その後も近くにはいたのかもしれない。
スタンキンが生涯を共にした伴侶はかのオスカードイルの妹御で、その出会いをくれたのもマリエルだと思えば、運命とは数奇なものである。
時折、雨音の聞こえる夜になると、スタンキンホロウは、何年もの間幼馴染のふりをしていた妖精のことを思い出す。
病気がちなマリエルにはもう無理でも、せめて、あの時に悲しそうに笑った妖精は、どこかで幸せであってくれればと思うのだ。