第2話 Reality
ここは俺の想像していた異世界ではない!
さっきの青年の発言がそれを証明している。
「授業」「保健室」「ホームルーム」。
随所に現代の学校を想起させる言葉があった。
それは、「ドラゴン」や「魔法」といった異世界ファンタジーとはほど遠い代物。
どうやら、ここは俺が思い描いていた異世界ではないようだ。
ここは異世界というよりも、俺の過去に限りなく近い。
それはあの青年が、俺のことを「鈴木」と呼んだことからも分かる。
「鈴木」は俺の学生時代の愛称である。
小学生の頃、体育の時間に、我儘ボディだった俺の走る姿を見た同級生が付けたあだ名が由来となっている。
そのあだ名は「踊る大パパイヤ鈴木ぽんぽこりん」。
我儘ボディが踊るように走る姿を形容したらしい。
ちなみに、あだ名を構成する「パパイヤ鈴木」という部分は、あくまでも有名なダンサーの名前から由来するものであり、俺自身の名前が「鈴木」というわけではない。
にも関わらず、月日が流れて、地元の高校へ進学した後には、誰かが広めたそのあだ名がいつしか省略され「鈴木」となり、俺は全く赤の他人の苗字で呼ばれ続けることになった。
クラスメイトは愚か、そのノリに便乗した教師にさえ専ら「鈴木」と呼ばれていた為、高校時代において、それは実質俺の本名と化していた。
だから、その名前で呼ばれているということは、俺が今、高校生である可能性が高いことを意味する。
にしても凄いあだ名だ。
一周回ってただの名字になっているのだから、もう本名で呼べばいいじゃないか。
まあそんな事はこの際どうでもいい。
今は自らが置かれている状況を整理するのが先決だ。
何故なら高校生の頃の記憶を断片的に失っている俺にとって、この世界はリプレイではなくニューゲームであり、慎重に進めなければならないからだ。
高校二年生の秋に、交通事故に遭って以来、その事故の数ヶ月前から俺の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
また、事故の後遺症により事故の前後を問わず、高校三年間の記憶には薄く靄がかかったように思い出せない部分が多々ある。
とは言え、記憶を失った本人には、失ったという意識すらないため、殊更問題になるようなことでもないと思っていた。
だが、ここにおいて、その記憶喪失は大きな障壁となって立ちはだかる。
「さっきの青年、誰だっけ…?」
思い出せない…。
初見殺しはこの世界の常。
攻略本無しでゲームを完全クリアするのが難しいように、この世界もまた、積み上げた経験や知識に裏付けられる記憶が無ければ平穏な生活を送る事は難しい。
記憶がない以上、ここから積み上げるしかない。
情報収集及び分析は今の俺にとっての最優先課題だ。
まずはさっきの青年。
彼はゲームで言うところのチュートリアルで現れる村人だ。
ここが学校だとして、その風態からして彼はきっと教師だろう。
そして、俺を心配して様子を見に来たのだからきっと担任。
自分の教室すらわからない俺が、この校内で唯一頼っても良さそうな大人だ。
俺は上体を起こし、身体をずらしてベッドからゆっくりと足を降ろし、爪先からそっと着地した。
周りを囲っていたカーテンを開けると、そこはやはり保健室と思しき空間だった。
壁に掛かった時計は14時30分を示している。
その時、ちょうどチャイムが鳴った。
きっと、5限の始業合図だろう。
ここが一般的な学校と同じタイムテーブルならば、授業は50分とかそれぐらいのはず。
あの青年、もとい「先生」が戻って来るまであまり時間はなさそうだが、この世界とこの世界での自分について、もっと理解を進めなくてはならない。
あまり、不自然な行動を取ると、高校デビューが失敗するかもしれない。
この世界での行動には細心の注意を払わなくては。
何事も始めが肝心なのだから。
そう。あれは高校一年生の時。
俺は高校デビューをする奴のことを鼻で笑っていた。
中学時代全くいけてなかった陰キャのくせに、高校で人間関係がリセットされることをいいことに、イメチェンしようとする奴。
急に無理してイキリ出し、結果としてなんか浮いてしまうあいつらが滑稽に見えた。
それまでの自分を誇ることもできず、簡単に本当の自分を捨てて、自分や社会が求める偶像にも等しい「理想の自分」と「理想の青春」を演じようとする、その小賢しさが憐れだった。
どれだけ自分を繕ったところで、それは偽物の自分であり、その偽物が演じる青春もまた偽物なのである。
そこまでして得る薄っぺらい人生に何の意味がある。
それに、現実から目を背けて盲目的に生きることは恥ずべきこと。
なのに、率先して自分と他者に嘘をつき続け、青春を演じ、時に大失敗するあいつらをマヌケと俺は見下していた。
俺はあいつらとは違った。
自分の信念をそう簡単に曲げたりはしない。
俺は己の信じる道を歩んだ。
俺が信じる正義を貫いたのだ。
だから高校二年生になる頃には、あいつらと俺の差は歴然としていた。
あいつらは恋に部活に勉強に、泣いて笑って大忙し。
俺は一人アニメで憂さ晴らし、家で嫉妬で大忙し。
俺が貶していた奴らの行動はその実、努力であった。
単に俺はlazy boy。
気づいた時にはtoo late。
始めが肝心、詰んだ詰んだ。
「忘れたい記憶はしっかり残ってやがる…」
そんなことを思いながら俺は保健室の壁際に置かれている全身鏡へと徐に足を運ぶ。
鏡前に立ち、目線をその足元から顔へと恐る恐る動かした。
そこに映った男の顔には引き攣った笑みが浮かんでいた。
ですよね…。
「ハァ…」
盛大なため息を漏らした。
まさか、というよりは、やはり、と言うべきか、そこに映っていたのは、見紛うことなく若かりし俺。
すなわち周りの「青春」に当てられて、その心を削り、歪めた、高校時代の俺だった。
もしかしたら自分の過去によく似た異世界で、俺は超絶イケメンに生まれ変わっているかもしれない。
そんな淡い期待を寄せた3秒前。
だがその期待を嘲笑うかのように、その鏡は残酷な現実を映し出し続ける。
ここではエルフもドラゴンも魔王も勇者も魔法使いも出てこないだろう。
この世界は紛うことなき、俺の「過去」である。
平々凡々の退屈で、理不尽で、残酷な俺のそれに、何を期待できようか。
異世界ファンタジーはここで終了である。
はい、解散。
女神よ、俺を殺してくれ。
俺が望んだのはコレじゃないんだ。
そもそも異世界転生を志すような奴は、その大半が学生時代において、深い傷を負ったものや学校教育の過程で闇を抱えた者だ。
それなのに、そんな学生時代にトラウマを植え付けられた人間を、正に、そのトラウマの渦中に放り込むなんて拷問にも等しき行為。
そう思いながら、俺はぼうっと鏡に映る自分の姿を見ていた。
チョ、待てよ。
そこには豚と呼ばれていた、かつての巨影はなかった。
そういえば、高校生の頃は精神を病んでいたお陰で痩せてたっけ。
後にも先にも俺が豚でなかったのはこの時期だけだが、健康的かと言われればそんなことはない。
体操服から露出する手足は青白く、虚な目の下にはメジャーリーガーのアイブラックを彷彿とさせるクマが浮かんでいる。
いかにも不健康そうな出立ちだ。
俺が半袖半パンの体操服を着ているのは、ここに来る直前までの授業が体育だったことを暗示している。
さっきの「先生」の発言からして、きっとバドミントン中に倒れて、ここに運ばれてきたに違いない。
なるほど、こんな病弱そうな華奢な体では、少しの運動でも貧血を起こしかねない。
まだ足元がふらつくような気もする。
「ふぅ…」
一つ溜息を吐いた後、俺は気持ちを切り替える。
ここが俺の望んでいた異世界ではないにしても、来てしまったものは仕方がない。
自ら命を断つという結末に未練が無いといえば嘘になるし。
そんなバッドエンドを変えられる可能性が僅かでもあるのなら、頑張ってみてもいいかもしれない。
それに、33歳独身アニオタの経験を活かすことができれば、こんな俺でもそれなりに楽しい高校生活を送れるかもしれない。
そうと決まれば、まずはこの世界をもっと詳しく知る所から始めなくては。
時刻は14時35分。
「あと45分か…」
担任教師の名前も思い出せないのだ、5限が終わる前にせめて自分の教室ぐらいは把握しておかないと話にならない。
俺は保健室の建て付けの悪くなった重たい引き戸を、細い腕に精一杯の力を込め、ゆっくりと開けた。
僅かに開けられた戸の隙間から、ビュッと吹き込む風が、半袖半パン姿の俺に容赦なく襲い掛かる。
外を覗くと、中庭にあった落葉樹が仄かに色付き始めていた。