第五十七話「秀蓮:吐き気」
まさかの事態が起きた。マーサ・ベクスヒルと騎士団への糾弾決議が王国会議で下されたのだ。ラ・ギヨティーヌを退け、竜核を持つ騎士団団長すらも黙らせて。
騎士団にメスを入れる。これは史上初の大事であった。騎士団の在り方に疑いを向ける事すら非難の的となるこの世界において、禁忌とも言える行為。それがミシェル先輩達の手で為されたのだ。
魔導乙女騎士団上層部は混乱を極めている。己に向けられた断罪の矛に恐怖を覚えていた。
人類の敵オークと結託したベクスヒル本家の次期当主。そして、その事実を隠蔽しようと画策した騎士団。その悪行が世に知れ渡る事は、騎士団の信頼を大きく揺るがし、秩序の崩壊すら招くものだった。
最早、悪事を隠し通すことは出来ない。そのため、組織内部でダメージコントロールが行われる。
騎士団はマーサ・ベクスヒルを斬り捨てなければならない。比喩ではなく、文字通り。
夜半の首都エストフルト。騎士達の寝床____エストフルト第一兵舎前の暗闇に私は身を潜めていた。
私が何故、暗がりで息を殺しているのか。それは、騎士団上層部から“仕事”を与えられたからだ。
その内容は単純。マーサ・ベクスヒルの暗殺。兵舎で謹慎している彼女を人知れず葬り去る事だ。
四大騎士名家第二席ベクスヒル家。その本家の次期当主であるマーサ・ベクスヒルの扱いに騎士団は悩んでいた。
騎士団としてはこのまま彼女を表舞台から退場させるのが望みであったが、そうはいかないのが悩みどころ。ベクスヒル家はマーサさんに罰は与えるものの、その後は変わりなく組織の重要なポストに彼女を落ち着ける心積もりでいた。
ベクスヒル家の意向は無視できない。さりとて、騎士団の信用を守るためには、その意に反するより他ない。
そこで、騎士団は解決策を思い付く。それこそが、マーサ・ベクスヒルの殺害であった。彼女をその命ごと闇に葬り去る。ベクスヒル家は反発するであろうが、事を終わらせれば、もうそんなものは関係ない。多少の内部軋轢は生まれるものの、騎士団の信用は最低限保たれる。
そう言う訳で、“便利屋”の私に命令が下されたのだ。マーサさんを暗殺しろと。
別にどうと言うことは無い。私は今まで何人もの命を奪って来た。マーサさんは大物だが、所詮は散りゆく命の内の一つ。特別な感情など湧かなかった。
兵舎の消灯を確認し、皆が寝静まった頃、私は行動を開始する。
音を消し、建物に接近。慣れた手つきで錠を外して屋内に侵入した私は、予め知らされていたマーサさんの自室まで移動する。
マーサさんの自室前まで忍び寄った私は____しかし、部屋の内側から音と明かりを察知。人の声が聞こえる。どうやらマーサさんはルームメイトとお喋りの最中のようだ。こんな夜遅くまで起きているとは。
寝込みを襲うつもりだったが、少しだけ計画変更だ。睡眠ガスを扉の隙間から流し込み、部屋の中の人間達を強引に眠らせる。後は毒をマーサさんに注入し、安らかな死を迎えて貰おう。
「……! ……血?」
変更した計画を遂行しようと、扉の前にしゃがみ込む私。しかし、その隙間から真っ赤な血がこちらに流れ出て来た。
驚いて悲鳴を上げるような真似はしない。私は流れ出る血の温かさを指で触れて感じ、そっと扉に耳を当てる。
聞こえてきたのは人の声。しかし、それは歓談をするような雰囲気のものではなかった。狂ったような女性の笑い声。それが延々と続いている。
およそ人のものとは思えない恐ろしい声に、背筋が凍るような思いをする。
私は中の様子を目で確認するべく、扉を音も立てずにゆっくりと開いた。そして、部屋の内部を覗き見る。
私の目に映ったのは____
「あはははははははははははははははははははは……死ね、死ね、死ね……マーサ……あははははははは____」
「……ッ!?」
その光景に私は口元を押さえた。
「……死ねッ……死ねッ……」
声を押し殺した狂気の笑い声。凄まじい怨嗟の響き。それが私をも呪わんと部屋中を満たしている。
私がまず目にしたのはマーサさんでもそのルームメイトでもなく____全身を血塗れに汚し、目の前のおぞましい何かに一心不乱にナイフを突き刺している女性____アメリア・タルボットであった。
「……う……お……おえぇ……」
強烈な吐き気が込み上げてくる。それはアメリアさんが一心不乱にナイフを突き刺している何かの正体に気が付いたためだ。
その何かに気が付いたのは、辛うじて原形を留める血塗れの部位を認識したから。私が確認できたそれは、人間の片手だった。人間……いや、マーサ・ベクスヒルだったものの片手だ。
動悸が速くなる。私は数秒目の前の光景に見入って、何が起きているのか理解した。
マーサ・ベクスヒルがアメリア・タルボットにより惨殺され、今も尚その亡骸が弄ばれているのだ。
「この裏切り者が……死ね……死ね……」
マーサさんの死体はバラバラにされ、中身が抉り出され、元の状態が分からない程散らかされていた。そして最早人間の姿を留めない物体をアメリアさんは“マーサ・ベクスヒル”だと認識し、己の怨嗟をぶつけている。
身体が震える。私はどうにかして音を立てずに立ち上がり、ゆっくりと後退りをした。
アメリアさんはマーサさんに夢中でこちらの存在には気が付いていない。
私は息を殺してその場を去る。建物の外に出ると、慌てて茂みの中に身を投げ、地面を転がった。
そして、立ち上がると____
「……おええええええええええぇえッ!」
近くの物陰に胃袋の中の物を吐き出す。内臓が収縮するのを感じつつ、私は先程見た光景を脳内からふるい落とすように樹木に頭を打ち付けた。
「……はあ……はあ……何ですか……あれは……」
私は今まで何人もの命を奪って来た。だから死体も見慣れている。しかし、あんな状態のものは初めてだった。良くも悪くも私には暗殺の才能があり、そのため綺麗にしか人を殺したことがない。綺麗な状態の死体しか見て来なかった。
原形を失った人間の姿。血の沼に紛れた肉片。それを楽しそうに弄ぶ殺人者の狂気。
心臓がばくばくとする。
私は初めて人間の死を感じた。人間だったものが人間ではなくなるその瞬間。それは本来であれば既に体験している、ありふれた光景の筈。
どうという事はない些事なのに。
ずっと見て来たものの筈なのに。
それなのに____
「いや……違う……」
私は何も見て来なかったのだ。人を殺し、しかし私は自身の心を凍らせて、その死から目を背けて来た。殺めた人命をただの数字として処理し、その死と真剣に向き合ってこなかったのだ。
狂気に満ちたアメリアさんの殺人を思い起こす。
違わない。“仕事”として片付けてはいけない。私もアメリアさんと同じなのだ。私のしてきたことは、紛れもなく、彼女と同じ殺人なのだ。
「……はあ……はあ……ッ」
必死に呼吸を繰り返し、私は空を見上げる。
私は己の幸福と自由のため、これまで手段を選ばずに闘って来た。
しかし、ここは果たして私の望んだ場所なのか。
幸福で自由な場所なのか。
今まではそうだと思って来た。しかし、それはもしかしたら、ただの思い込みなのかも知れない。
人殺しなどへっちゃらだ。そんな訳の分からない見栄を張り……だけど全然平気でもなかった。
「私は……今まで……」
己の掌を見つめる。そこに赤黒い血の幻影を見て、悲鳴を上げそうになった。アメリアさんと自分の姿が重なり、血の沼に沈む妄想を抱いた。暗闇の中、無数の死者の怨嗟の幻聴を聞いた。
私は改めの己の場所を認識する。
“便利屋”としての生き方を選び、汚い血で穢し続けた己の場所を。
幸福で自由だと思い込んでいた己の場所を。
そして、出来る事ならば____
「逃げ出したい……こんな所から……」
私の口から切実な響きを以てその言葉が漏れ出た。