第二話「カネサダ」
ミシェル。女性の名を持つその少年に姓は無かった。
もう15歳にもなるというのに、背丈は同年代の女子と変わらず、艶やかな銀色の髪は腰の辺りまで伸びきっている。細い四肢に、繊細な五指。肌は白く、赤子のように穢れ一つない。何も知らぬ男子が幾人も彼に一目惚れをしたぐらいだ。
騎士の名門ドンカスター家を追われ、騎士団では酷い虐めに遭い、それでも少年は騎士であることにしがみ付いた。
誇りなどのためではない。ただ生きるため____それ以外の生き方を少年は知らないのだ。
ドンカスター家の当主になるために身も心も一族に捧げ続けたミシェルには、元よりそれ以外の人生が与えられてこなかった。辛うじて彼に残された道は、ただ一人の騎士として剣を振るう事のみ。
本当を言えば、少年にはそれ以外の人生の選択肢が無数にある筈だった。女性の振りまでして騎士として生きる以外の選択肢が。
しかし、少年は選ばなかった。選ぶ力がなかった。
ドンカスター家の女当主エリザ・ドンカスターの言いなりとして生きてきた彼にとって、選択をすると言う行為は、与えられた苦痛に耐えること以上に心身に負担がかかるものだったのだ。
さて、まるで他人事のように彼の事を語っているが、その意気地なしの少年のミシェルこそ____この私に他ならない。
「あら、ごめんなさい」
起床し、兵舎の食堂で朝食を取っていた私の皿が地面に落ち、派手な音を立てて割れる。
「手が滑ってしまいましてよ」
そう言って、同期の騎士マリア・ベクスヒルは意地の悪い笑みを浮かべた。
私はわなわなと肩を震わせる。
「……マ、マリア」
「何ですの、その目は?」
私は憎らし気にマリアを見上げた。
手が滑った、などと言うレベルではない。彼女は私の朝食が乗せられた陶器の皿を引っ掴み、それを思い切り床に投げ捨てたのだ。
「ほら、もったいないじゃないですの。床に落ちた食べ物はしっかりと拾って食べて下さいまし!」
マリアは自身の金髪をかき上げ、床に散らばった私の朝食を靴底で踏みつけた。パンは潰れ小麦色の表面に黒い足跡が付く。
「ほら、どうぞお上がり」
途端、食堂のあちこちから小さな笑い声が聞こえ始める。
「ねえ、アレ食べるの?」「食べるんじゃない?」「ぷぷ、かわいそー」「やめてあげなよーもー」「うわーきたなーい」
陶器の破片が散らばる中、私は朝食の残骸から可食部を拾い上げ、口に入れた。嘲笑が再び聞こえる。それでも私は食べ物を黙って拾い上げ続けた。
「……う」
マリアの靴底に付いていたであろう目に見えぬほど細かい砂利が口内で音を立てる。
我慢する。
これは栄養補給だ。生きるために必要な行為。替えの朝食など望めぬ私にとって、目の前の犬の餌のような代物は、貴重な生存の糧であった。
「皆さん、見てごらんなさい! こんな卑しいみなしごが、我らが誉れ高きリントブルミア魔導乙女騎士団の同胞だとどうして信じられましょうか! ああ、騎士の風上にも置けぬ下女! いえ……下郎!」
マリアのその言葉に、食堂は静まり返った。中には乾いた笑い声を漏らす者もいたが、ほとんどの騎士は顔を背け、我関せずの姿勢を貫いている。
騎士団において、私の性別に触れる行為はタブーとされていた。ドンカスター家がその事に関わらぬように圧力をかけているからだ。
しかし、そんな事情などマリアにはお構いなしだ。何故なら彼女の一族ベクスヒル家もまた、ドンカスター家と並ぶ騎士の名門だったからだ。
「騎士の風上にも置けない、ね」
私は声を震わせる。
ぎこちない笑みを作り、何気ない風をあくまで装い、精一杯言葉を紡いだ。
「……それは、随分と名誉なことだね」
「……!」
マリアの顔がさっと赤くなる。私のささやかな反抗に、彼女はいたく気を悪くしたようだ。
「この! ゴミ屑の“罠係”の分際でッ!」
マリアは私の頬にビンタを喰らわすと、近くのコップを掴み上げ、中の水を私の顔面へとぶちまけた。
「ふんっ」
マリアは鼻を鳴らす。
「皿の破片はしっかりと掃除しておいてくださいまし。貴方は“罠係”なのですから」
食堂に沈黙が訪れる。
マリアが去った後、私はハンカチで顔を拭き、栄養補給に戻るのであった。
これは取るに足らない私の日常の一場面だ。強いて普段との相違を上げるとするならば、この日は小さな反逆に及んだこと。情けないことに、私はあれで彼女に一矢報いたと内心得意げになっていた。
騎士団において、私は最下層の人間だった。常に他人の顔色を窺い、罵詈雑言を吐かれても、暴力を振るわれても必死に耐えた。
生きるためだ、仕方がない。苦痛の日々をそう自分に言い聞かせてやり過ごす。
だが、時々考えてしまう。
私は何のために生きているのだろう。
ただ苦難に苛まれるだけの人生に一体何の意味が____
それは意味のない上に有害な問い掛けだった。そんな事を考えていても、ただ辛く苦しくなるだけで、現実は何も変わらない。
……変わらないのだ。
精一杯の反逆に出たその日の午前、私の所属するアメリア隊の他の面々が剣の鍛錬に励む中、私は暗い倉庫の中にいた。だだっ広い空間には無数の木箱と、馬の繋がれていない十数台の馬車。人間は私一人だけだ。
リントブルミア王国の首都エストフルト。その一画に位置する国有倉庫街で、私は一人荷造りの仕事をしている。これも剣を握るよりも箒を握っている時間の方が長い“罠係”に与えられた大切な使命の一つだ。
決算日が近付き、国は不要に倉庫に貯め込んだガラクタを国外に売り払う計画を立てていた。私はリストアップされたそれらを整理してまとめ上げ、馬車に詰め込む作業の最中だった。
こんな業務は普通、騎士団の仕事の範疇ではないのだが、明日まとめ上げたこれら荷物の運搬を我らアメリア隊が護衛する任務のその延長で、私への嫌がらせのためだけに隊長がわざわざこの仕事を引き受けたらしい。わざわざ、だ。
売却リストと照らし合わせ、私は次々と倉庫の中の荷物を馬車へと運んでいく。
魔法と薬物による人体改造を施された私の筋力は、あくまで同年代の女子のそれと大差ないのだが、複十字型人工魔導核____持ち主に魔導の力を授ける赤い宝珠を装備することにより、その腕力は熊にも匹敵するようになる。
そのため、重い荷物の運搬も私のこの細腕で軽々とこなせるのだ。
倉庫の内部を行き来する私。
その時だ。
私の耳にふと不思議な声が響く。
『……おい……聞こえるか?』
僅かに聞こえる声に私はふと立ち止まる。男性の低い声だ。手に持つ木箱を床に下ろし、声の主を探すように辺りをきょろきょろと見回した。
誰もいない。気のせいだろか? そう思い、私は床に下した荷物を再び持ち上げる。
すると、またしても同様の声が聞こえてきた。
『おい、無視すんなよ! ここだここ!』
私はびっくりして木箱を固い地面に落としてしまった。
ガシャンと木箱の内部で乾いた音がする。
『落とすんじゃねえ! もっと俺を丁重に扱え!』
「え……えっと」
不思議な声は木箱の中から聞こえてきた。この中に誰かが?
私は慌てて木箱の蓋を取り、中身を調べる。
中には誰もいなかった、当然と言えば当然かもしれない。こんな狭い箱の中に人が閉じ込められている訳がない。
箱の中には絹織物、絵画、皿、壺、首飾り、その他装飾品の数々が詰められていた。何の変哲もない物品の山____しかし、それら中に私は珍しい物を発見する。
「……剣?」
それはボロボロの鞘におさめられた一振りの剣であった。鞘は、元は漆が丹念に塗られ黒い綺麗な艶を出していたのだろうが、今はその塗装が所々はがれ、深い埃を被っていた。
私は埃を払い、何とはなしに鞘から剣を引き抜いてみる。
「……綺麗」
____驚いた。
鞘から抜き放たれた片刃の刀身に私は思わず声を漏らしてしまう。その身はまるで鏡のように私の瞳を反射し、切っ先が白銀の煌めきを鋭く放っていた。朽ち果てた様子の鞘からは想像も出来ない美しいその姿に、私は感動を覚えてしまう。
これは確か、サン=ドラコ大陸圏外の東の島国アウレアソル皇国で作られたカタナと呼ばれる業物の類だったはず。書物で読んだことがある。
「綺麗」
再度感嘆の声を漏らす私。
それにしても、はるか遠くの国の武器が何故このような所に?
疑問に思い、首を傾げた次の瞬間____
『そりゃどうも』
「え!?」
白銀の刀身をうっとりと見つめる私に再び声が掛けられる。声の発生源は手に持つこのカタナからだ。
『おいおい、びっくりしてまた落とさないでくれよ、銀髪の嬢ちゃん……あ、いや……坊主か……』
……え、まさか。
『おい、坊主! 固まってないで何か返事をしろ!』
尚も刀身から聞こえる声。
……そんな……まさか……。
「け、け……」
私は幽霊に憑りつかれたかのようにぶるぶると震え出す。
『け?』
「け、剣が喋ったああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
私は絶叫した。思わず剣を放り投げ出しそうになるが、寸での所で思い留まる。絶叫した後、少しだけ冷静になり深呼吸をした。
再び目の前のカタナを見つめる。
……ま、まあそんな訳ないよね。
剣が____鉄の塊が喋る訳がない。
どうしたのだろう。幻聴の類を耳にするとは。
首を振る私。
『おう、坊主、ようやく気が付いてくれたか! 何だ、喋る剣は初めてか?』
「え、え……っと」
まさか、本物? 本当に喋る剣なの?
「貴方は……一体?」
ごくりと唾を飲み込んで、私は喋る剣に尋ねた。
『見ての通り、俺は剣だ。ただし、喋る剣だ』
それだけ?
「み、見ての通り……だね」
『そう言うお前は?』
尋ね返されて、私はじっとその綺麗な刀身を見つめる。そこには浮かない私の顔が映っていた。
『……どうしたよ、坊主?』
「ミシェル。リントブルミア魔導乙女騎士団所属騎士」
あり得ない話だが、その答えに喋る剣が躊躇いの表情を浮かべた気がした。
沈黙の後、剣が再び声を発する。
『お前、男だよな……?』
「うん、そうだよ。……でも、何で分かったの? 私を初めて目にした人は皆私の事を女性だと……そう思うのに」
『はん! 俺が抱いた女は星の数! 女のプロフェッショナルである俺にとって、男女を判別するなんざ朝飯前だぜ!』
剣から得意げな声が漏れる。そして、間を入れず、次の質問が繰り出された。
『でも、男のお前が何だって女装をしてまで騎士団に?』
「……」
『他の騎士団の団員たちは知っているのか? お前が男だってことを?』
「……」
『男の騎士は条約違反だぜ』
「……」
『それ、複十字型人工魔導核だよな? なんで男のお前が起動できてんだよ』
「……」
『お前はあれか……いわゆるカマって奴か?』
「……貴方は?」
私は質問をし返すことで、剣の問いを無視した。刀身を握る手に力が込められる。その口調は少しだけ苛立たし気だった。
「貴方は何者なの? 何でこんな所にいるの? どうして、剣が喋れるの? 何処で生まれたの? 誰かに作られたの? ねえ、名前教えてよ。私も名乗ったんだから」
私はムキになって一度にたくさんの質問を投げかけた。
その剣幕に押されてか、剣から若干上擦った声が返ってくる。
『お、おう……ちょっと待て! ええとな……この身体が造られたのは遥か東の島国のアウレアソル皇国で……知ってるか、アウレアソル? 大陸東部の青龍帝国圏を抜けたその海の先に黄金の皇帝の治める皇国があって……そこは俺たちの竜神信仰とはまた違う……』
焦ったように語り出す喋る剣。身の上話をしてくれるのかと思いきや、既知のうんちくを披露し出したので、私は適当に聞き流していた。
『ああ……んで、俺の名前なんだけど……名前、なんだけど……えーと……おい、ミシェル! 何だっけ、俺の名前!』
急に名前を呼ばれて、少しだけどきりとした。
私は肩をすくめる。
「知る訳ないでしょう……貴方の名前なんて」
『鞘だ、鞘! 鞘に俺の名前が書いている筈なんだが』
その言葉につられ、私は鞘を手に取った。その表面にじっと目を凝らす。
剣の言うように、確かにはがれかけの黒い漆の上に、金箔で何やら文字が記されていた。
しかし____
「……読めない」
と、呟く。
そこには“乃定”と二つの文字が刻まれていた。これは何と読むのだろう? 遠い国の言葉なので分からない。
『こっちに見せろ!』
「……うん」
言われた通りにする。こっちに見せろと言われても、この剣の一体どこに目が付いているのだろうか?
『えーと……何だっけかな……これ……何て読むんだっけか……』
「え、読めないの?」
少しだけ馬鹿にしたように驚いてしまう。
『うるせえ! えーと……んー……と……の、のじょう? お、およぶ……さだ? いや、もっとイカした名前だったはずだ! の、ぎまり……きゅう、さだ……? 確か、何とか“さだ”だった筈なんだけどなあ』
私の前で、ああでもないこうでもないと剣は唸る。
自分の名前ぐらいしっかりと覚えていれば良いのに。
しばらくすると____
『思い出した!』
刀身から嬉しそうな叫び声が発せられる。どうやら、自分の名前をようやく思い出したようだ。
『確か、カネサダ! この剣はカネサダって名前だった筈だ! そうに違いない!』
「……カネサダ?」
言い方に若干の違和感を覚える。この剣は? ……まあ、いいや。
『ああ、そうだ! 俺の名はカネサダ! よろしくな、ミシェル!』
「……うん」
カネサダは嬉しそうに声を弾ませる。
名前を思い出せて良かったね。私は意味もなくにっこりとした。
私は数度頷き、彼? を鞘に戻す。そしてそのまま、元の木箱に収納した。
蓋を閉めたその折り____
『ちょ、ちょい! お、待てよ! ミシェル! 待てって!』
木箱の中から慌てたカネサダの声が聞こえてくる。
『ば、馬鹿! お前! 俺をどうするつもりだ! どうして箱に戻しやがる!?』
焦るカネサダ。
……どうするもなにも。
「荷造りの途中だから」
私は淡白に答える。
『馬鹿! 俺は“よろしくな、ミシェル!”と言ったんだぞ!?』
カネサダは怒りを露わにして叫ぶ。
『いいから、ここから出しやがれ! 出すんだ、相棒!』
木箱の中でぎゃーぎゃーと喚くカネサダ。
剣なのに私などより余程よく喋る。
荷造りの作業はまだまだ残っている。私は彼の言葉を無視して、蓋を閉めた木箱を馬車へと積み込んだ。
作業に戻る私。
幌の影に隠れて尚、その木箱からは男性の声が聞こえ続けた。